カレー大好き
未由季
カレー大好き
「……ただいま」
部屋に戻ると、恵理の姿はなかった。出かけたのだろうか。なんだ、びくびくして損した。安堵の息をつく。
靴下を脱ぎ捨てると、ポケットからスマホと財布を取り出し、テーブルに放った。ソファに身を投げ、大きく伸びをする。ネカフェで一晩明かしたためか、全身が凝り固まっていた。片手で首の裏を揉みながら、くつろげる体勢に座り直す。
腹が減った。
何かないかとキッチンを覗く。ガス台に鍋が乗っていた。匂いだけで中身がわかる。カレーだ。
鍋の蓋を取ると、ほわりと湯気が立ち上った。タイミング良く、炊飯器がメロディを奏でる。俺は唾を呑み込んだ。水切りカゴからどんぶりを取り上げる。いちいちカレー皿なんて出している余裕はない。
どんぶりに米をよそい、カレーをたっぷりかけると、スプーンを咥えてテーブルに移動した。思い出して、冷蔵庫から生卵をとってくる。
「そんなことして、作った人への冒涜じゃない?」と言う恵理の前では、カレーに生卵なんてかけられない。しかし今、恵理は不在。今日くらい俺の好きに食ってもいいだろう。カレーには福神漬けでもらっきょうでもない、生卵だ。
しかし、うーん……。
久しぶりに食べた生卵カレーは、なんだか記憶と違う味だった。
まあいい、とにかく腹は満たされた。
壁の時計を見やる。この時間にいないということは、恵理はきっと夜まで帰らないつもりだろう。心配はいらない。カレーを作ってくれたということは、恵理はもう怒っていない。前にケンカしたときも、恵理はカレーを作り、俺たちは仲直りした。
ひと眠りするため、寝室に入る。ベッドサイドに、恵理からの手紙を見つけた。面と向かって言えないことなど、彼女は手紙にして伝えてくる。
まだ少し痛む頬を撫でて、俺は便せんを開いた。
『気持ちが落ち着いてきたので、手紙を書いています。昨日の夜、亮ちゃんが出て行ってから、色々考えてみたんだ。
わたしたち、いつからこんなふうになっちゃったんだろうね。
最近のわたしは、亮ちゃんに対して優しくできていなかったのかなと反省しました。一緒に住むようになって安心したというか、亮ちゃんのことを彼氏じゃなくて、家族として見てしまっていたのかもしれません。
だから、亮ちゃんが浮気したのは、わたしにも原因があったのかな。
付き合いはじめてから今日まで、亮ちゃんはずっとわたしのわがまま聞いてくれて、優しかったのにね。
風邪をひいたとき、亮ちゃんはほとんど寝ないでわたしの看病してくれたよね。わたしが洗濯を間違えて、亮ちゃんのお気に入りのシャツだめにしちゃったとき、亮ちゃんは笑って許してくれたよね。亮ちゃんが牡蠣を食べられない体質だってこと忘れて、中華炒めにオイスターソース使ったときも、怒らないでいてくれたよね。
亮ちゃんがわたしにしてくれたみたいに、わたしも今度からは亮ちゃんのことを大切にしたいです。
あの彼女とは別れて、わたしとやり直してほしいです。
昨日はついカッとなって、殴ったりしてごめんね。
でもね、どうしても知っていてほしかったの。亮ちゃんのことを一番にわかっているのは、わたしなんだよ。』
胸が苦しくなって、俺はベッドに倒れ込んだ。瞼を閉じると、頭の中に恵理と過ごした思い出が駆け巡った。
手紙の中で、恵理は俺を蔑ろにしていたのではと後悔していた。
確かに、ここ最近の俺は恵理に構ってもらえず寂しさを募らせていた。つい魔が差して、浮気に走ってしまった。今までの俺なら恵理以外の女に誘われたところで、断じてなびかなかったはずだ。
寂しいからといって、浮気をしていい理由にはならない。
そうでなけりゃ、世界は浮気や不倫だらけだろう。
それに振り返ってみれば、俺にだってどこかで恵理の存在を軽んじていたところがあったはずだ。疲れているからと、恵理の話をろくに聞いてやらなかった。彼女との約束を守らなかった。
恵理が帰ってきたら、もう一度ちゃんと話をしよう。
昨晩はお互い感情的になりすぎていた。恵理は俺を殴り、追い詰められた俺は部屋を飛び出した。一晩、ネカフェでまんじりともせず過ごした。
だけど、今ならきっとお互い冷静になって向き合えるはずだ。
浮気相手とは、昨晩のうちに話をつけていた。彼女に浮気がバレたと打ち明けると、相手は面倒事はごめんだとばかりに、あっさり引き下がった。もとより、初めからお互い遊びの関係だと承知していた。今もこれからも、俺が本気で好きなのは恵理だけだ。
彼女を傷つけてしまったことを、これから一生かけて償っていこう。
そう心に決めて、俺は手紙の続きへと目を落とした。
『亮ちゃんのだらしないところも、わたしだから許せるんだよ。
でも正直言うと、少しは許せない部分もあったりするんだ。
脱いだ靴下をその辺に放り出しておくの、わたしは何度もやめてって言ってるのに亮ちゃん聞いてくれないよね。あと、作ったばっかりのカレーをわたしに隠れて食べちゃうのもやめてほしいな。今度からわたしがいいって言うまで、カレーには手をつけないでおいてね。カレーはね、一晩置いたほうが絶対においしくなるんだから。
これからもずっと亮ちゃんと一緒にいたいから、小さい約束事でもきちんと守ってほしいかなと思います。』
帰ってすぐ、靴下を脱ぎ捨てていたことを思い出した。恵理が帰宅する前に、片付けておかなければ。
――だけど、体がだるい。ベッドから起き上がるのさえ面倒くさい。
『と言っても、亮ちゃんのことだから気をつけるのは最初のうちだけ、すぐにまたわたしの言ったことなんて忘れちゃうんだろうな。
同棲をはじめるときにした、浮気は絶対しないという約束を、亮ちゃんは破ったんだもんね。
だから今回は、手紙に書いて残しておくことにしました。そうすれば絶対忘れないでしょ?
約束! 今日作ったカレーは食べないこと!
今日のカレーは、わたしの好きな牡蠣カレーだから。ペーストにした牡蠣をたくさん入れて煮込んでみたの。亮ちゃんはお医者さんからオイスターソースを禁止されるくらい重い牡蠣アレルギーなんだから、絶対に食べちゃだめだよ。
……そろそろ呼吸が苦しくなってきた頃かな?
亮ちゃんならきっと、鍋の中のカレーに気付いた瞬間、我慢できずに食べちゃうと思ったんだ。亮ちゃん、カレー大好きだもんね。食べたらすぐに横になりたがる亮ちゃんのため、この手紙は寝室に置いておくことにします。それなら見逃さず、読んでくれるでしょう?
だから言ったでしょう? 亮ちゃんのことを一番にわかっているのは、わたしなんだよ。』
カレー大好き 未由季 @moshikame87
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