第59話 嘘の終わり
ブルームバーグ伯爵邸が燃え落ちてから三日もの時間が流れていた。
有力貴族による陰謀、そしてそれを為した者の焼身自殺。
口さがない人でもその裏に何かの意思を感じざるを得ない出来事だ。
でも私は知っている。
それは口封じだとか、罪を押し付けられたのではなく、ひとりの人間が、使命感を持って行ったことなのだと。
私の為に……。
「大丈夫かしら? ミシェーリ」
「あ……」
物思いにふけっていた私は、女の人の声で我に返る。
私が居るのは、今までの生活とは縁遠いくらいに真っ白で綺麗な部屋。
その窓際に置かれた絹のソファに腰かけて、ぼうっと外を眺めていたのだ。
この部屋はルドルフ殿下が用意してくださった、完全に外界から隔離された安全場所で、しばらくはここで暮らすように言われていた。
「えっと……うん。ちょっとだけ、考え事をしてました」
「……もう」
いつの間にか私の隣に座っていた女性は、私と同じ色の瞳に不満を宿らせる。
「敬語なんて使わなくていいのよ。だって、私たちは親子なんだから」
「……はい」
エリザベート・フランソワ・アスター。
私を産んでくれたお母さん。
初めて会った時には病気なのかと思うほど痩せこけていたが、今は少し血色もよくなって、少しずつ回復してきている様に見える。
きっとそれは私と……自分の子どもと一緒に居られて、心労が減ったからだと思う。
十何年もずっと私の心配をしてくれた、とっても優しいひと。
でも私は、そんな人をまだお母さんとは呼べずにいた。
「ああ、私も謝らないといけないわね。今はベアトリーチェと名乗っているのよね」
「そ、それは……その……ミシェーリでも、構わないで……よ」
敬語を無理やり引っ込めたせいで、少し変な言い回しになってしまった。
私の反応を見たエリザベートさんは、少しだけ眉根を曇らせる。
子どもに無理をさせてしまった、でも親だと思ってもらえないことも悲しい。
私はそんな感情を表情から読み取り、軽く自己嫌悪に陥った。
「……ごめんなさい」
私の人生で一番なじみ深い言葉が口をついて出る。
でもその言葉は、エリザベートさんをさらに困らせてしまった。
「……ベアトリーチェ」
エリザベートさんは私のもうひとつの名前を呼びながら私をぎゅっと抱きしめる。
「少しずつ時間を取り戻させて、ね?」
「う、うん」
私はうなずいてからエリザベートさんの背中に手を回す。
そうして少しの間、私たちはお互いの存在を確かめ合っていた。
「そうそう、ダンテなら大丈夫よ」
ダンテさんの名前を聞いて、思わず私は体をビクッと反応させてしまう。
私がずっと考え事をしていたのは、まさにその人が原因だったからだ。
あれから三日も経ったというのに、その安否は不明のままだ。
ダンテさん自身が来ることはなかったし、ルドルフ殿下を始めとして誰も彼のことを教えてはくれなかった。
「あの子ね、私を落とす時に、ごめん、必ずお詫びはするから待っててくれって言ってくれたのよ」
「ダンテ、さんが……?」
エリザベートさんはやっぱり私のお母さんなのだろう。
私の考えていることくらい分かってしまうのだ。
だけど、私も分かる。
エリザベートさんが、ダンテさんの言葉を信じているからそう言っているのではなく、私を安心させるために言ってくれているのだという事を。
ここでもう一度謝ってしまったら、エリザベートさんを困らせてしまう未来しか見えない。
だから私は曖昧にうなずきながら、そうなんだと相槌を打つ。
「あの子は本当に強い子に育ってくれたのね。お母さんは嬉しいわ」
「うん……」
私がもう一度うなずくと、エリザベートさんは困ったように笑い、私の頬を両手で包む。
そして私を元気づけてくれる言葉を贈ろうと、口を開いたところで――。
「失礼、少し時間をいただいてもいいかな?」
部屋の扉がノックされ、柔らかいけれど少し怖い感じのする声が聞こえて来た。
私とエリザベートさんが返事をすると、一拍置いてから扉が開き、声の主が入ってくる。
「女性の部屋に入るのはあまり慣れていないのでね。無礼があったら遠慮なく行ってくれたまえ」
「あ、はい……」
正直、私はルドルフ殿下が苦手だ。
いつもニコニコと微笑みを絶やさないが、この人は瞳の奥に凄く冷たいものを飼っている。
それが……怖い。
そんな私の心の内などいざ知らず、ルドルフ殿下は私たちの前に立つと、いつもと変わらない調子で話し始める。
「さて、今回私は君たちにとっていい話と普通の話と悪い話を持ってきたんだけど、どれから聞きたい?」
私はエリザベートさんと顔を見合わせてから、
「悪い話からでお願いします」
そう申し出た。
「ああ、すまないね。実はいい話と悪い話は切り離せないから一緒に聞いてくれないかな」
なら始めから言わないで欲しい、とは思ったが口には出さないでおく。
「実はブルームバーグ伯爵の死体が発見されてね。それはもう壮絶な顔で亡くなっていたらしいよ」
「…………」
「それで、それが悪い話と切り離せない理由は何故ですか?」
私を庇うようにして、エリザベートさんが尋ねる。
「殺したのは君たちも良く知るダンテくんだからさ」
「…………っ」
そうなるだろうというのは分かってはいた。
でも、そうなってしまったという事実を知ってしまうと、やはり衝撃は大きい。
あの優しいダンテさんが、直接手を下すことまで決意させたのは、間違いなく私を思ってのことだろう。
「何故分かったのかというとね、一緒に倒れていたからだよ」
「え……?」
火事で、死んでいて、一緒に倒れていて……。
色んな情報の断片が私の頭の中で渦を巻く。
その意味することは、簡単に想像できるはずだが、私はその結論に達したくなかった。
「敵を討つのに深追いしすぎたみたいだね。煙を吸い込んでしまったらしい」
「……結論は、どうなったのでしょうかルドルフ殿下」
最悪を認めたくないのか、エリザベートさんがもう一度確認する。
ただ、彼女の声も私と同じように震えていた。
「――――だよ」
初めて知った。
本当に聞きたくない言葉は、聞こえなくなるんだって。
「――――くぅぅっ」
でも、私の心の奥底から湧き上がってくる感情だけは誤魔化せない。
辛くて、悲しくて、痛くて。
私の中にあった、暗くてドロドロした感情全てが一気に出てきてしまっていた。
「あ…………」
体は空気を欲して吸おうとしているのに、魂は泣きわめくために吐き出そうとする。
二つの異なる行動がぶつかり合ってどうにも出来ずに澱みだけがたまっていく。
私の体は大きすぎる感情を受け止めきれなくて何もできなくなってしまっていた。
「……その娘は大丈夫かな?」
ルドルフ殿下のまったく心配してなさそうな声が聞こえてくる。
肝心な言葉は拒絶したのに、こんなことだけはきちんと聞いてしまう、都合の良すぎる私自身に嫌悪感が湧いてきた。
「ベアトリーチェ! 落ち着いて、落ち着いて……!」
エリザベートさんが必死になって呼び掛けてくれる中、私は耐えきれなくて目をつぶり、自分の世界に閉じこもる。
そんな私をエリザベートさんは固く抱きしめ、
「大丈夫だからね、大丈夫だから。私はずっと一緒に居るから」
と囁いてくれる。
その声は本当に真剣で、心から私のことを心配してくれているのがよくよく理解できた。
「ふむ、どうにもいけないね。ちょうど最近新しいお世話係を雇ったんだ。彼を呼ぼう」
対照的に、ルドルフ殿下の声はどこか他人事のようで真剣味に欠ける。
「それよりもお医者様を! このままだと
「じゃあ彼に呼ばせるといい」
「そんなのんきなことをっ」
こんなの私が勝手に迷惑をかけているだけなのに。
そんなに一生懸命にならなくても、なんてことまで考えて……気づく。
私は世界中のなによりも大好きだったあの人のところに逝きたいのだ、と。
「お願いっ! ミシェーリを助けてっ!!」
だんだんエリザベートさんの声が遠く、小さくなっていく。
それに伴うようにして、あれだけ苦しかったのが嘘のように楽になってしまう。
それだけ私は、ダンテさんの側に逝けることが嬉しいんだ。
――ごめんなさい。私、我がままだよね。ごめんなさい。
薄れていく意識の中で、私は何度も謝って――。
「申し訳ございません。大丈夫ですか、ベアトリーチェお嬢様」
とっても温かく、どこか懐かしい声が聞こえた気がして、私の意識は急速に引っ張り戻されてしまう。
「お嬢様?」
「――あ」
止まっていた息が急激に動き出し、熱い塊が口の中に飛び込んで来た。
あれほど死にたがっていたのに、なんて現金なんだろう。なんて、どこか冷静な部分が私自身を罵倒してくる。
そんな声を無視して、私は目を開けた。
「よかった、ご無事そうですね」
一番最初に飛び込んできたのは、私のことを見て嬉しそうに微笑む男の人だ。
年齢は私と同じくらい。
髪は薄茶色で、顔の左半分を包帯でぐるぐる巻きにしている。
その顔立ちは――。
「ああ、紹介しておこう。彼が新しく雇った……名前はなんだったかな?」
「クリスです。殿下、覚えていて下されば――」
「…………え?」
包帯で隠れていない方の顔が、あまりにも私の大好きな人とそっくりだったから、名前が違うことに驚いてしまった。
呆然としている私に、クリスさんは一礼してから後ろに下がる。
「お加減はいかがでしょうか?」
「あ、え……?」
本当に違う人なのか、私には判断がつかなかった。
でも、包帯から覗く風貌は、大好きな彼の自信に満ち溢れたものとは違って、どこか頼りなさそうな雰囲気が漂ってくる。
「彼は、ブルームバーグ伯爵……今は伯爵じゃないけど。とにかくアイツが雇っていた、ダンテくんの影武者だよ」
「かげ……」
「どうも機を見て入れ替えるつもりだったらしいよ。ダンテくんはじゃじゃ馬だからね~」
これは……現実なのだろうか。それとも死ぬ間際に見る夢なのだろうか。
目の前の現実と思考の間に溝があるせいで、うまく頭が働かない。
何が本当で何が虚構なのか、ぜんぜん分からなかった。
「ク、クリス……さん?」
「はい」
クリスさんは、ダンテさんでは絶対しないような、どこか怯えを含んだ表情で私のことを見つめてくる。
私はソファから立ち上がると、ゆっくりと彼に近づき、顔に手を伸ばした。
そして、顔の大部分を覆う白い包帯に指先をひっかけて、少しだけずらす。
包帯の下には私の予想していたものの代わりに炎の手で愛撫された証があった。
「彼は役者だったらしいんだけど、そんな風になったらもう働けないからね。仕方なく私が雇ってあげたというわけさ」
「……ごめんなさい」
私が手を引っ込めると、クリスさんは恥ずかしそうに包帯の位置を直す。
「お見苦しいものを……申し訳ありません」
「そんなことは、ないです。悪いのはいきなりこんなことをした私だから……」
お互いに何度も頭を下げ合ってしまう。
こんなことはダンテさんとだったらありえない。
ダンテさんだったら
でも――望みを捨てきれなかった。
私は「ごめんなさい」と断ってから、クリスさんの顔を両手で包むように持つと、ひとつだけ残った右側の蒼眼を覗き込む。
「あの、あなたの名前は、なんですか?」
「僕は…………」
戸惑い。
怯え。
驚き。
色々な光が瞳を輝かせる。
その中に――。
「クリス、と言います」
懐かしい、それでいてとてもとても身近な
それで、分かった。
だからあの時、あんなことを言ったんだ。
「……うん」
私の瞳からとめどなく涙が溢れ出す。
嗚咽を繰り返すせいで胸と肩が何度も震えてしまう。
私は自分の感情を抑えることが出来なかった。
「ミ、ミシェーリ」
エリザベートさんが先ほどと同じように苦しみ始めたと思ったのか、心配そうに声をかけてくれる。
でも、違う。
今度はさっきと違う感情で胸がいっぱいになっただけ。
「あの……」
嬉しい。
お別れをしたのは、このためだったのだ。
別れなければ新しい出会いは生まれないから。
「は、はいっ。なにか御用でしょうか?」
彼は今どんな表情をしているのだろう。
涙でぼやける視界では、それすら確認することが出来ない。
それでも彼に焦点を合わせると、
「これからはずっと、一緒に居てくださいっ」
思い切り抱き着いた。
「クリスさんっ」
優しいぬくもりと、なによりも愛しい匂いに包まれる。
私と彼の関係は、最初から最後まで辛く切ない嘘と偽物だけだった。
でも、これからの私たちを待っているのは、甘い甘い嘘と苦い真実。
そして、とっても素敵な恋の物語だ。
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