第58話 終焉の幕が上がる

 ダンテはアンジェリカの亡骸から、短剣を引き抜く。


 もし彼女の心臓が脈打っていたのなら、それに合わせて血が流れ出るはずだ。


 しかし、腹部の傷口からは、一滴たりとも命の証は湧き出てはこなかった。


「……さよなら」


 別れを言の葉に乗せ、ダンテは立ち上がる。


 ダンテにはまだ、やることが残されていた。


 血に濡れた短剣を持ったまま、部屋の外に出ると、


「うっ」


 赤い炎がダンテを出迎える。


 まるで何かが這いずみ回った跡のように炎の道が廊下に伸びていた。


 恐らくは誰かが油をまいて火を放ったのだろう。


「そういえば……」


 ふと、剣戟の音がまったく聞こえて来ないことに気づく。


 どのくらい炎が広がっているのかは分からないが、襲撃側が巻き込まれるのを嫌って退いていったのだろう。


 火をつけた奴は、それを狙っていたのだ。


「ちっ」


 先ほどまで一階を占拠していたルドルフの兵が居ないということは、現在、フェリドは地下室まで行くことが出来るようになったということである。


 ――逃げられる。


 フェリドは腐っても有力貴族のひとりで、領地には膨大な数の私兵を抱えている。


 今ここから脱出されることだけは、絶対に避けなければならなかった。


 ダンテは袖で口元を覆うと、アンジェリカが教えてくれた隠し通路へと急いだ。






「今さら舞台を降りるのは無しだろ――」


 地下室の扉を蹴破ると同時に、中の人物へ向かって嘲る。


「伯爵」


 部屋は地下と思えないほどに広く、その中は大嵐でも通り過ぎたのかと思うほど物が散らばり、混沌こんとんとしていた。


「くそっ」


 それを為した男――フェリドは、手に持っていたツボを投げ捨てると、武器でも探しているのか慌てて首を左右に振る。


 まだ隠し通路への道は荷物で塞がれているのか、逃げる様子は見られない。


 最終的に、長い柄のついた三叉の燭台を手に取り、火が点いているロウソクの切っ先をダンテへと向けた。


「貴様さえ居なければ……貴様さえ……」


 フェリドは呪詛のようにダンテへの恨み言をブツブツと呟く。


 ただ、それはダンテにとってお門違いのことであった。


「俺? 違うね。お前の責任だよ」


 ダンテが順手に持った短剣を横なぎに払うと、ヒュッと鋭い悲鳴の如き風切り音が鳴る。


「お前が始めたことだ。お前がやったことが、お前に返って来ただけだ」


 フェリドがガルヴァスを殺さなければ、ダンテはダンテにならなかった。


 皇帝の甥として、ジュナスとして安穏と生きていたはずだ。


 血に濡れた短剣を手に、フェリドの前に立ちはだかったりなどしないだろう。


「黙れっ!!」


「お前が殺した! 俺の父親も、アンジェリカもっ!!」


 フェリドの声に負けじとダンテは声を荒らげる。


「俺のことも……!」


 もう、ダンテはダンテとして生きることなど出来ない


 第一位の皇位継承者なんて肩書は、それを利用しようという悪党とトラブルを呼び寄せることだろう。


 それを防ぐためには、国の加護が必要になる。


 ジュナスに戻る必要が、ある。


 だから、殺された。


「誰からも望まれぬ存在を処理してやっただけだ! お前は生まれたことそれ自体が罪なのだ!!」


「皇帝の椅子なんか欲しくもねえっ。勝手に俺らをうとむ奴らが居て、お前がそいつらを利用しただけじゃねえかっ!」


 もしもの世界など語ることは出来ないが、今のダンテは皇帝になることなど望んでいなかった。


 ダンテが心から望む存在ものはたったひとつ。


 ――しかし、それは絶対に手に入れることは出来ない。


 それならば……。


「お前が生きていたら、アイツにずっと危険が付きまとう」


 何をおいても、愛する者ベアトリーチェを守る。


 どんなことをしても。


 どんな罪を背負おうとも。


 それがダンテの選んだ答えだった。


「伯爵、今度はお前の番だ。受け入れろ」


 ダンテは短剣を順手に持って眼前に構える。


 血染めの刀身が、フェリドの持つロウソクの光を散らして周囲を紅く塗りつぶしていく。


 ただ死だけが、この世界の真実とでもいうかのように。


「私は死なん、まだ終わらんっ」


 刃に籠められた殺意は、果たしてダンテのものだけであろうか。


 赤黒く光る短剣には、フェリドが今まで喰らい、踏みつけ、利用してきた数多の命と積み重なった恨みが宿っている様であった。


「てめえに許されるのは棺桶だけだっ!」


 叫ぶと同時にダンテは前方へと飛び出す。


 一歩――剥き出しの床を踏みしめ。


 二歩――転がる酒樽を越え。


 三歩――木箱に立てかけられた絵画を蹴り飛ばし。


 ダンテは一刹那でフェリドの眼前へと到達していた。


「なっ」


 驚いたフェリドが遮二無二しゃにむに燭台を突き出してくる。


 その攻撃はあまりにも稚拙で洗練されておらず、ダンテを止めるには十全じゅうぜんではなかった。


 ダンテはその先端に付いた炎をロウソクごと斬り払い、三又の付け根を空いている左手で掴む。


「…………」


 フェリドが如何に人から恐れられる存在であったとしても、それは背後に強大な権力があってのことだ。


 今の彼は、ただひとりの男でしかない。


 詐欺師として生き、悪党どもの巣窟であるスラムを住処にしているダンテの前では、あまりにも容易い存在でしかなかった。


 ダンテはぐいっと燭台を引き――。


「ま、待てっ」


 無感情に、眉一つ動かさず、ダンテは持っていた短剣を、フェリドの腹部に突き立てた。


 今、ダンテを突き動かしている一番の理由は、怨嗟でも怒りでもない。


 ただ、目の前の男が生き延びてしまったら、必ずベアトリーチェに害をなすという確信からだ。


 フェリドは強い欲を持ち、何があっても絶対に止まれない。


 飽くなき欲を満たすために全てを飲み込んでいく底なし沼のような存在だ。


 いずれは必ず上に向けて手を伸ばすだろうし、そうなれば、必然的に皇族であるベアトリーチェがだろう。


 そうなってからでは遅いのだ。


「あ……が……」


「お前は、ここで終わるのがむしろ幸福だ。娘を手にかけても、自分の保身しか考えられないような奴ならな」


 そう言い切ったダンテの心を、昏い虚無が覆っていく。


 ダンテの言葉は、ただの言い訳だ。


 初めて人を殺したことに対する自己弁護でしかない。


 それが自覚できるからこそ、ダンテの気分は最悪に堕ちたのだった。


「お……ま……え……」


「アンタの娘……とは違うところに行くか」


 だが、と続けながら、ダンテは短剣を引き抜く。


 娘とまったく同じ色の血が噴水のように吹き出して、ダンテがもう一度悪意に染まる。


「安心しろ、いつかは俺も逝くことになるさ」


 フェリドが無意味に唇を動かし、声にもならない声でダンテを責める。


 そんなフェリドを視線だけで見下ろしたダンテは、


「あばよ」


 短く別れを告げた。


 フェリドは恨めし気にダンテを見つめながらゆっくりと崩れ落ちていき……。


 ――ボッという音と共に、一際大きな光が二人を照らす。


 先ほどダンテが切り払ったロウソクの炎が、絵画か何かにでも燃え移ったのだろう。


 炎は瞬く間に広がっていき、全てを飲み込んでいく。


 その間にもダンテは動こうともせず、フェリドの遺骸と共にただ立ち尽くしていた。


「……終わった、か」


 ぽつりとダンテが呟いた通りに舞台の幕は下りた。


 フェリドは死に、ベアトリーチェの未来から悪意が減った。


 ただ、ダンテの逃げ場も無くなってしまったが。


 パチパチと火のはぜる音を耳にして、ダンテは自嘲めいた笑みを浮かべる。


「終わったな……」


 このままだとダンテの命も無いというのに、一切動こうとはしなかった。


 やがて炎が全てを優しく包み――。

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