第57話 そして婚約は破棄される
ダンテからすれば、逆上したフェリドが突っかかってくるのは想定内で、彼をあしらうだけの体力も技量も、十分に持ち合わせていた。
もしフェリドに付き従う衛兵が居るとすれば、減刑を餌に操ることが出来ると考えていた。
それでもダメな場合を考えて、残った衛兵の中に買収した連中を紛れ込ませてもいた。
そこまで備えていたから――、
「貴様ごとき若造がぁぁっ!!」
想定していなかったのだ。
まさか、ダンテを守るためにアンジェリカが自らの体を短剣の前に投げ出すなど。
「アンジェっ」
短剣が貫いたのは右腹部。
ダンテに向けられたアンジェリカの背中から、赤い凶刃が顔を覗かせる。
その根元からは、まるで泉のごとく真っ赤な血が溢れ出し、ドレスを染め上げていく。
医者ならぬ身のダンテにも分かる。
今、アンジェリカは決して助からないところを貫かれたのだと。
「……ダンテ、さま……」
アンジェリカがゆっくりと振り向く。
薄く化粧を施された彼女の顔から、だんだん生気が失われていくのがはた目にも明らかだった。
「な……」
なぜこんなことに?
なぜ守った?
なぜ、なぜとダンテの頭の中で疑問が渦巻く。
頭では既に答えが出ている。
ダンテを愛してくれているから守ったのだ。
しかし、その答えを感情が拒む。
ダンテはアンジェリカへ偽りの愛しか与えていなかった。
そんなものに命をかけるほどの価値はなかったはずだ。
だが、アンジェリカにとっては違ったのだ。
アンジェリカにとって、それは真実の愛で、彼女自身の命をかけるに能う、なによりも大切なものだった。
「よかった……ご無事で……」
「アンジェっ」
木の葉が舞うように、その場に崩れ落ちるアンジェリカの体を、ダンテは必死に抱きとめる。
「アンジェ、そんな……」
アンジェリカは傲慢な女だった。
ベアトリーチェをいじめ、他者を人とも思わぬ扱いを行ったこともある。
それでもこんな風に、実の父親に殺されて終わっていいわけがなかった。
道具として扱われ、まともな愛も知らずに死んで逝くような、寂しい人生を送らなければならないほど罪深くはない。
「ア、アンジェリカ……」
フェリドが己のやったことが信じられないとでも言うかのように、娘の血で穢れた自分の手を見下ろす。
その瞳に、先ほどまで見られたような激情は、ない。
「……終わりだ」
誰かが呟く。
そうだ、終わった。
疑惑ではない。
フェリドは娘殺しの罪を、今はっきりと犯したのだ。
アンジェリカの命と共に、フェリドの運命も……終わる。
「ああぁぁぁぁっ」
悲鳴が上がる。
途端、誰もかれもが争うようにしてこの部屋から逃げ出していく。
人生を捧げて来たはずの、守るべき主を見捨てて。
忠誠もなにも、あったものではなかった。
「そんな……これは、なにかの間違いだ……在りえない」
部屋に残っているのは、ダンテとアンジェリカ、それにフェリドだけ。
それ以外は全て逃げ出してしまった。
「そうだ、まだやり直せる……まだ……」
フェリドはそうぶつぶつと呟きながら立ち上がると、幽鬼のように歩き出す。
何を企んでいるのかは分からないが、もはや完全に逃げ道は塞がれ、フェリドが生き延びるのは不可能だった。
「アンジェ……すまない、私のために」
捨ておいてもかまわないと判断したダンテは、アンジェリカへと視線を戻す。
アンジェリカに残された時間を少しでも延ばすために、短剣の根元にハンカチを当てて手のひらできつく押さえる。
「……よいのです。どうせ、私は……」
「違うっ。私は君の助命を願い出るつもりだったんだ」
フェリドが犯した罪は、とても重い。
例え皇帝自身が望んでいたとしても、一族郎党全て死罪に処してもまだ足りないほどの罪なのだ。
アンジェリカはフェリドと同じように、この場で死ぬか、処刑場で死ぬかの違いしかなかったのかもしれない。
「ダンテさま……やはり、お優しいです、ね……」
「ち……」
つい、反論をしかけてやめる。
ダンテが優しいか甘いかなんて問答は、まったく意味がない。
否定するなど更に必要なかった。
「……そう言ってくれて嬉しいよ、アンジェ」
少しでもアンジェリカの死が安らかであればいいのだ。
だからダンテは必死で笑顔を作り、血で汚れた手を片方だけ自らの服で清めてからアンジェリカの頬を撫でる。
「……おとう、さまは」
「……今は、居ない」
傷口の処置をしている間に、フェリドはいずこかへと去ってしまっていた。
しかし今ヤツのことを気に掛ける必要はない。
「恐らく、地下室の……隠し、通路からっ」
隠し通路の存在は、さすがのダンテであっても調べきれなかった。
フェリドがまだあきらめていなかったのはそういう理由があったからだろう。
ダンテはアンジェリカの口元に耳を寄せ、正確な場所を聞き取る。
「ありがとう、アンジェ」
話が終わっても、ダンテはその場を動こうとはしなかった。
もう、アンジェリカは長くない。
せめて彼女が逝くまでは、恋人として傍に寄り添うつもりだった。
「はぐ……っ」
アンジェリカが短く悲鳴を漏らし、苦痛に顔を歪める。
もう息をするだけで辛いはずだ。
それでもダンテとの会話を止めようとしないのは、それが彼女にとって何よりも勝る幸福だからだ。
それほどアンジェリカはダンテのことを愛していた。
好きで好きで仕方が無かった。
「ダンテさま……」
アンジェリカは熱のこもったエメラルドグリーンの瞳で、ダンテの左右で色の違うオッドアイを見つめる。
「なんだい、アンジェ」
ダンテは柔らかい微笑みを浮かべながら、何度も何度もアンジェリカの金色の頭から薄紅色の頬にかけてを撫で続けていた。
「よくお顔が見えませんの。もう少し、近づいていただけますか?」
血が足りなくなったからだろうか。
すぐそばにあるダンテの顔ですら、見ることが叶わなくなってきている様だった。
「いいよ、私の可愛いアンジェ。私ももっと近くで君の顔を見たいと思っていたんだ」
ダンテは偽りの愛をこめ、アンジェリカにとって最高の恋人を演じ続ける。
「まあ……」
ダンテはあえて顔同士が触れてしまうほど近くまで顔を寄せ、左の琥珀色の瞳と、右のサファイアの輝きを放つ瞳で、アンジェリカのエメラルドグリーンの瞳を覗き込む。
そんなダンテの悪戯心にくすぐられたか、アンジェリカがくすくすと笑い声をあげる。
「あの……ダンテさま。近すぎて……お顔が見えませんわ」
「そうかな?」
そう言ってダンテはついばむ様なキスをアンジェリカの頬に落とす。
最愛の恋人ならば、お別れのキスくらいするはずだから。
「私はこうしたかったんだ。だからいいんだよ、愛しいアンジェ」
「……ダンテさま」
ダンテはキスを終えると、もう一度アンジェリカと視線を絡め合う。
精いっぱいの気持ちを伝え、せめて幸せを感じながら最期を迎えて欲しかった。
ふと、アンジェリカの瞳に少しだけ不満が混じっていることに気付く。
「もしかして、頬じゃ物足りなかったのかな?」
図星をさされ、アンジェリカはついと視線を逸らす。
もし彼女に未来があるのなら、きっと否定したことだろう。
顔を真っ赤にして、そんなことありませんと強がりを言うのだ。
しかし、今だけは違った。
「えっと」と戸惑うそぶりをみせつつ、ねだるような表情を見せる。
だというのに彼女の顔色はどんどん蒼白になって行く。
死神の鎌はもう間もなく振り下ろされるだろう。
ダンテは十二分に偽物の恋人を演じた。
これ以上する必要は、ない。
そもそも、目も虚ろになってきたため、何が起きているのか、感じられなくなっているかもしれなかった。
「アンジェ」
ダンテはアンジェリカのおとがいに手を添える。
アンジェリカの口から歓喜の声――もしくはただの吐息か――がまろび出て、唇はダンテを迎え入れるかのように震えながらも少しだけ扉を開いた。
二人が出会ってから初めて、互いの唇と唇が触れ合う。
その前に、ダンテの名前が呼ばれたのは果たしてダンテの空耳だったのだろうか。
蕩けるように熱い吐息と、氷のように冷めきった息吹きが混ざり合い、互いの肺腑を犯す。
幾度も幾度も互いの間をひとつの呼吸が行き交ってから、ようやくダンテは唇を離した。
「……アンジェ」
ダンテが甘い声で呼びかける。
その呼びかけに応じる声は、亡い。
「俺は……いや、私は……」
ダンテは一度脱ぎ掛けた仮面を再び被りなおす。
例え嘘であっても、一度も本当のダンテを見せたことがなくとも、アンジェリカにとっては貴族という仮面をつけたダンテこそが本当のダンテだったのだから。
「素直に好意を寄せてくれる君のことが……嫌いではなかったよ」
ダンテはそういうと、全ての力を失ったアンジェリカのまぶたに手を持っていき、やさしく閉ざしてやる。
瞳を閉じたアンジェリカは、まるで眠る様にこと切れていた。
「例え、仇の娘でもね」
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