声優の結婚

@NEKO-CIDER

第1話

「人気声優TさんとKさんが結婚!」


 溜めていたアニメを見終わり、一息つこうとコーヒーを入れ、スマートフォンでTwitterのトレンドを開いて、まず目に飛び込んで来たのがそのニュースだった。

 思わずマグカップを持つ手に過度な力が入り、コーヒーが少しテーブルに零れた。

 ピンク色で、猫が型どられたマグカップ。一般的な成人男性が使うには、いささか可愛らしすぎるそれは、それもそのはず、先ほど結婚を発表した女性声優Tの代表作である女子高生のアニメキャラが、劇中で愛用している物を商品化したマグカップだった。

 10年ほど前に大ヒットしたそのアニメは、女子高生のガールズバンドの部活動を描いた作品だった。いわゆる日常系と言われるゆったりとした日々を描いたジャンルで、熱血ものではなかったが、等身大の女子高生たちが音楽を愛し、部活動を通した人間関係の中で、自分たちのキラキラと輝く瞬間を体験していく様子が、緻密な作画で描かれており、まさにこの機微こそが日本の誇るアニメだと熱狂したものだった。

 一時はメディアで「社会現象」と言われるほど大ヒットしたその作品の影響は、今でも至るところに色濃く残っている。コンビニで常時アニメのフェアが堂々と開催されているのも、鉄道でアニメのラッピングが施された車輌が運行するのも、USJでアニメ作品とコラボした催しが行われるのも、その作品がきっかけだったはずだ。


 当然、人気女性声優Tをはじめとした、声優陣の演技も作品を支える重要な要素だった。

 Tが演じたキャラクターは、他のメインキャラクターよりも後輩で、真面目で少しツンデレ、だけど流されやすいところもあり、「猫耳」の似合う、可愛らしさの塊のような女子高生で、当時かなりの人気キャラクターだった。

 声優とキャラクターを混同するなんて、おかしなことだと自分だって思う。だけど、そうならざるを得なかった。なぜなら、その作品の声優たちは、作中のキャラクターと同じように楽器を持ち、演奏し、ライブをしていたのだ。今では当たり前となったキャラクターと声優をシンクロさせた演出の先駆けともいえるライブは、かなり大きな有名会場でも行われ、ガールズバンドブームを巻き起こすほど大人気だった。

 キャラクターには処女性が求められ、テレビで特集される時に「彼女たちは恋愛ご法度なんです!」なんて、おもしろおかしく紹介されたこともある。もちろん、キャラクターとシンクロしている声優たちにも処女性が求められたし、それを理解している彼女たちは当時、恋愛なんてしないアイドルとして振る舞っていた。

 キャラクターに夢中になりながら、同時に彼女たち声優をアイドルとして信仰し、夢中になった。Tの愛らしい童顔、それに似合わぬ豊満な胸といったルックスもそうだし、その胸をネタにしたり、旺盛な食欲をネタにする愛嬌のある性格にもどんどん虜になった。

 かといって、自分は彼女の一番のファンだとか、結婚するつもりでいたとかではない。そこまでのファンだったなら、「こんな思いをするのなら花や草に生まれたかった」なんて詩的な名言をインターネットに残せるようなオタクになってたかもしれない。いや、残したいわけではないが…。

 だけどそれでも、あの作品や声優Tは、自分にとっての「青春」に密接に関わっていた。自分で思っている以上に、自分はTの結婚にショックを受けている。それを伝えるかのように、心臓の鼓動が異様に速く、ドクンドクンとハイスピードで忙しく騒いでいる。

 付き合えると思っていた女がイケメンに寝とられた、なんて簡単な感情ではない。

 自分にとっての青春に、いきなりピリオドを打たれたような気分だった。


 改めて読み返す結婚報告コメントには、こんな文言が並んでいる。

「これからも、人間として、役者として成長していけるように頑張ってまいります。」

 なんだそれは?「人間として成長」?それは結婚しなければできないのか?「役者として成長」?役者として成長したかったのか?それすら知らなかった。彼女を応援していると言いながら、彼女がそんなことを望んでいたことすら知らなかった。これからも変わらず、「アイドル声優として成長」していくものだと、勝手に思いこんでいた。

 彼女のことを何も知らなかった。彼女が「30歳までは恋愛禁止でがんばる」と言えば、30歳まで恋愛しないんだと鵜呑みにしていた。着々と裏で結婚の準備を進める相手がいるなんて、考えもしなかった。いや、考えてはいたのかもしれない、目を背けて考えないようにしていただけだ。


 沸々と、怒りがこみ上げてくる。そりゃ、お前はいいよ。みんなから支持される器用な人間で、表ではアイドルとして振る舞いながら、裏では「30歳になれば許される」と誰が決めたか分からない謎ルールに向けて、「人間として成長」するための、ジャンプアップするための土台作りを進めて念願叶ったかもしれない。

 だけど俺は、俺たちはどうなる?結婚する相手もいない、上に向かうための土台なんてない。どこにいると思う?お前の作った「沼」の中だよ。「沼にハマったwww」なんてはしゃぎながら、お前がいつまでも側でその姿を見ていてくれる、幸せな時間がずっと続くと信じてどんどん沈んでたんだよ。


 これからどうすればいい?沼から自力で出るのか?出てどうする?こんなズブズブに泥のついた体で、どこへ行けばいい?笑い者だよ。お前は真っ白なウエディングドレス着て、拍手喝采浴びて、幸せの絶頂かもしれない。だけど俺はズブズブの泥まみれでいきなり沼の外に放り出されるんだぞ。


 助けを求めるように、Twitterをスクロールしていく。自分と同じような、情けない、見ていられないような怨嗟の声を見つけるためだ。だけど、流れてくる言葉はどれも、期待したようなものではなかった。


「結婚おめでとうございます!」

「この二人の子供の声帯が楽しみすぎる!」

「つまりあのキャラとあのキャラが結婚したってことか」


 そこには、素直に結婚を祝福する言葉や、二人の声優が演じたキャラクターの画像を貼ってはしゃぐツイートが並んでいた。

「どうなってんだよ……」

 人気声優の結婚だぞ?Tだぞ?CD割るんじゃなかったのかよ?なんで素直に祝ってんだよ。


 少なくとも、あの頃はこうじゃなかった。10年前はこうじゃなかった。

 オタクっていうのは、匿名掲示板で、女性声優の性経験を推測したり、ブログなんかを監視したりして、下世話に、無責任に、処女性をジャッジしたりする醜悪で自分勝手な生き物だったはずだ。そんな決して褒められたものではない空間の、普通の人なら肺がイカれるような空気を吸って、居心地の良さを感じていた。

 あの頃のオタクたちはどこへ行ったんだ?あの頃のオタクたちが、先に沼から上がって結婚相手とか見つけて、「人間として成長」して、余裕を持って祝福しているのか?

 それとも、あの頃のあいつらとは別人の、いつの間にかやってきて沼の近くで写真撮ってはしゃいでるような次の世代の姿を見ているのか?


 どちらにせよ、あの頃と同じ景色はない。

 10年前はしっかりと10年前になっていて、あの頃に取り残されたのは自分だけなのだと気づく。


 複雑に自分の身体に絡みつく思念を払いのけようと、深呼吸をし、人気女性声優TのTwitterホームを開く。今から、あの言葉を口にする。あの言葉さえ口に出来れば、自分も周りと同じように、「人間として成長」出来るのでは、という一縷の望みに賭けたくなったのだ。

「よく聞いててくれよ、お前に向けて言うんだからな。」

 スマートフォンの液晶画面に冷や汗が落ちる。




「Tさん、ご結婚おめでとうございます…」




 蚊の鳴くように小さく、掠れた、声優のそれとは比べものにならない陰気な声が、小さな部屋の中で空気を揺らし、佇む一人のオタクの耳だけに還り、他の誰に届くこともなく、どこへともなく消えていった。

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