夢見るゴンフレナ

御餅田あんこ

夢見るゴンフレナ

 お前のために作った棺だ。


 お前のために。


 愛している、だから、さあ――。




 卒業式の日だった。


 宮渕小夜子は、兄に連れられて、初めてその機械仕掛けの棺と対面し、兄の思い描く世界を知った。


 兄に促されて、棺に踏み込む。


 別れを告げるほど、世間は惜しい物ではない。


 女学生だった小夜子の日常は、卒業式を迎えたことで一度終わってしまった。親しかった友人にも、少女としての淡い日々と共に別れを告げたのだ。友人はこれから、どこかの金持ちに嫁入りして、小夜子のことを振り返る暇も無い新しい日常が始まる。小夜子の思い描く先は、いつだって虚ろだった。父の決めた相手とそのうち見合いをする。それまでは、兄の玩具。――用意された道は予想外だったが、虚ろであることに大した違いは無い。だから、小夜子はいつもと同じに、ただ一言「はい、お兄様」と返事をして、その無機質な棺に身を任せた。 


 機械仕掛けの真っ白な棺の中には、いっぱいに名も知らぬ花々が敷き詰められている。身体を横たえると、柔らかな花とちくりとする葉が制服の隙間から肌に触れた。


 この花たちと共に、小夜子は今日という日から旅立っていく。


「小夜子、お前は毒婦だよ。だが、同時に、なんて無垢で可愛い少女なのだろうね。お前はこの兄のために、どうか少女で在り続けてくれ。無垢な、無垢な少女でいてくれ」


 口を開いてはならない――。


 小夜子は毒婦だから。母親に似て、女を売り物にして立場を買う女だから、淫売だから。口を開かず、ただ眠れ。それが一番、美しいのだ――と兄は言う。


 母は確かに女を売って父の妾の立場を買った。しかし、子が――小夜子が出来て、父は母子を切り捨てた。金だけははじめたんまりともらったが、頼る親類もない母子は、その金で細々と生活をしていた。しかし、やがて母も病に伏せり、医者を呼んだり薬を買ったりしているうち、金は目減りしていった。隙間風の吹く粗末な家で、病んだ母は小夜子の将来を憂い、末期の頼みだと言って父に小夜子を託したのである。


 母は、寄る辺のない小夜子に、父親の庇護を与えた。ここが針の筵でも、おかげで小夜子は衣食に困らず、冬に凍えることもなく、女学校にも通わせてもらった。真っ当な暮らしをさせてもらった。


 兄はまるで母を悪のように言うが、母は、自分の出来ることを必死にしただけだ。それならば、妻がありながら隠れて妾を囲った父はどうなる。妹である小夜子と戯れた兄は何だというのだ。自分には何の罪もないような顔をしながら、小夜子には罪のない無垢な少女の有様を求める。小夜子に罪を与えた張本人が。


 愚かだ。


 兄の愚かさは、幼児のようだ。幼児のように無垢だから、悪を悪と気づかず、罪だとは思わず、自分は何でも知っている賢い大人だと思っている。


 だから、小夜子は目を瞑る。愚かな兄を、賢い兄のままでいさせてやるためには、小夜子もまた無垢な少女でなければならない。世界でただ一つの、兄の宝として眠り続けるのだ。この機械仕掛けの花の棺で。


 兄は注射器の準備をする。小夜子の腕を消毒液を含ませた脱脂綿で拭くと、「恐れることはない。ただ眠るだけだ。痛みもない」と経験したこともないことを、そう告げた。何だっていい。痛みがなければ、それでいい。


 幸い、兄は愚かだが頭はいい。留学をして医術を学んだ、腕も確かと評判の開業医だ。注射も得意だ。針が刺さる瞬間、少しちくりとしただけ、あとは、打たれた麻酔が小夜子を微睡みに誘ってくれる。


「小夜子、愛している」


 兄の声がして、棺の蓋は閉じられた。そして、やがて小夜子は眠りの中に落ちていった。




 列車に乗っている夢を見た。


 女学校へ通うために列車に、制服を着た小夜子は列車に乗り込む。友人はいない。小夜子は一人だ。同じ制服を着た女の子が乗っているが、見たことのない子が多い。遠いところに同輩がいたが、華やかな服を着ている。大人の女になっている。みんな、卒業したからだ。


 小夜子だけが、制服を着ている。


 卒業式のあの日で、小夜子の人生は止まっている。


 列車に乗る度、顔ぶれは変わっていく。みんなが少しずつ大人になっていき、気がつくとやはり制服を脱いで女性の装いに変わっている。小夜子だけが、変わらない。


 小夜子の夢は、通学風景だけだ。いつもそれだけは変わらない。決まった時間に決まった駅で止まって、女の子たちがぞろぞろと乗ってくる。学校の最寄り駅に近づいて、周りがみんな席を立つ頃、小夜子の夢は終わる。でも、目が覚めることはない。


 夢を見ている小夜子は、自分が眠っていることを知っている。兄によって眠らされた小夜子は、最新の医療技術でもって眠らされている。肉体は低温に保たれていて、目覚めることはない。兄の許しがあるまで、小夜子はいつまでも少女で在り続ける。


 生き霊がとぶ、という事があるらしい。


 魂だけが身体を抜けて、思い入れのある場所や、人のところへ行くとか、あるいは肉体を抜けて瀕死の自分を見下ろしているとか――。小夜子の見ている夢の世界がもしも現実の世界ならば、さしずめ小夜子は地縛霊だろう。そう思ってみると、まるで小夜子が見えていないらしい子もいれば、怪訝な顔つきで此方をちらちらと見る子もいる。此方を見ている子というのは、大抵いつも同じ子だ。霊感が強い子、とかなんだろう。そういう子は稀にいるようだが、話し掛けられた事は無い。


 何度列車に乗ったのだろう、いつしか、女学校の制服が変わった。列車の内装も変わった。着物を着た人も少なくなった。時代が変化しているのをぼんやりと眺める小夜子だけが、当時のまま。


 ある日、着物姿の男を見た。目鼻立ちの整った若い男性で、花柳界の人かしら、なんて思いながら見上げていると、男と目が合ったのだ。


「お嬢さん、隣いいかな」


 そのうえ、言葉まで交わした。


「はい。どうぞ」


 小夜子は身体を少しずらして、男性が座る場所を空けた。


「私が見えるのですか」


「君も私を見ているからね。どうしてここにいるんだね」


「どうしてなのでしょう。私はずっと夢を見ているのです。夢の中の風景はいつもここだから。でも、私の知っている人はもういない。私だけが、ずっと少女なんです」


「そうだろう。君がここに姿を現して、かれこれ三〇年経つからね。知っているかい。改元したし、戦争もあったんだよ。この線は大丈夫だったけれど、君の家のあったあたりは爆撃もされた」


「そうですか。では、私は眠っている間に死んだのでしょうか」


「いや、生きている。君は今、所有者を失った美術品として高値で売買されているよ」


「所有者――、では、兄は死んだのですね」


「お父上も亡くなったよ」


「そうですか。それは、眠った甲斐がありました」


 眠っている間に、小夜子にとって目障りなものが死んだ。目が覚めたらそれらはもういない。


 あるいは、もう、小夜子は目覚めることがないのかも知れない。生きているだけ。目覚められないのなら、夢を見ている自分が生き霊でも死霊でも変わらない。


「あの、あなたは、どうして私を知っているのですか」


 男の笑みは妖しい。


「君に聞いた。退屈しのぎに君に声を掛けて、君の素性を知り、嫌いな男が死んでいるか教えてくれと言われたからね」


「私が、ですか?」


「本当は何度か出会っているのだが、覚えていないのも無理はない。君にとっては、朧気な夢の世界でのことだから。隣に座っても気づかないほどぼんやりした日も多い。この前もぼんやりしてはいたが、名を訊ねると教えてくれた。それでぽつりと、父親と兄は死んだでしょうか、なんて言うんだね。記憶にない?」


「はい。ありません。ご迷惑をおかけしました」


「構わない」


「申し訳ないのですが、私は先日あなたのお名前をお聞きしたのでしょうか。もう一度お教えいただけませんか」


「名は告げていない。告げるつもりはない。君は淡い夢を見ているだけ。私もまた、その夢に通りがかっただけだから」


 その日の通学路が何処で途切れたかは小夜子には分からないが、夢に通りがかっただけの彼とはその後も頻繁に会った。和装の人は彼の他にすっかり見なくなった。その彼も、時折は洋装でいるのを見た。


「今日は洋装なのですね」


「しばらく会社勤めをしているものでね」


 男性の言を信じるのならば、小夜子が眠りについてからかれこれ百年近く経っているとのことだった。列車の中は随分様変わりして、ほとんどの乗車客が手にした小型の機械を弄んでいる。その機械にしても、見る度に大きさや形が違って見えた。近頃のそれは、板きれに似ていた。服装も、洋装という点は同じにしても、流行り廃りの変遷が激しいようだ。制服もいろいろな形を見たが、小夜子の着ているようなセーラー服は今でもちらほら見かける。制服は当時としては革新的なもので、前年までは制服というものがなかった。小夜子も着物に袴姿で学校に通ったものだった。卒業前の一年間だけ着ていた制服は、夢の中では少しも劣化することはなかった。


「一つお聞きしても?」


「どうぞ、お嬢さん」


 男性と知り合ってからは七十年近いということになるのだろうが、この男性も、少しも姿が変わることはない。小夜子にとってこれが夢である以上、男性がいる世界が現実である確証はないのだが。


「あなたは、どうして老いないのですか。あなたも、私と同じなのですか」


「残念ながら、君と同じ状態の人は、わたしのいる現代にはいないよ」


 男は、笑って言った。


「君が見ている世界は、――つまり、私と君が会話する此処は、君が実際に眠っている世界とは少し違う場所でね」


「私が見ている夢と、実際に起きている現実は細部が異なるということですか?」


「そうだなあ……ええと……」


 説明しにくいのか、男性は苦笑する。


「君の世界では、君のお兄さんが、人間を生きたまま低温保存する技術を実践した第一例となったのを皮切りに、非合法な美術品として人間を扱い出した。維持費はかかるけど、モノは老化しないから、何年でも納得のいく買い手を待てるしね。それが、君が眠っている世界の話だ。一方で、君が見ている世界、つまり此方側には、そんな技術は確立されていない。未だ空想上の――いや、成功例があるんだったか……、しかし実用はされていない。空想の技術に限りなく近いわけだよ。まずその前提が違う。だから、此方の世界での宮渕小夜子の消息は、女学校を卒業以来断たれている。生死不明だ」


「そう、なのですか」


 突拍子もない話なので、受け入れがたいが、所詮は夢だ。何を言われても、得た情報が響かないでいる。眠る前から自分は無感動だと思ったことが無いわけではないが、こういうとき、きっと女学校時代の友人なら、世界の終わりみたいな反応をしたに違いない。


「君の世界にとって、もはや歳をとらない人間というのは神秘でも何でもなくなってしまった。一方、此方の世界では、そんなやつは化け物だという事になる。あるいは、既に生きていないモノ、だね。化け物が実存すると信じるよりは、幽霊というものの方が万民は受け入れやすい」


「では、あなたは幽霊ですか」


 言い方を考えると、幽霊というようなものでは無いようだが、確かに小夜子にとっても化け物というのは、実存を信じがたい。不死の怪物と言えばヴァンパイアなどを聞いたことがあるし、本邦でも鬼や竜というのが古代から伝承では語られており、それらがいるとするならば歳はとらないのかも知れないが、それこそ空想だ。


「残念ながら、私は化け物の方だね」


 男性は、妖しく笑った。


 何も恐れることなど無い。恐れさせる意図もない。なにしろ、七十年来の付き合いである。彼が実は存在しなくても、あるいは彼と小夜子の両方が既に存在していなくても、夢を見る小夜子にとっては、目の前に男がいる、夢の中で時折会い、言葉を交わす、それだけのことでしかない。


 違う世界の夢だとしても、彼が化け物だとしても、彼にとっての小夜子もまた違う世界の少女で、生きながら美術品になった異端だということになる。似たようなものだろう。驚くことはない。


「そうですか。では、私たちは、互いにとって空想上の存在として出会って、こうしてお話をしているのですね。不思議なこともあるものですね」


「君は落ち着いた子だとは分かっていたが、さすがにこの話は驚いてくれるものと思っていたが」


「ご期待に添えず、申し訳ありません」


「構わないよ。騒がしい子は好きじゃないから」


「騒がしくするのは得意じゃないんです」




 そこに、私はいた。


 私が見ている夢の中に、主体である私の他に、眠っている私がいた。私も入った、あの機械仕掛けの棺の中で眠る私。そして、それを呆然と眺めている私。果ての無い無機質な真っ白の空間に、私たちはいた。


 列車の夢は多く見たが、時折、自分の夢を見るようになっていた。


 気づくと、兄が隣にいた。兄がいると気づいた途端に、真っ白な部屋は、色彩を帯びる。果ての無かった空間は、壁で切り取られた小さな部屋に変わる。知っている部屋だった。家の地下室だ。兄の薬品棚がある。消毒薬の陰気な匂いがあたりに充ちる。


 隣の兄は、眠る私だけを見ている。隣に立つ私を見てはいない。兄にとって私は、眠っている私だけなのだろう。


 兄は悔しそうに唇を噛んで、私が眠る棺を睨んだ。忌々しそうに。


 私もまた、棺の中の私を覗き込む。


 鏡で見る自分より、眠る私は少し大人になってしまっている気がした。髪も伸びている。


 兄は発電機から棺に伸びるケーブル類を、乱暴な手つきで引っ掴む。しかし、そこで兄の手に籠もる力が、急速に失われていく。縋るような視線を、棺に向ける。それでも兄は、一本ずつ、ケーブルを抜いた。


 それから兄は、棺の蓋を開けた。


 棺の中で眠っていた私は、目を開けない。生きているのか、死んでいるのか、私にはそれも分からない。ただ、眠る私は母に似ている。兄が愛した私の母、兄が憎み蔑む毒婦に――。


 私は、私が見る夢の数だけきっといる。


 私とは異なる世界の私。


 美術品になった私、おそらく保存に失敗してしまった私、卒業式の日に失踪した私。いつまでも夢を見続ける私は、数多の私の可能性を夢に視る。でも、何処にでも兄は存在している。生死はともかく、私と兄と、兄と母と、私たち母子の関係性が根底に存在する。母は既に亡く、兄はやはり母に恋慕し、しかし叶わなかった思いの丈を私にぶつけている。


 私という存在は、卒業式を境に、それぞれが違う運命へと向かっていく。


 主体となる私、夢を見る私には、卒業式から百年を経て未だ結末は訪れない。生きながらにして、人生の時間を止めた私は美術品として眠り続けている。始めた男が死んだのに。




「ここから、出てみる気はないかい」


 久しぶりに車内で会った彼は言った。


「……考えたこともありませんでした」


「一度も?」


「そうですね、一度くらいは思ったかも知れません。忘れているだけで、もっと思ったのかも。でも、思い出さないのだから、大して考えなかったのだと思います」


 いつも気がつくとここにいて、また、場面を切り替えるように唐突に、別の時間のここにいる。小夜子の意思でここに来て、ここを去るわけではない。誰かに強制されたわけでもない。ここにいることが当然だと、夢見る私は思っている。当然で、安心する場所。


 此処の外がどうなっているか、気になったことがないわけではない。でも、外へ踏み出すほどの決意は小夜子にはない。それだけの意思があるのなら、そもそも、己の未来を閉ざさせはしなかっただろう。


「あなたにとって此処は、ただ日常のうちの一時なのでしょう。でも、私にとっては、夢でしかないのです。窓の外の世界が本当に存在しているのかも、私には分からない」


「出て行くのが恐い?」


「そうなのかも知れません。……いえ、そうなんです。ずっと恐かった。眠る前もそうでした。どんなに荒れた道でも、照らしてくれる人がいれば恐くない。平坦な道でも、真っ暗闇なら恐いもの。これ以上闇の中へ進んでいく勇気がないんです。私は、臆病だから……」


「だから、眠ったのかい」


「ええ、そうなんです。きっと、そう。卒業式の日、私はその先の日々が真っ暗闇に見えていました。だからって、こんなことを、と思うでしょう? でも、それさえ決意でもって選んだわけではないのです。兄のエゴに満ちた誘いが、私には甘い囁きに思えていました。何かを選び取ったわけではありません。生きることを放棄したわけでもありません。何もかもが嫌でした。選び取ることが嫌でした。先に進むのが嫌でした。だから、立ち止まったのです。そんな私に、窓の外は」


 窓の外は、いつだって真っ黒だった。存在しなかった。


 車内は電気もついていないのに明るいから、小夜子はそれが昼間だと認識していた。夜であると思ったことはない。でも、その認識と風景はそぐわない。


 小夜子にとって、窓の外は未知だった。だから無い。


「大胆なんだか、小胆なんだか」


 男はそう言って微笑んだ。


「でも、目覚めたら、どうするんだね」


「目覚めることはないでしょう。私、そこまで兄のことも、科学技術のことも信じていないんです。呆れますか?」


「君の言うこと、分からないでもないよ。私も結構長生きでね、いろんな人や、いろんな心を見てきたから。君のことも、君が知る以上に。……此方の世界で失踪した君にはね、立派な棺など与えられなかった。だからここで、毎日列車に乗ったんだ。そうしているうち、いつしか現実の住人じゃなくなってしまった」


「現実の、住人」


「かといって、自分が隠り世の住人だとも思っていない。彼女の世界は、君が見ている世界ときっと同じなのだろう。彼女にとっては、眠っている、生きている自分、というものが存在していないだけで、彼女も決して此処を出て行こうとしない。君たちは、生と死と、現実と夢の間にいるお互いに同調している。君の知らない間に、ここにいる別の君から、君の話を聞いている。君の知らない、君たち自身が互いに知らない話を、私は君から聞いている。驚くかい?」


「ええ、とても」


「驚いた顔じゃないな」


「すみません」


 いいよ、と男は言う。


「いつか私は君を列車から引きずり出したいと思っている。君はともかく、私の世界の君には、既に現世を生きる資格はない。君には、隠り世の街を、私たちの街を案内するつもりだ。恐れることはない。私が灯り持ちをするさ。でも、そうしたら」


「そうしたら、……この夢は終わるのかもしれません。あるいは、あなたについて行った先を夢見るのでしょうか」


「どうだろう。しかし、君たちは結局、車窓の外が虚無でないことを知るだろう。虚無でなければ――それは、君にとって外の世界がどうあるかだが、君にとって心地よい世界であるとは限らない。何処へ行くか、己をどうするか、それは君自身で決めなさい。君自身にもいつか、夢の終わりは来る。目覚める日か、目覚めないことが決まる日かはしらないが」


 小夜子は、強い羨望を抱いた。そして、震えながらそれに耐えていた。


 死んだ自分は、この人に道を照らして貰えるのだという。自分でない、違う世界の小夜子のことだ。そして自分は。――車窓の向こうは、やはり黒い。何もない。虚無の世界が広がっている。


「私にも、あなたがいてくれたら良かったのに」


 虚無の世界に続きなどあるわけがない。




 温かい、と感じた。


 指先、つま先、首筋、……身体に触れるのは柔らかなシーツと肌掛けの感触。全身の触覚が生きている。重い目蓋をあげると、ぼんやりとした世界が映る。白い天井。きれいな光。幾度か瞬くと、視界が明瞭になった。


「起きたのね」


 女の声がして、次いで、光の中に、影が頭を突き出した。逆光で見えにくいが、知らない女であることは確かだった。


「宮渕小夜子さんね。私はあなたの担当医。よかった、目が覚めて」


「あの。私、どうして」


 どうして、どうしてですか――。


 夢ではないと、瞬時に悟った。夢とはとても、空気が違う。全身が機能している。感覚が生きている。


 目覚めてしまった。


 なぜ、そのまま眠らせておいてはくれなかったのか。眠らせた当人は、死んでしまったと彼に聞いた。小夜子は美術品になったと聞いた。それがどうして、目覚めなければならないのだろう。余計なことを。


「ごめんなさいね。戸惑うわよね。あなたにとっては、眠ったのはほんの昨日の話なのでしょうから」


 確かに、昨日のことのように思う。


 見ていた夢は、ほんの一瞬のように駆け抜けていった。あの列車で見聞きしたことを、小夜子は全部識っている。でも、夢を見て、揺られて、言葉を交わして過ごした実感は、急速に薄れていく。


 小夜子の中から抜けていく。


 担当医だという女は言った。


「今は、二〇三八年、三月十五日。あなたが眠りについたのが一九二二年、大正十一年の三月よね。一一六年経った計算になるわ。当然だけど、ご家族はもう……あなたが眠った後、大きな戦争があってね、それで絶えたのよ」


「ええ、あまり気になさらないで下さい。承知の上です」


 女は、少し戸惑うような表情を見せた。


 小夜子は、己を冷めた人間だとも思う。冷徹とは違う。無感動という方が適切かもしれない。いつからなのかは忘れてしまった。母と二人で暮らしていた頃は、たぶん普通の子どもだったのだろうと思う。六つの時に、母と一緒に父の家に転がり込んで、数多の愛憎に晒された。使用人すら、小夜子に聞こえるように小夜子を笑っていた。心が痛いから、心を手放そうとし、手放しきれず、こんな人間が仕上がってしまったのだろう。


 でも、おかげさまで、誰も恨んではいない。


 母が死んで以来、愛していると心から思ったのはただ一人だけ。どう生きてどう死んだのか、今となっては分からぬ友人ただ一人であった。でも、卒業が二人を別ち、永遠の少女ではいられなくなってしまった。


 兄は小夜子に、兄のための永遠の少女でいることを望んだが、それは小夜子の望みを叶えるものではない。それでも小夜子が兄に従ったのは、拒否する意思が薄かったがため。


 もう、誰もいない。誰も、小夜子の代わりに小夜子の道を敷いてなどくれないし、灯りになってくれはしない。


 部屋はぴかぴか明るいけれど――でも――。


「それで。私、どうして目覚めたのでしょう」


「美術品として売買されている少女たちを保護する動きが高まってね、保護された子は順次解凍されているの。あなたは未成熟な技術でコールドスリープに入っていたから、解凍も難しくて時間がかかってしまったけれど。もう大丈夫よ」


 何が、大丈夫なものだろう。


 この女は、小夜子が兄に強制されてこうなったと思っているのだろう。むしろ、不本意な目覚めの方が、小夜子にとっては不安でならなかった。


 小夜子の不安を感じ取ったのか、女は妙に明るい声で、「心配しないで、恐がらなくていいわ」と言った。


「あなたはまず施設で順応訓練を受けるの。あなたほどじゃないけれど、五十年くらい眠っていた子は結構いるの。そういう子が社会に慣れるための訓練施設よ。いきなり右も左も分からない社会に放り出すような真似はしないわ。はじめの一週間は担当医が共同生活するの。よろしくね」


 出された手に、小夜子も手を重ねる。軽く握られた手が、温かい。


「明日一通りの検査をして、問題なければ明後日から施設に移るわ。何か欲しいものがあれば私が用意するから、いつでも言って頂戴」


「はい……お世話になります……」


 ちょっと席を外すから、と前置きしてから、女は小夜子にテレビや映像について過剰に説明をした。これは小夜子の時代にはまだテレビがなかったためだが、実際映ったテレビを見ても小夜子はどうやら彼女の思うような反応が出来なかったようだ。それから、順応訓練用の映像をつけて出て行った。


 珍しいものではあるが、慣れてしまうとつまらなくなった。


 料理をしている映像、動物についての映像、旅の映像、一時間程度で映像は切り替わりながら、延々と流れていた。見ていてもつまらないので、小夜子はそれを消して寝た。




 順応訓練二日目の夜に、女は小夜子に小さな板を渡した。夢の中で、電車の乗客たちが弄んでいたものだった。その頃には、それが現代に流布している電話機、そしてその他多くの機能を有する電子機器であることを理解していた。


「今の時代、これがないと始まらないわ」


 と、女は得意げに言った。


「わからないことがあったら、これで検索するのよ。入力に慣れていなくても、音声を認識させることもできる。ここを……こうして……」


 女は小夜子の手にそれを持たせて、画面を覗き込みながら触れていく。そして、


「何か、調べたいことある?」


 と、小夜子に聞いた。


「出来るのなら、私の通学路を調べたいのですが」


「通学路?」


「列車に乗って通っていたのですが、思い入れが深かったもので。どうなっているものかと思って」


「そうね。運営会社や線の名前は覚えている?」


「はい、えと――」


 女と通学路に関係するいくつかの単語を調べた。


 結果、分かったのは、線は既に廃止されていたということ。鉄道会社もなくなって久しい。小夜子が乗車していた数駅を含めて、別会社の別の名の線として運営されている。


 あの人は、小夜子の世界にもいるとは限らない。いたとして、小夜子を知っているとは限らない。いや、知らないだろう。小夜子が会っていたのは、小夜子が既に死んだ別世界の彼だから。そう思うと、寂しさだけが募った。


 知らねば良かった。いずこかの世界の死して迷う小夜子は彼が手を引いてくれるのだろうけれど、目覚めてしまった小夜子には、彼は縋るべき人ではない。分かっているのだ。自分には彼がいないことを、結局闇に放り出されてしまったことを。だからといって、彼や彼に導かれるいずこかの自分を妬むのは筋違いだということを。


 分かっている。分かっているのに。


 内側がぼこぼこと煮え立つような思いがした。


 外側からどれだけ情報を与えられても無感動でいる己が、内側から沸き起こるような気持ちにかき乱されているのが分かる。どうしていいか分からない不安とともに、どうしても彼の笑顔が過ぎった。何かにぶつけるほどの激しさなど、持たないけれど。


 一週間は、すぐに過ぎた。


 女にとって日常の知っていて当然の知識が、小夜子にはなかった。同じ言語を話していても、認識している世界が全く違う。便利になったと感動した一方で、溺れるほど膨大な新しい知識を苦痛に感じた。でも、女は、教えることが愉しいらしかった。


 一週間を終えてまず思ったのは、――解放された、疲れた。悪い人じゃないのは分かっている。きれいな善意に満ちている。だが、お節介に過ぎる。


 世話を焼いてくれた女を見送るとき、小夜子は、薄ぼんやりと此処は既に自分が生きるべき世界ではないと感じていた。生き過ぎてしまった、と。


 何もかもが分からないのは、惨めだった。


 罰だと思った。


 何も選びたくないと放棄して兄の言いなりになったのは、つまりは、知らないところで惨めな思いをするのが嫌だったからなのだろう。棺の中は、惨めな思いなどしなくていい。夢の中は、小夜子に優しかった。


 拒もうと思えば拒めたものを、甘い誘いに乗っかって、小夜子はあの卒業式の日から先の人生を先延ばしにしてしまった。先延ばしにした時間が押し寄せてきただけのこと。この惨めさは、本来の時間の中で感じるはずだったもの。一層つらいのなら、それは逃げ出した罰だろう。


「まるで違う世界でしょう? 辛いこともあると思うけれど、いつでも相談に乗るから」


「はい。ありがとうございます」


「じゃあ。非番の日と火曜日は顔を出すから」


 女はそう言って施設を出て、勤め先の病院に戻っていった。その後、一ヶ月、女は約束通り非番の日と検診日の火曜日には顔を出した。


 その一ヶ月もあっという間に過ぎ去ろうとしていた。これを終えると、小夜子は自由の身になるという話だ。外を歩くことは許されていたが、担当医の女を伴わねばならなかった。言ってしまえば、時代遅れの、世間知らずだから。


 眠りから覚めたばかりの百年前の女学生は、現代の街の中では生きていけないのだという。切符の買い方も、バスの乗り方も知らない。当時よりずっと複雑になった路線図はまるで暗号のようだ。


 小夜子の生活資金は、美術品と化した少女たちの被害者支援団体から出るという。女学校は卒業したが、現代社会を学ぶために高等学校へ行ってもいいと言われた。学費も、そこが気前よく出してくれるという。しかし小夜子は、金の引き出し方さえ知らない。


 右も左も分からぬ社会に放り出されても生きていけるほど、小夜子は強くはない。


 四週目の頭に、小夜子は女に連れられて都市部へ買い物へ行った。きれいな服を見繕ってくれる、という。


 施設内での制服として支給されたブラウスとスカート、それが小夜子が持ちうる唯一の服だ。眠っていたとき着ていたであろう女学校の制服は、いつの間にか処分されてしまったようだ。ブラウスの上に、女が貸してくれた丈の長い臙脂のコートを羽織って出かけた。


 洋服は着慣れていない。


 自分で選ぶなど、経験が無い。洋服は、時折兄の趣味で着せられたが、小夜子が思い描いているものと現代の洋服はかなり毛色が違う。


「ファッションに興味は?」


「当世の洋服はよく分かりません」


「……今がどうとか、気後れしないでほしいの。あなたが、ここで生きていくことになるわけだもの。あなたはあなたの好きに生きていいのよ。着物がいいなら着物でもいい、好きなものを着て欲しい」


 好きにするのが、小夜子にとっては一番難しい。


 女は、苦笑して、それはそれで珍しがられるかも知れないけど、と言った。


 好奇の目に晒されるのはいいのだ。珍しがられて笑われたとしても、そこには明確な悪意など無い。神経の細い人間にはそれが耐えられないだけのこと。もっと悪辣な視線を小夜子は知っている。今となっては、彼らももう皆息絶えて、彼らの視線の理由もおそらく誰も知らない。恐れるべきものなど、もうないのだ。


 ただ、自由は、自由だけは、どうしようもなく不安なのだ。縄で括られて宙に放り出されたのなら、まだ縄があるだけいいようなもので、その縄さえないのなら、ぞっとする。


 小夜子には、この女と訓練施設が最後の縄に思えていた。しがらみが、人との縁が、欲しいわけではない。誰かに己の進むべき道を決めて欲しいのだ。決めて欲しくて堪らない。


 だから、眠りを拒まなかったのに。


「私、先生の選んだ服がいいです」


 女は、少し困ったような顔になって「そう」と呟いた。


 それでも女は愉しそうに振る舞って、小夜子の服を見繕ってくれた。着替えて鏡を見ると、当世風の、道中よく見かけるような普通の女の子、という印象を持った。重たげなおさげと陰気な顔だけはいつもの自分だから、首から上と下はまるで切り貼りした別の写真のように不似合いだった。


 それを伝えると、女は美容院に行こうと提案をした。


「髪型も変えてみたらどうかしら」


「切るのは……ちょっと」


「少し整えて、今の長さで出来るアレンジをしてもらうの。メガネも、あなたそれ、度が入っていないんだから外したら? それだけでも随分雰囲気変わると思うけど」


「べつに、いいんです。どうせ陰気な人間だもの。明るくなんて笑えない」


「……これから、いくらでも素敵なことがあるわ。あなた、まだ十七でしょう。あなたのこれまでの人生がどうだったかは知らないけれど、これからどんな生き方だって出来るのに、今から何でも諦めていちゃ始まらないわよ」


「先生は、……とっても素敵な人だと思います」


 それは本心だった。彼女の表情は、生き生きとしていると思う。困った顔、心配する顔、笑った顔、いろいろな表情を僅かの間に見たが、この人は生きている、ちゃんと生きている、何度もそう思った。それは、手の届かないものへの羨望だ。


 たしかに、まだ十七だ。十七の小夜子が百年以上の時間を内包していることは、小夜子の身体には関係ない。眠っていた間に何かの間違いで身体機能に損失がなければ、の話だが。それでも、この時代においては小夜子の過ごした当時より遙かに医療技術が進歩しており、およその病気や怪我でも生かされる。だから、十七の小夜子は、まだ六十年、長ければ八十年程度生きることになる。女の言うとおり、これから先の人生、小夜子が心から笑うような日は来ないとは断言できない。しかし、来るとも分からない。


「でも、だから、先生には分からないと思うんです。兄のくれた棺は、私の救いでした。生でも死でもない、ただ眠るだけの日々を私は喜んで受け入れたんです。それなのに、どうして私を起こしたんですか」


 女は沈黙した。困ったような顔をして、瞳が陰ったように思えた。


「それは、あなたが解決しなければならない問題よ。あなたが目覚めを拒んでも、たとえこれから起こす子たちが望んで眠った事実があろうと、摘発され、保護されれば、私は起こして世話をする。どんなにその子がこの世を憂いても、たった一ヶ月ちょっとでこの世に送り出す。そこから先を悩む子はたくさん見たし、もう一度眠りたいという子も見た。実際に、自ら裏社会のルートに自分を乗せてしまった子や、自分がブローカーになった子もいた。みんな、私に助けを求めなかった。たぶん、此処を出てからも、誰にも言わないで道を踏み外してしまったんでしょうけれど。何から目を背けたくて眠るのかは人それぞれなんでしょうけど……他者との関係ならまだしも、自己の問題だけは時間は解決してくれない。自分自身が今とこれからを見据えて考えなければならないことを、眠っている間にすべて解決していればいいな、なんてのは都合が良すぎるわ」


「そんなこと、思っては……」


 思っていた。


 眠っている間に、いっそ、終わっていればいいと。なにもかも、自分さえも、なくなっていればいいと。


 足下の石畳を、視線がなぞる。


「私も十年前まで眠っていたの」


 女は言った。


「将来なんて考えるのが嫌で嫌で仕方なかった。みんなが先を見据えて生きていこうとしているのが、眩しすぎて、信じられなくって、私、大人になるのをやめようとしたのね。でも、私の眠りは三年で終わった。今の保護運動が始まっていたから。同級生はもうちゃんと大人になっていたし、私も結局そのあと身体だけは大人になった。大人になったら今度は、どうやって大人として生きたらいいのかが問題だったし、今でもどうしたらいいのか分からないことはたくさんあるけれど、迷わず生きている人なんていないのよ」


「じゃあどうしろと言うんです。励ましのつもりですか」


 小夜子は顔を上げ、彼女を見た。


 きっと非難されているのだろう。そう察した小夜子が再び顔を伏せると、女はもうそのことについて何も言わなかった。しばらくして女は帰りましょうと言い、小夜子もそれに従った。


 帰るまで、ほとんど口をきかなかった。


 女は小夜子を施設に送って、明日検診にまたくるわね、と言って出て行った。


 次の日、検診に来た彼女は、いつも通りにこにこ笑っていた。昨日小夜子を非難したその目がまるで嘘のように、やはり瞳も表情もきらきら輝いて、生き生きとして見えた。これが作り物の笑顔だったとしても、やはり小夜子には到底真似できないと思う。たとえふりでも、迷いながらでも、どうしてこの人は生き生きとして笑っていられるのか、小夜子にはちっとも分からなかったし、分かろうとも分かりたいとも思えなかった。ただ、やはり違う世界の人間なんだろう、とだけ。


 検診が済むと、女は小夜子に尋ねた。


「もう何日も日がないけれど、当面どうしたいか決まっている? ……もちろん、あなたが悩んでいるのは知っている。でも、ひとまずどこに住みたいとか……一人じゃ大変でしょうから、私も手伝うわ。二日くらい休めるから」


「先生が思っているほど、子どもじゃないですから。お金は十分にご用意して下さっていますし、自分で住む場所も探せます」


「そう。何処へ行くつもり?」


「……まだ。とにかく、家の辺りを見てみたいんです。それだけです」


「分かったわ。もし、困ったことがあったらいつでも言ってね。力になるから」


「はい」


 頼るつもりはない。


 この人は眩しいから、見ていると辛いのだ。


 きっと、外で生きている誰もが、眩しくて堪らないだろう。眠り続けてはいられないのなら、なぜあの時眠ってしまったのだろう。救いなど幻でしかないと、どうしてあの時気づかなかったのか。いや、気づいたところで、拒めたろうか。拒むほどの決意を持てただろうか。


 すべて過ぎ去った今になって、小夜子は自分に出来たかも知れない違う選択を夢想する。空しいだけと知りながら。


「次は日曜日に来るわ。月曜日には此処を出るから、旅支度を調えておくのよ。必要なものがあれば用意するから連絡なさいね」


 そう言われたが、女から生活必需品はすべてもらっていた。旅立つからと言って、特に新たに必要なものもない。旅行鞄ももらったし、服もある。


 連絡をすることもなく日曜を迎え、二人で部屋を掃除した。それから、女が路線図を広げて、小夜子の故郷へはどのように行けばいいか教えてくれた。新幹線と電車を乗り継ぎ、半日程度かかるだろうという話だった。


 翌朝小夜子は、女に買ってもらった服を着た。髪は結わなかったが、眼鏡はやはりかけた。必要だと思った。女と一緒にタクシーに乗って駅まで行き、簡単な別れの言葉を交わして、故郷へ向かって旅立った。


 悪い人ではなかった。素敵な人だと心からそう思う。でも、その眩しさゆえに苦しくて、小夜子は別れに安堵した。女からは連絡先を電子端末に登録してもらっていたが、それも車内で削除して、小夜子は遠い山をみていた。




 家のあった場所はすっかり面影が無くなっていた。分かるのは、大きな道路だけだ。土を圧し固めた道だったが、今は舗装されている。


 道に面して、宮渕家の屋敷は建っていたはずだが、風景もすっかり変わっていて判別できない。道路は馬車道だった当時からすると二倍ほどの幅になっているように見えたから、かつて宮渕の敷地だった場所にも掛かっているのだろう。それでも余りあるほど広大な敷地だったが、付近の家の表札を眺めて歩いても、そのどれも宮渕姓ではなかった。


 夢の中で、名も知らぬあの男は言っていた。彼の世界では、宮渕の親類は空襲で皆死に絶えたのだと。こちらの世界も、きっとそうなのだろう。


 すっかり更地になってしまって、土地も持ち主が死に絶えて、その真っ新な状態から再びこの土地は復興を始めたのだろう。あの言葉が事実なら、この変わり様は当然だ。


 物寂しい心地がする。


 今となっては、夢で交わしたあの言葉の数々は、所詮夢でしかないのだと思えている。実際に、夢を見る小夜子が何処か別の世界の小夜子と繋がっていたのだとしても、此処のことではないと受け入れている。


 小夜子には、ここにいる小夜子には、彼はいない。


 夢の中の小夜子は、列車を降りただろうか。彼の手を取ることを選べたろうか。ここにいる小夜子自身は、列車から放り出されてしまった。行く宛てもないままに、覚悟もないままに。


 でも、もう諦めだけはついた。


 小夜子の人生に彼はいないし、決意も覚悟もなかろうが、放り出された以上、時は止まらない。


 家の辺りを眺めていると、もう日が傾いていることに気づいた。


 ここへ来るまでにおよそ六時間、家のあったあたりに目星をつけるにも時間がかかってしまった。腕時計を確認すると、既に五時を回っている。天気は良かったが、すぐに昏くなるだろう。


 今日は街へ出て、ホテルに泊まる。明日になったら、住む家を探しにいこうか、それとも――。ともかく、また一度電車に乗って、新幹線の発着駅まで戻らなければならなかった。


 最寄りの駅まで戻り、ホームの椅子に掛けて電車を待った。


 一時間に一本程度来るだけの電車を待って、時刻は六時を回った。到着時刻は六時十五分。もうじき来るので、ホームに少し人が増え始めていた。とはいえ、これまで乗り降りしていた駅で見るほど混み合ってはいない。百年経っても、ここはあまり人が多くない。それどころか、寂れたと感じる。いくら立派な建物が建ち並んでも、人がいないのならそれまでだ。


 十三分。


 人がそろそろと立ち上がりはじめ、小夜子もまた立ち上がって、線路の向こう側のホームを見ていた。線が二本通っている。ホームは三つある。この眺めは、かつてとあまり変わらない。一本は学校の行き帰りで使い、もう一本は街へ出るのに使っていた。


 向こうのホームには、こちらより先に電車が入ってきて、人を下ろして去って行った。去ると同時に、此方のホームに電車が入ってきて、人を下ろし、人を呑み込み、――そして小夜子は電車の窓越しに、向こうのホームの様子があんまりにも見慣れたものであると気づいた。


 制服。それも、自分が着ていたのと、寸分違わぬ制服。


 走り回る着物姿の童。


 たすき掛けの弁当売りの女。


 こちらでは誰もが手元の端末をいじって下を向いている。こちらとあちらは、完全に違う。世界が違う。時代が違う。しかし、小夜子は思った。


 あちらが、呼んでいる。


 乗ったばかりの電車を小夜子は飛び降りた。発車のベルが鳴っている。振り返ると、木製の車両がホームを去ろうとゆっくり走り始めていた。呆然とそれを眺めて、去りゆく車窓に映った自分が制服を着ていることに気がついた。下ろしてきた髪もきっちりおさげに結ってある。


 小夜子を映した車窓は過ぎ去り、小夜子は当時の中に、当時のままに置き去りにされた。まだ夢を見ているとでもいうのだろうか。それにしては、やっぱり夢とは思えぬ感覚を肌で感じる。空気の温度、匂い、喧騒、――生きている。小夜子も、周りも。


 鞄を探ると、当時持ち歩いたままの教本と帳面が入っている。それから、卒業式の日の帰り道に親友にもらった飴が、贈答用のきれいな紙袋に入ったそれが、封も切らずに入っていた。


 小夜子は、駅舎を出た。


 寂れていた未来の町並みは、木造の建物と未舗装の土の道に置き換わっていて、やんちゃそうな子どもたちが「また」「またね」と口々に言いながら各々家路へと走って行く。


 あの日だった。卒業式の日。


 小夜子はこれから家に帰って、父と兄と夕食を済ませた後、兄に呼び出され、あの機械仕掛けの棺と出会ったのである。たとえ、あの日の今頃、ここでそれを知らされていたとしても、小夜子はきっと拒まなかった。真っ直ぐ家に帰って、兄に促されるままにあの機械仕掛けの棺に身を任せただろう。


 今が本当に、あの日なら――。


 何かの因果であの日に戻ってきたのなら――。


 小夜子は踵を返し、駅舎へ戻った。そして、学校へと向かう電車の切符を買い求めた。駅員は不思議そうな顔で小夜子を見たが、結局何も言わない。


 六時半に、学校方面行きの最終列車が出る。三駅先が学校だが、さらに一時間も揺られると山に入る。さらに一時間揺られて県境を越え、まだ踏み込んだことのない土地へ向かう。


 未だ決意と言うほどの大層なものは小夜子の中に生じていない。ただ、嫌だったのだ。無駄な百年をもういちど繰り返しても、結局なにも変わらない。兄も父もいないところへ行きたかったのなら、はじめからこうすれば良かったのだ。何も複雑なことはない。


 さっき待っていたホームの反対へ行く。


 大人の視線が小夜子を不思議そうに見ていた。何しろ、制服姿の少女が、最終列車で学校方向へ向かう。これでは方向がちぐはぐだ。怪訝そうな視線もある。家出少女とでも思われているのかもしれない。それも、学校を過ぎる三駅までだ。三駅過ぎればそこから乗ったものと思われるだろう。


 間もなく、列車が来た。


 山へと向かう車両の中は、客が少ない。全員坐っていても座面に余裕がある。小夜子は椅子の真ん中に腰掛けて、鞄の中の飴の封を切った。中には掌に乗る銀の缶が入っていて、あけると花の絵の入った飴が入っている。一つ口に放って、電車に揺られた。


 車窓から、夕暮れの町並みが見えていた。背の低い家々の中に、一つ大きな屋敷が飛び出していた。


 口の中で飴を転がしながら、三駅はあっという間に過ぎてしまった。しばらく乗っているうち、人が一人降り、また一人降り、車両はどんどん人気がなくなっていった。学校を過ぎて五駅くらいか、その頃になると山深いところへ入り、駅と駅の間隔も開いてしまったようだったが、ある薄暗いホームで、男が一人乗り込んできた。


「お嬢さん、隣いいかな」


 席なら他にいくらでも空いていたが、小夜子は快諾した。


「どうぞ。……飴、舐めますか」


「くれるのかい。ありがとう」


 鞄から缶を取り出して男に見せる。いろいろな花があるね、と、彼は柔らかい笑顔で言った。少し悩む素振りを見せて、藤色の飴を一つつまんだ。


「何の模様ですか」


「藤の花かな。葡萄にも見えるけど」


 濃いめの色で表現された藤の花房は、確かに一房まるまるの葡萄にも似ていた。男はいただきますと言って、それを口に含んだ。


「ところで、君は何処まで行くの」


「県境を越えて、どこでもいい、どこか遠くへ行こうと思ったんです。やっと、そう思えたから」


「決心がついたのかい」


「決心なんてほどのものじゃないんです。また、逃げただけだから。ただ、それでも、ましな方へ逃げようと思って」


「そう。それはいい。それなら、どうかな、私の街へ来てみる気はある?」


「あなたの誘いを受けると言うことは、私はやはり既に現実の住人ではないのでしょうか。生と死と、夢と現と、私はそのどこにいるのでしょうか」


「さあ、それは君が決めることだから。君が選べばどれもが真実で、どれにでもなれる。君にその気があればだけれど」


「甘い囁きに乗っかって無駄な時間を過ごしたかと思えば、その日に逆戻りして、別の殿方の甘い囁きを受けてしまって……とても困惑しています、私。でも、何年も一緒に過ごした兄よりも、夢にだけ見たあなたのことを信頼しているんです。あなたについて行っても、良いのでしょうか」


「ついてきたいのなら、一緒に降りてしまえばいいのさ。君はもう、この車両から降りられるんだから。なに、遠慮は要らないよ」


 男は笑った。妖しくて、魅惑的だった。


 夢に見た男の顔は朧気だった。


 記憶を辿っても、彼がそうだったのか判別できない。でも、気配は覚えている。夢の中から浮き立つような、存在感だった。夢を見ている小夜子にとって、他の人間はいくら動き回ろうが背景と変わらなかった。背景じゃない、生きていたのは彼だけだった。


 今、この車両は小夜子にとっては現実だ。現実なのだと思っている。感じている。事実がどうかは、きっと目の前の男が知っているが、彼は小夜子が選ぶことだと言った。


 現実として、周りの人間も生きていると感じる。小夜子もまた、生きている。それでもなお、彼だけは別の生き物なのだと思う。


「聞いてもいいですか。あなたは、何者ですか」


「言ったろう。私は――」


 彼は声を潜めて、化け物だよ、と囁いた。そうして、目を細めて、笑った。


「君もまた、これからは化け物の仲間入りだからね。それでも、いいのかい」


「ええ。好きにします。好きに、あなたについて行きますから」


 小夜子は缶を取り出して飴を一つつまんだ。イチゴのような真っ赤な玉から緑の茎が伸びている絵、千日紅だろうか。口に含んで、外を眺める。


 夜の帷が下りていた。真っ暗だったが、時折線路脇には灯りが見えていた。


 一時間か、一時間半か、そのくらい外を眺めて揺られていた。男は起こしてあげるから眠っていても構わない、と言ったが、なんだかんだ言って置いてけぼりにされるのを恐れて眠らなかった。やがて視界に、たくさんの光が飛び込んできた。そこはまだ深い山の中の筈で、どうしてそんなに明るいのかと不思議に思っていると、男が「行こうか」と言った。


 どうやら、それが彼の言う街らしかった。


 乗客は他にも、僅かながら乗っていたが、誰も下りようとはしなかったし、灯りに目を向けもしなかった。小夜子と男が連れ立って立ち上がったとき、僅かに乗客が視線を動かした程度である。列車は次第に速度を落とし、薄暗い駅舎で停車した。


 男が、引き戸に手を掛けたとき、それに気づいた乗客はひどく不審そうに男と小夜子を見ていた。


 男は、「さあ」と促し、小夜子の手を取った。


「足下に気をつけて」


「ありがとうございます」


 ステップを降りて、小夜子が振り返ると男は言った。


「乗客たちには、ここは見えていない。差し詰め私たちは、訳ありの男女にでも見えるだろうね。こんな山奥の、何もない場所で降りるというのだからね」


 何もない、と男は言う。乗客たちにはそう見えているのだと。


 しかし、そこには薄暗いながらに灯りの点った駅舎が建っていた。駅員もいる。そして駅舎の向こうに、煌々と提灯の明かりが輝く、古い町並みが見えていた。


「ようこそ、小夜子。これこそは、人の世にあって人のものでなく、人の理に縛られない、我々の夢の都だ。良いだろう」


「私、ここでちゃんと生きていけるのでしょうか」


「君が決めたんだ。君が決めたから、君はここにいる。なら、生きていけるとも」


 停車していた列車が、再び動き出す。


 小夜子は一度電車を見やって、それから駅舎の向こうに覗く街を見据えた。




 ――その日、大正十一年三月十日、宮渕小夜子は消息を絶った。


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夢見るゴンフレナ 御餅田あんこ @ankoooomochida

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