第五章
向こう側から手を振っていた。
姿の違う、白い巫女たちが笑顔で手を振っている。
私はそれを、どこかで待っていた。
彼女たちをずっと知っていたような気がする。私の中にある、受け継がれる魂を経た者たち。
そのなかでたった一人、私の姫巫女さまをみつけた。
あぁ、お会いしたかったです。
なのに、彼女は子どものような笑みを浮かべて言うのだ。
「おいきなさい」
いやです、私は。
「あなたの心のままに、たったひとりの自分として生きなさい」
あなたを置いていくことなど、どうしてできようか。
「お前は私ではないのよ、真珠」
えぇ、そうです。私はあなたにはなれなかった、だから。
「そう、だからさよならなの」
告げられた言葉に悲壮感はまるでなかった。春のような清々しさをともなう離別の言葉は、私を明るく照らした。
私はあなたに別れを告げていいのですか。
問いかけると、彼女は泣き笑いに頷いた。
そうして、繰り返す。
「さようなら、さようなら」
いつものように足早に寝所に向かおうとすると、不愉快極まる話を瑠璃から聞かされる。透輝は不機嫌を隠そうともしなかった。
「俺だって言いたかないんですよ」
射殺さんばかりに睨まれた瑠璃は手を上げて降参する。が、透輝は許さなかった。
「なら言うな、二度とその口を開くことができなくするぞ」
「まぁたそんな言い方する。だから他の連中がビビりまくるんですよ。いまだ小姓たちだってあんたに懐きゃしないじゃないですか」
「だからと言って、俺が側室を迎えれば軟化するとでも? 馬鹿者たちの考えることは度し難いな」
舌打ちを隠そうともしない。
廊下から見える庭にはもう、梅の花が咲いていた。
あれから、一年がたっていた。真珠はいまだ目を覚まさない。
透輝に命を吹き込んでから、ただひたすらにこんこんと眠り続けている。
たった一つの禁呪。
それは姫巫女の肉体を失わせるには十分なものだが、なぜか真珠は命を失うことはなかった。藍玉に言わせれば、長い時間をかけて姫巫女と銀狼が混じり合ったことにより、命すべてを注ぎ込むことなく傷を直したのだろうということだが、本当のところはどうかよくわからない。
ただ、ひとつわかっていることは真珠がいつ目を覚ますのか、誰にもわからない、ということだけだった。
一年もたてば、口さがない連中はすでに姫巫女は失われたのだと言ってはばからない。そうして目覚めを待つ透輝に他の女を娶るように勧めてくるのだった。
そのたびに透輝は激昂するので、最近は瑠璃に話を持ってくる者が多いらしい、というのは聞いていた。が、それにしても瑠璃がそういった話を実際に透輝につなぐことはなかった。
今日までは。
「だって、一年ですよ。世継ぎの心配とか。あの弟殿だってまたぞろいつ反旗を翻すかわかったもんじゃないですよ」
「いくらでも養子を迎えればいい。惟月にしても、もう一度歯向かってくるのなら叩くだけだ。なんの問題もない」
あの時、透輝は惟月を殺すつもりだった。しかし、真珠が殺すことを厭うていたことを思い出して留まった。真珠の意が天狼の意であったのなら、それに反してしまうことで永久に真珠を返してもらえないのではと思ったからだ。
透輝自身、馬鹿らしい思いこみだと思っている。神を信じていなかった自分が、神にすがるしかないなどと噴飯ものだ、と。
でもその馬鹿らしい考えを持ってしまうほど、真珠を失いたくなかった。
そういうすべてを、瑠璃は理解していると思っていた。
だからこそ、続けられた言葉に激怒した。
「あんた、このままたった一人で死ぬ気ですか」
透輝は瑠璃の胸倉をつかむ。怒りで目の前が赤く染まる。冷静に言葉を紡ごうにも、興奮で奥歯が戦慄く。
「口には気をつけろよ。お前だから二度目を許しているんだ。そうでなきゃ、斬っている。それに、真珠は死んでない」
「度し難いのはどっちだよ」
呟いた瑠璃はそれ以上何も言ってこなかった。
胸倉から手を放して、透輝は真珠のいる寝所へと急いだ。
いつも、この場所へ行くのは気が急く。
「真珠、いるか」
返事はない。
当たり前だ、彼女はあれからずっと眠っていたではないか。わかっているのに落胆する。
頬に触れて、ようやく透輝は息を吐いた。生きているということを毎日確かめずにはいられない。
周りの家臣たちが婚姻をせかす理由は十分にわかる。が、どうしても真珠以外を欲しいと思わなかった。かつては玉座以外をいらないと思っていたのに、こんなに目の前の女を欲するとは思わなかった。
姫巫女でなく、ただの女である真珠が欲しい。
「はやく、目を覚ませ、真珠」
そうしてもう一度、馬鹿者と罵ってくれ。
瞼が張り付いたようになって目を開けることが困難だった。いやだな、目覚めたくないなと思ったが、どうしても目を開ける必要がある気がしていた。
「……どうした」
掠れた喉から出た言葉がそれだった。
もっとも、明瞭に発音できたとは言い難いので、呆気にとられている透輝にその言葉が伝わったか定かではないが。
身体を起こそうとしたが、あまりにも重くて自由にならない。もぞもぞと真珠がいもむしのように身体をうごめかせているとようやく体が持ち上がった。
透輝が、背中を支えて上半身を起こしてくれたのだ。触れられた温かさに、胸が高鳴る。
「相変わらず何の脈絡もなく」
添えた手の反対側で頭を抱えている男の肩が震えている。
「おい、透輝?」
まさか泣いているのか。ぎょっとする真珠に、透輝は叫んだ。
「あんた、どれくらい眠っていたと思う? 一年だ!」
「そんなにか」
随分よく寝たとは思っていたが、そんなに時が経っていたなんて。
呆気にとられて真珠の目が丸くなる。その間抜けな顔を見て、透輝は毒気を抜かれたようだった。
「もうあんな無茶はするな」
「無理だな」
「あんたなぁ! 俺がどんな気持ちで」
「なにを言われようが、私は何度でも同じことをするだろうさ。お前だって、そうだろう?」
「こうも思い通りにならない女ははじめてだ」
「お互い様だ」
少々疲れた、と頭を預ける真珠に、笑えるほど透輝は狼狽した。
「まだ具合がよくないのか」
「寝起きだからな。頭がぼんやりするし、腹も減った」
腹にたまるものが食いたいな、と我儘を言えば、今度こそ呆れた様なため息をつかれる。
「あんたっていう女は」
「藍玉はどうしている」
「心配に及ばない。次期姫巫女として、宮にいる。あんたの傍を離れないと最後まで喚いていたが、さすがにそれは俺が譲れないのでな」
「藍玉にやると言ったのだが」
「俺が許すかよ」
小さく笑う。
「……ありがとう」
それは藍玉を許してくれたことの素直な礼だ。透輝は頷く。
「真珠、来世に期待しろ、とか言ったのは覚えているか」
意識が失われる直前、確かにそんなようなことを言った気がする。あの時はまちがいなく死ぬ気であったからそんな言葉が口からこぼれたが、今となっては恥ずかしいばかりだ。
「この状態はもはや一度死んだのと同じだと思わないか」
意図することがわからずに小首をかしげると、とろけるほどの優しいまなざしで見つめられた。
「あんたはもう唯の人で、俺のものだと思っていいか」
小さく胸が跳ねあがる。
そのまま透輝の胸の中に飛び込んでしまいたいのを堪えて、真珠は最後の言い訳をした。
「間違いなく、私はただの人だぞ。天狼さまのおめこぼしでなぜだか肉体を保ってはいるが、力の循環はなにも感じない。お前にこれ以上なにも与えられない。あるのは姫巫女であるという地位だけだ」
「最初から、そんなものはいらないといっているだろう」
逃げ道を完全にふさがれたような思いだ。なにか、ほかに。言い訳らしいことを探すが、この男の胸に飛び込むことを否やという理由がもうない。
が、それがますます癪に障った。そうして、癪に障るというだけの自分が、なんだか妙におかしかった。
真珠が肩を震わせているのを不審に思い透輝が覗き込む。その間抜けな顔にある一等高い鼻に噛みついてやった。
「なっ」
「なんだ、透輝。お前はやはり私の美しさに参っていたのだな!」
いたずらが成功した子どもの顔で笑う真珠に、とうとう透輝は大笑いした。
「そうだ、参っている。だから、死ぬほど抱かせてもらうぞ」
耳元でささやかれた宣言に、真珠は望むところだと答えて、透輝の薄い唇に自らのそれを重ねたのだった。
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【投稿作Ver.】銀狼の姫神子 天にあらがえ、ひとたびの恋 西嶋ひかり/角川ビーンズ文庫 @beans
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