第四章

 恐ろしいほどに白い顔だ。

 横たわる真珠の血の通わぬ顔を見て、透輝は崩れ落ちそうになる自分を自覚していた。そしてそんな自分を嘲笑いたい気持ちもあった。

 いつの間に、この小娘にそこまで肩入れしていたのだ、俺は。

 いくらそう自分の愚かしさを客観的に揶揄しようとも、真珠が死んでしまうのかと思っただけで失われる恐怖からは微塵も逃れることはできない。

 じいさまの小屋で真珠は突如、気を失った。それも、透輝の言葉に激昂して、だ。すぐに抱きとめたが、驚くほど冷たい体だった。死を予感させるには十分である。息があることを宮に戻る道で何度も確かめねば気が済まぬほどに。

 透輝は確かに取り乱していた。荒れ狂う内心を微塵も見せることのない鉄面皮を、まったく忘れていた。置いていかれた子どものような表情を隠すことができないでいたのだ。

「大丈夫ですか、陛下」

 瑠璃の言葉に我に返る。

 寝台の真珠は相変わらず瞳を閉じたままだった。瞼が動く気配はない。

「……問題ない」

 これほど説得力のない言葉もあるまい、と内心の冷静なもう一人の自分が自嘲するが、瑠璃は左様ですかと素知らぬふりをしてくれた。彼なりの気遣いであろう。

 真珠はあの神事の日から明らかに衰弱をしていた。現に、宮を抜け出したあの日、一度背中で眠っていた。あれは単に眠っていたわけでなく気を失っていたのだとしたら。

 わかっていながら、真珠がいつも通りの口をきくから安心していたのだ。まして、彼女は不老不死の姫巫女である。そんな夢物語をまるで信じていなかったくせに、透輝はいつの間にか当たり前に受け入れていた。だからこそ、ここまで衝撃を受けている。

 人と変わらないではないか、と真珠に散々言っておきながら、人と変わらない儚い肉体の様を見せつけられてのこの動揺は、我が身であろうとも滑稽と言うほかない。

「永遠を生きる姫巫女とやらが、たかが矢傷でここまでなるのか」

 誰もいないはずの虚空へ問いかければ、山犬が姿を現した。右手で顔を隠し、決してなれあわぬといういつものポーズだ。

 どこから現れるのか、この女に至っては考えるだけ無駄である。彼女は隠密というにはいささか人間離れが過ぎる。

「姫巫女様は衰弱しておられました」

 姿はあれど気配は限りなく薄い。この世ならざる者であるかのような山犬にそう言われてしまえば、死の宣告のように聞こえる。

 ぞっとする寒気を振り払うように、透輝は叫んだ。

「だから、死ぬというか」

 不吉を素知らぬ顔で咲く雪割草は、真珠を愛する侍女が置いたものだ。猛烈に腹が立って花瓶を払いのける。大仰な音を立てて割れるのを見て、山犬は眉をひそめた。

「死にはいたしません。姫巫女は永遠を生きる存在でありますれば」

「なら、どうしてこんな有様になっている」

 三日だ。

 倒れて後、真珠は死んだようにぴくりとも動かなかった。身体は冷たく、とても生きているとは思われない。弱く脈打っているのを確かめて、あの時透輝はようやく息を吐いたことを、ありありと思いだせる。

 宮の者たちは慌てたものの、誰も透輝ほどは取り乱していなかった。医者を呼べと言っても頭を横に振られ、ただ寝かせておけと言われるばかりであった。八つ当たりだとわかってはいるが、透輝の苛立ちは頂点にきていた。

「二つ、考えられます」

 山犬はようようと息を吐いて、言った。

「一つは、婚姻が成ったことによって、姫巫女様の力の弱まりがあげられましょう。普通であれば、矢傷などものの一日で跡形もなく治ってしまわれます」

 他ならぬお前のせいだ、という非難を山犬は隠そうともしなかった。

 真珠は透輝に言った。『巫女でありたいのだ』と。

 その時は透輝には意味なぞわからなかった。たかだか抱いてしまうだけでその女の本質が変わろうなど、どうして思えるだろうか。

 三日通うことで、巫女は作り変えられる。

 人と同じものになる、というのはある意味で退化だ。人ならざる力と肉体を捨てさせることを、自分は強いたのか。その結果がこれだ。

 かつて、その遺骨を食むほど愛した銀狼は、姫巫女を堕とすことになんの罪悪感も覚えなかったのか。いずれ失われる肉体を悔いたことはないのか。

 初めて、あの女を神から奪う、という意味を考えた。

「もう一つは」

 張り詰めた空気を切り裂く山犬の声。

「ただの矢傷ではない、ということです。もっとも、こちらはあくまでも私の推測にすぎませんが」

「もったいつけるな」

 先ほど断言したくせに、なんとも歯切れの悪い言い方だ。いらいらと吐き捨てた透輝に、山犬は視線鋭く睨みつける。

「ことは宮に関わることです。私の口からはこれ以上は申せません」

 答えを言ったも同然だ。最初から透輝への憎悪を隠さず、かつ姫巫女に最も近い人物といえば一人しかいない。惟月と失踪した人物。

 刺客の手引くらいは藍玉によるものであろうと思っていたが、まさかあの幼子が矢を射かける当の本人であるなど。

「……藍玉」

 あの、次期姫巫女である幼子。

 無垢そのものである藍玉の顔を思い浮かべて、透輝は舌打ちをした。

 山犬は透輝のこぼした名に肯定も否定もしない。ただ、顔を伏せて佇んでいた。

 上等じゃないか。

 半ば、自棄の気持ちだった。

「瑠璃」

「はっ」

「藍玉を殺せ」

 正気か、と瑠璃が目を剥く。

 ひとたび戦となれば解き放たれた獣のごとき働きを見せる男でも、さすがに幼子を手にかけるのは憚られる。まして、あの惟月でさえ野放しに等しい扱いをしているのだ。むしろ惟月を自由にさせていたために、藍玉は凶行に走ったと言っていい。さらに言うなら、真珠は透輝を庇って矢傷を負ったのだ。

 一連の全ては透輝が不覚をとった。その一言に尽きる。

 が、それで取り返しのつかない事態に陥っているのだから、透輝の腹立ちは瑠璃にも理解できる。しかし、それではあまり。

「それは承知いたしかねます」

 絶句している瑠璃の代わりに、山犬が断固とした拒否を口にする。透輝がぎろりと睨みつけた先の女は、相変わらず表情を晒すことはない。単調な口調も、腹を割らぬ様子も、こと今に至っては耐え難いほどの不快であった。

「お前に命じていない」

「姫巫女様は宮の者に手出しを許さぬとおおせのはずです」

 奥歯を噛みしめ精一杯怒鳴らぬようにしたのは、あくまで眠っている真珠への配慮からである。透輝の精一杯の忍耐を嘲笑うように、山犬はもう一度はっきりと否を告げた。揺らがない言葉と態度は透輝の神経に触るのに十分すぎた。

「だから、どうした」

 この男は。

 瑠璃は天を仰ぐ思いで目の前の主を見つめる。

 怒れば怒るほど燃え上がるタチの男ではない。冷たく凍りつくことこそが、この男の本性である。その冷たさでもって、今まで幾度も修羅場をくぐりぬけてきた。

 山犬が唾を飲む音が聞こえる。気圧されているのだ。

 一歩、透輝は足を踏み出す。瞳孔が開いている。静かに冷たく、激怒しているのだった。

「手出しをせぬように、だと? 誰にものを言っている」

 また一歩、透輝は山犬に近づく。柄にこそ手をかけていないが、それも時間の問題であるだろう。山犬は自由になっている手を懐にさしこんだ。

 暗器か。

 瑠璃が身構えるが、透輝はまったく頓着せず山犬の眼前に立ちふさがった。

「藍玉は俺のものを傷つけた。それを罰するのにお前たちの許可がいるか」

 睨みつける互いはまさに一触即発である。瞬きの間に、いつどちらの命が失われてもおかしくはない。

「はい、そこまで」

 内心で冷や汗をかきながら、それでも平静を装って瑠璃はわざと無遠慮に割って入った。一歩間違えば両方から斬りつけられていたかもしれない可能性を考えないではなかったが、これ以上放っておくことはできなかった。

 透輝は我を失っているに近い。

「陛下、八つ当たりもそこまでにして。あんたは藍玉がどうとかよりも、自分のせいで姫巫女さんがこんな状態になっていることが許せないんだろ」

「瑠璃、だまれ」

 向けられた怒りは今なお冷たい。が、自分に向けられる分にはいかようにもなる。

 はらはらさせる主だ、という軽口はさすがに胸の内に留め置いたが。

「黙んねーよ。こればっかりは」

 言い捨てて、瑠璃は山犬に向き直る。

「藍玉は生きていれば惟月と一緒にいるだろう。もちろん、自死を選ばない限り無事だろうさ。惟月がみすみす殺すはずもない。そんでもって、藍玉はこちらが捕らえる」

「槙島っ」

 それでは何も変わらぬではないか、と珍しくも狼狽する山犬を手で制す。

「だが、それだけだ。捕らえるが、なにもしない。あんたたちに引き渡す。どうだ」

 ややあって、山犬を大きく息をついた。懐から手を抜いて、空っぽのその手を見せつける。

「……それであれば否やはございません」

「なら、協力してくれ」

「承知した」

 ごくあっさりとかわされる互いの了解を打ち破ったのは当然のことながら透輝である。

「勝手に決めるな!」

「あんたが今考えるべきことは!」

 瑠璃は透輝の胸倉をつかむ。銀に光る瞳を、瑠璃は臆することなく真正面から捉えた。

「ようやくしっぽを出した簒奪者を堂々と討つことだ。私憤に囚われて小娘一人を血祭りにあげることじゃない。ちがうかっ」

 しばし睨み合って、先に目をそらしたのは透輝であった。そしてようやく瑠璃は胸倉から手を放す。やれやれとおどけて肩を竦める瑠璃は完全にいつも通りの様子だった。

「あんまり俺にらしくない説教させるな、透輝」

 かつてただの乳兄弟であった時のように名を呼ばれ、さすがにばつが悪かった。そっぽを向いて口の中でもごもごと謝罪を呟く。

「……悪かった」

 まったく足りないが、瑠璃はそれ以上責める言葉を口にしなかった。

 で、早速協力といこうじゃないか、と山犬へ問う。

「あんた達のほうでなにかわかったことは」

「藍玉の故郷も探ってはみたが、それらしい娘が出入りした様子はない」

「じゃあますます弟殿と一緒にいるだろうね。それ以外、あの娘がいくところがない。幸いなのは静観を決め込んでいた国境の者たちがこちらに恭順の意を示していることだけだなぁ。これで最悪国の外に逃げられることはなくなった。これに関しちゃ姫巫女さんのお手柄だ」

 惟月の猿まねは誇りが許さないか? と問うた本人は、こちらの状況も知らずに眠り続けている。

 透輝は急にそんな真珠が憎らしくなった。

 こちらの気も知らず。

 小さな鼻をつまんでやる。とたん、規則正しい寝息が乱れた。確かに生きているのだとわかって、小さく笑う。

 そんな自分に驚いて、透輝は自らの頬を撫でた。

 笑えるのだ、目の前の少女が生きている限りは。

「陛下?」

「俺はとんでもない阿呆だ」

 その顔は確かに笑っていた。しかし、けっして微笑などではない。 

 ぞっとするような、恐怖を越えた末の、一種の凶相であった。

 瑠璃は目の前の主についぞ覚えたことのない畏怖を抱いた。

「惟月を始末する」

 はっきりと、宣言した。

「とるに足らぬやつだとあるがままに任せていたが、今度こそだ。これは俺の私怨でもなんでもなく、これ以上、俺の国を乱さないためだ。銀狼として、神を大義としてやつを討つ。馬鹿馬鹿しいと鼻先で笑うやつは片端から斬り伏せる。俺は、この大仰な大義を背負ってやる」

 誰に命じられるでもなく、自分の意思で、神を背負ってやる。

 その時、透輝は確かにかつて銀狼と呼ばれたであろう存在に間違いはなかった。



「真珠、私はいったいどうすればいい」

 見たことがなかった。

 いつも圧倒的な美しさと強さを誇っていた私の姫巫女さまが、うずくまって泣いている。この段になって私ははじめて自分の愚かしさに気がついた。

 私は、まちがっていた。

 姫巫女の本分は天狼さまの意志を受け、銀狼を選ぶこと。私の姫巫女さまはそれを拒否されていたけれども、それこそが姫巫女さまの幸せと信じて私はあの男を引き合わせたのだ。間違いはなかったはずだ。姫巫女さまは私の予想通りのあの男を選ばれた。なのに、彼が銀狼であった絶望に泣いている。

 それはすなわち、姫巫女さまの舞への道が終わることを示していた。

「姫巫女さま、婚姻は姫巫女さまの最大の幸せですわ」

「天狼が私の幸せを決めるか」

 尊称をつけずに神をはき捨てるように呼んだ姫巫女の激しさに、私は肩を揺らした。

「私はきっと、あの男を愛すだろう。一目見たときからわかった、あれはどうしようもない、私の運命だ。けれども、それは本当に私の意志か? 天狼のほしがっているものを私が選ばされているにすぎないのでないか。あの男だって、天狼に踊らされているのに過ぎない。私という人間を愛しているのではないのではないか」

 なんということか。

 私は今度こそ絶句する。自分自身を求められることなど、考えたことがなかった。その役割においてのみ、人は生きるものだと。

 涙に塗れた顔をあげて、姫巫女さまはこちらをにらみつけた。

「お前が、私の運命を運んだのだ。望まぬ運命を」

 ちがう。

 あのとき、姫巫女さまは私にそのようなことはおっしゃらなかった。

 これは過去ではない。ゆめだ。

 頭を振ってあとずさる私に、姫巫女は立ち上がり、肩をつかむ。

「お前さ。お前も逃れられはしない」

 いいえ、私は逃れてみせる。

 私の意志で、私はあなたが見ることのなかった先へいってみせる。あなたは、それを私に託したではないか!

「それが、お前の意志か」

「そうだ、これが私の意志で望むものだ、天狼!」

 あざ笑う姫巫女の姿の神に、私はほえる。

「私は私という存在以外、なにも望みはしない。なのに、どうして邪魔をするのだ!」

 神は耳にいたいほどの哄笑を残して、風のように消えた。



 眠りがこれほど唐突に、そして絶えずあるというのは恐怖であった。

 真珠はいまだ覚醒しきれていない頭で身を起こした。

 暗い部屋は僅かに月明かりが照らしている。おぼつかない光がいっそなければいいのにと思うほど、真珠は絶望しきっていた。いっそのこと目を覚まさなければよかったのだ。

 自棄になっていた。

 あの男にこれほど心を奪われていたのかと思うと、自分で自分を縊り殺したい。

 真珠の心の底で欲していたものを見透かされたような気分だった。とうに諦めたつもりのものだった。たった一人の自分として求められることを。

「だって、私は姫巫女さまの代わりとして生きなければならない」

 じゃなければ、どうして償える。

 愛してやまない姫巫女の自由な未来を奪ってしまった。自分が銀狼とひきあわせることがなければ、姫巫女は望むとおりに舞だけの生を生き続けたはずだ。奪ってしまったからには、彼女が真珠へ託した通りに生き続けねばならない。

 この、恐ろしいほどの孤独を。

 溢れそうになる涙を、頬の内側を噛むことで堪えた。泣く権利などどこにもない。

 それに、いまは自分を可哀想がっている場合ではない。

 考えるべきは藍玉のことであった。

 彼女がまったく惟月に与していたとは考えられない。あくまで忠誠は真珠にあった。それを見誤るほど愚かではないはずだ。ただ、問題はどこにようとも透輝たちより早く見つけることだ。いまや山犬もあまりあてにはできない。彼女は真珠個人というよりも姫巫女という立場に仕えている。姫巫女の命を危うくした藍玉を丁重に扱うとも思われなかった。

 もとはと言えば。

 真珠への行き過ぎた忠誠からきたものだ。ならば自分が責任を取らねばならぬ。この宮のものは何一つ傷つけてはならない。

 先代から預かっているものを、損なうわけにはいかなかった。

「姫巫女さまっ」

 すがるように、真珠は叫んだ。

 どうしたらいい、どうすれば、だれもかれも救うことができる。

 ひとしきり自分を抱きしめて、闇に浸りきった。答えは、当然ながらどこからも返ってはこない。

 いずれにしても、現状がどうなっているかわからない。自分が気を失ってからどれくらい時間がたっているのかもよくわからないのだ。

 寝台から降りて足を踏み出した途端、自らの役割を忘れたように足がゆうことを聞かなかった。冷たい床の感触は伝わってくるが、踏みしめることができない。揺らぐ身体を忌々しく思い、真珠は声を上げた。

「だれか、あるか」

 血が足りぬのだろう。

 簡単な食事をして、とにかく体の隅々まで目を覚まさせる必要があった。夜中であろうが、宮の忠実な侍女たちは真珠の意をくんでくれるはずだ。

 だから全く疑問に思わなかった。

 声もなく入ってきた侍女が伏せた顔を上げてみせるまでは。

「よほど女の姿がお気に召したとみえる」

 自分の言葉が震えないように努めることに全力を注ぐ。上手く笑えているだろうか。ぐらついた足を悟られないように、真珠は寝台に腰掛けた。

 眼前の男、惟月に立ち向かう力を掻き集める。

「お加減はいかがですか」

「藍玉はどこだ」

 お前の芝居に付き合ってやる義理はない。言外にそう言い捨てて、真珠は惟月を睨みつけた。

 まったくふざけた格好だった。侍女の姿に身をやつしても、何ひとつ偽れていない。彼の仮面はいまやはがれおちていた。

「なぜ、それを私に?」

「お前が一度手に入れた玉を手放さない程度には頭が回ると思っているからさ」

「それは褒められているのかな?」

「そう思うなら一度寝た方がいい。よほど疲れているようだ」

「寝起きの割に口はよく回るようですね」

 皮肉を言った惟月の顔が醜く歪む。真珠はますます苛立つ内面を押さえるのに苦労した。

「言え。これ以上無駄な問答をしている暇はない」

 肩を竦めた惟月が扉を叩く。その扉から恐る恐る入ってきたのは藍玉であった。

「無事だったか」

 真珠は小さく息を吐いた。死んではいまいとは思っていたが、やはり姿を見るまでは安心できなかったのだ。

 小さな震える手を祈るように組んで、藍玉はこちらを見つめていた。

「お許しください、姫巫女様」

「藍玉?」

 惟月のそばにいる藍玉に私はこちらにこいと命じる。なぜだかとてつもなくいやな予感がした。

「いいえ、まいりません。私は罪人です」

「私が説明しましょう。藍玉があなたを射たのですよ。それだけじゃない。兄上に刺客の手引をしたのも藍玉だ」

 刺客の件は初耳だが、射られたのはわかっていた。

 神事の後、藍玉が右肩を庇うようにしていたからだ。真珠は知らぬふりをしたが、あれは確かに真珠が貫いた矢傷である。

 愚かなことを、と責める気持ちはもちろんある。だがそれよりも、惟月への怒りが勝った。

「お前が藍玉を操ったなど、わかりきっている」

「言いがかりですね」

 いいながら薄笑いを浮かべている惟月を真珠は気味悪く思った。

 なんだ、こいつへの強烈な違和感は。

 ぎくりとして、真珠は硬い声で命じた。

「藍玉、その男から離れろ」

 怯えた藍玉は一歩後ずさった。真珠はどこか虚ろな惟月を睨みつけた。彼は、声を震わせた。

「どうして私を選んでくれないのですか」

 それは泣き声だった。

 脈絡のない言葉と涙に、真珠はぞっとする。

「おまえなに言っている」

「すべての人が私を選ぶ。あなたの忌子である藍玉すらもです。あの兄のなにが私よりすぐれているというのですか」

 錯乱している。

 刺激をしないように答えるべきじゃない。そう分かっているのに、真珠の口は惟月を罵倒していた。

「どこが優れているだと? なにもかもだ。小物め」

「あなたは、神の意志を正確に伝えるべきだ」

 薄笑いを浮かべてこの期に及んで自分が特別だとのたまう惟月を、真珠は高らかに笑った。

「おまえにそれがわかるというのか」

 唯の人が、神の意思を断言することの馬鹿らしさは怒りを通り越してもはや呆れであった。惟月は真珠の抱く嫌悪を何ひとつ理解していない。

 なぜ! と叫んで己の信じる正しさを主張する。

「誰に目にも明らかだ! あの兄より私の方がすぐれている! 惜しむらくは生まれた順番だけだ。だがそれも、あなたさえ手に入れば何の問題もない」

「救いようのない阿呆だ」

 真珠ははっきりと罵倒した。

「なにもわかっていないな。神の枠のなかにいない。それこそが銀狼である証だ。おまえのようにとらわれることを望む者にはなにもわからない」

 そうだ、それは私と同じく。

 真珠は自嘲した。

「次代の巫女である藍玉がおまえを選んでも、当代の巫女たる私はおまえを選ばない。神がおまえを選んでも、何度生まれ変わっても、私は透輝を選ぶ。おまえのような小物なぞ、ごめんだ」

 天狼の意思のすりこまれた本能でなく、我が身の理性でもって。

 命を失うのかもしれないという段になって、真珠はようやく透輝への思いをはっきりと認めた。なにか重大な契機があるわけでなく、ごく自然に、目の前の惟月の姿を見て思ったのだ。

 あぁ、透輝に会いたい、と。

 しかし姫巫女であることを選んだ自分にはもはや会わす顔がない。小さく笑った真珠を見て、惟月は顔色を変えた。そして鞘から光る刀身を抜く。月明かりに鈍く光るそれは、まちがいなく真珠の死であった。

 襲いかかる惟月をゆっくりと眺めている。

 ひめさま! と藍玉の悲鳴が聞こえて、気に病まないといいなどとあさってのことを考えた。

 いまさら、夢に見た自分の死体を思いだしている。

 なるほど、あれは間違いなく死体であった。真珠は力の循環を失った。巡ることのない力はとどまるか、穴があけば流失してしまうしかない。

 それはすなわち死だ。

 まぁ、いいか。ごく自然にそう思った。その時。

「どうしてこんな時だけあんたはものわかりがいいんだ」

 非難の言葉とともに飛び込んできたのは透輝だった。

 庇うように立ちふさがる透輝に、真珠は驚愕し、喘ぐように呟いた。

「どうして」

「逆になんで宮の中で俺がなにも知らないと思っている」

 透輝は軽口をたたきながらも油断なく刃を構えていた。離れろ、と目線で真珠に告げ、惟月にむき出しの殺気をぶつけていた。

 惟月はそれに恐れるどころか、大歓迎だと言わんばかりに透輝に向き直った。

「いつもいつも、私の邪魔をするんですね、兄上」

「お前が、俺の邪魔をしているんだ。いいか、これで最後だ。俺に従え。そうすればこれまでのことは不問にしてやる」

 火に油を注ぐとはこのことだ。惟月は大笑した。

「馬鹿にしてるんですか」

 吐き捨てた顔は憎悪に満ちていた。国一番の美しさを誇った母の面影は、どこにもない。

「兄上、あなたはいつもそうだ。私のことをそこいらの石ころかなにかと同じだと思っている。だから、そんなふざけた提案ができるんだ。従う? いまさらあんたに? 私をこれ以上誇りのない者にしようとするな!」

 震える手で、惟月は構えを崩さない。

「殺せばいい」

「それが、お前の答えか、惟月」

「名を呼ぶなっ」

 切りかかる惟月をいなして、透輝はそのまま肩からばっさり切りつける。

 圧倒的な技量の差であった。

 達人同士はいくつか打ち合えばその差がわかるというが、もはや一度打ち合っただけで透輝が優れているのは明らかであった。惟月が特段劣っているのではない。構えから見ても相応の使い手であることはわかる。が、透輝には惟月にない柔軟性があった。膨大な実践で培った経験値の差、といってもいい。惟月の刃を受けながら、机を蹴り倒す。思わず体勢を崩した惟月に蹴りを喰らわせて、体を倒す。地に伏せた惟月に、

「おわりだ」

 切っ先を突きつける。惟月は無言で刀を手放した。それを即座に透輝が手の届かない場所へ蹴り飛ばす。

 さほど長い時間であったわけではないが、真珠はようやく息をついたような気持ちだった。

「殺せばいい」

 おびえの色を隠すのは最期の矜持なのであろう。あるいは、恐れなどはじめから持ち合わせていないのかもしれなかった。透輝の背中を見るしかない真珠は、これから起こる殺戮の予感似ふるえた。たしかに、殺せばいいと言った。言ったが、それが目の前で行われるという段になって、本当に自分が思った通りに人が失われることに恐怖を覚えた。勝手なことは重々承知だ。だが、いずれ自分もその限りある命を持つ側に回ると考えたとき、初めてそれが恐ろしいと思ったのだ。

「透輝」

「なんだ」

 名を呼ばれても透輝は振り返ることはしなかった。切っ先を突きつけたまま、視線の先は惟月をとらえたままである。

「それぐらいにしてくれ」

 懇願は黙殺される。そうだろう、と真珠も理解していたので透輝の了承を待たなかった。真珠は言う。

「お前は、私だ」

「おい、くるなっ」

 止める声に耳を貸さぬまま、真珠は歩みを止めない。

「お前は、私なんだ」

 うわごとのように口にする言葉は紛れもない事実だった。

「なにをいっている」

 惟月の声に、初めて怯えの色が混じった。見透かされている、と恐怖したのだろう。それは正しい。真珠にとって、惟月はかつての自分だった。

 姫巫女の影を追いかける、かつての愚かな自分。

「私はなんにも持っちゃいなかった。私は、持っている側になりたかった」

「真珠っ」

 透輝の制止はなんら意味をなさない。過去の自分を、この愚かで醜い自分に今、手を差し伸べねば一生償えぬ、と思った。

 真珠は膝をつき、倒れたままの惟月の手を握る。

「あの美しい人になりたくて、私は許されぬ罪を犯した」

 逃れられぬ運命の男を引き入れるという大罪を。

 許しを与える、というよりはむしろ告解だった。

「それがどんな結果をもたらすか、私は十分にわかっていたはずだ。でもそれが、あらゆる幸せに通ずると信じて疑わなかった。いや、そう思うおうとした。そうでなきゃ、私が哀れだと思った」

 そうだ、自分がかわいそうでならなかった。あんなふうに生きてみたいと思う手本がすぐそばにいて、しかしどうあってもそうじゃない自分を毎日毎日、目の当たりにする。

 こんなつらいことがほかにあるか。

「でもそれはとんでもなく傲慢な思いこみだった。誰も、誰かになることなどできはしない。自分は自分というなかでしか生きられない。私たちにできるのは、自分という歩みを進めることだけだ」

「やめろ」

 唸るような惟月の言葉は真珠を止めることができない。

「お前も、透輝にならなくてもいい」

「ちがう」

「いいや、なれはしないんだ」

「やめろぉぉっ」

 絶叫だった。同時に真珠は捕らえられた。一瞬のことだった。這いつくばる惟月に押さえこまれるような格好で、真珠は引き倒された。

 喉元に、袖の中に隠しておいたであろう針を突き付けられるのを、ぼんやりと見ていた。

「姫巫女さまぁっ」

「うるさいぞ、役立たず」

 藍玉に吐き捨てる惟月は恐慌の中にいた。

「惟月、お前」

「動かないでください。でないと、うっかりこのまま姫巫女さまを傷つけてしまいそうだ」

 透輝の厳しい視線を鼻先で笑う。上目遣いで懇願するような格好なのに、立場はもはや逆だった。

 人質にしたのが真珠でなければ、の話だが。

「無駄だぞ、惟月」

 微動だにせず、真珠はあっさり言った。

「私は死なぬ。何の意味もない。それよりも、最後の忠告だ。従え。命は保証してやる」

 告げた事実は虚勢に過ぎないと、惟月は思いたがっていた。真珠が意味もないと言った言葉を否定する。

「なにを今更。もうやめられはしない。そもそも、お力が弱まっているのでしょう」

「だから、どうだというのだ。弱まっているだけで失われてはいない。ということは死にはしないということだ。これは何の脅しにもならん」

 すべては無駄だ。

 冷徹にそう言ってやると、惟月は媚びた視線を透輝に向ける。

「それは、どうでしょうね。兄上」

「真珠を放せ」

 透輝はたった一言、簡潔に要求を伝えた。そこには何の感情も含まれていないように思えたが、惟月は確かに僅かばかりの震えを感じたらしかった。

 わが意を得たりと口の端を上げる。

「兄上には有効なようだ」

 まさか。

 真珠は動揺する。

「透輝、おかしなことを考えてくれるなよ」

「おかしなことを考えているのはあんただ」

 言うや否や、あっさり刀を捨てた。

 間抜けな音を立てて落ちるのを見て、真珠は目をむく。

「馬鹿かっ! お前、私をなんだとおもっているんだ」

「俺の女だと思っているが?」

 開いた口がふさがらないとはこのことだ。えらくすんだ瞳で、透輝ははっきりとそう言った。

「俺が、あんたを傷つけてもなんとも思わないような男だと思われていたのなら、とんでもなく見下げられたもんだ」

 そんなこと言っている場合ではないだろう、とかこの状況をみろ、とか言いたいことは山ほどあったが、どれも言葉にはならなかった。

 ただ、鼻の奥がどうしようもなく痛む。

「透輝、お前はほんとの阿呆だ」

 涙声の真珠に、惟月は耳元で声を上げて笑った。

「あははっ。まさかこんな小娘にたらしこまれるなんて、鬼若子の名が泣くよ」

「いまは銀狼って呼ばれてるんだがな」

 刀を捨てたことを何ひとつたいしたことではないと思っている透輝に、確かに有利になったはずの惟月が焦れる。

「うるさいっ」

 転がった透輝の刀を拾い、突き付けた。

「形勢逆転ですよ」

「の、さらに形勢逆転ね」

 瑠璃がすでにその背後をとっている。勝ち誇ったのはほんの一瞬だった。あえぐように「いつから」という惟月の問いを瑠璃は無視する。その代わりに促すように切っ先で首筋をなでてやると、惟月は力なく手から刀を放した。落ちた刀を瑠璃は透輝の方へ蹴り飛ばした。

 本来であれば主の得物を蹴るなど考えられぬことだが、透輝はさすがにその点では怒りはしなかった。拾いながら、

「遅いぞ、瑠璃」

 ぎりぎりのタイミングで現れたことへの不満を口にする。瑠璃は惟月に油断なく視線を向けながら言う。

「あんたの無茶に応えていたら、こんなありさまになっちゃんたんだよ。ほんと大概にしてよね」

 瑠璃の言葉には相変わらず緊張感というものがなかった。

 それがまるで日常に戻ったようで、真珠の体からようやくどっと力が抜けた。

「……腰がぬけた」

 呆然とへたりこむ真珠に、透輝が大丈夫かと助け起こす。あれほど酷いことを言ったのに、透輝は普通だった。

 言わねば。

 本当は、あなたを選びたかったと言わねば。

 そうして、さよならを告げる。やはり姫巫女という位を捨てることはできない。それ以外の生き方など、考えたことがないのだから。

 考え込み目を合わそうとしない真珠の頭をひとなでして、透輝は瑠璃に問う。

「山犬は」

「もう諸侯に渡りはつけているはずです。まもなく、惟月殿に与した連中は片端からとらえられるでしょうね」

 いまだいれば、の話ですが。

 そう皮肉気に瑠璃は付け足す。

「どういうことだ」

「最初から、あんたを餌にしてこいつらをおびきだそうとした。他は下るように話を進めた上で。あんたとの婚姻の話が知れ渡ったから、そのあたりはずいぶん楽になった。同時に、切羽詰まった惟月が尻尾を出すのもすぐだと思ったからな。怒ったか」

「どうしてそう思う?」

「宮のことに口を出されるのはいやなんだろう」

「それをわかっていて聞くか」

「だが、俺はそれを承伏しない。あんたは俺のもんで、俺はあんたのもんだろう。だったら、あんたのことは十分に口を出す権利があるはずだ。だから、謝らんぞ」

「お前、それはどういう理屈だ。私の命までかってに担保しておいて」

「その点に関しては、全く問題ないだろう。俺はあんたを傷つけるつもりはなかった。守るからな」

 口を開けて間抜け面をさらすのはこれで二度目だ。真珠は呆れてものも言えなかった。この男はあろうことか、すべて本気で言っているのだった。

 おとりにしたくせに、真珠には指一本ふれさせない、と。いったいどういう神経をしていれば、この修羅場で絶対などといえるのだ。

 透輝を見つめ言葉を失ったままの真珠の頬を、透輝は熱い手でなぞる。

「これでわかっただろう、俺から逃げても無駄だぞ。あんたもいい加減腹をくくれ。あんたはあんたでしかないんだろう、誰の真似もする必要がない。俺は、真珠がほしい」

「私はっ」

 言葉に詰まる。

 どうしたらいい。

 なんのくったくもなく目の前の男の胸に飛び込めればどんなにいいか。でも、自分には使命がある。先代姫巫女のあるべき姿を体現するという、約束された使命が。

「わたしは……」

 真珠が口ごもるのと、瑠璃の叫びは同時だった。

「陛下っ」

「……え?」

 真珠の口からもれたのは、吐息だった。

 ゆっくりと、ゆっくりと透輝が倒れ込むのが目に映った。真珠の小さな体にのしかかる重みの意味がわからない。

「くっそ。これだからガキは」

 悪態をつく透輝の声で我に返る。

「透輝?」

 我が身を預ける透輝に真珠は意味が分からずその背中をだきとめた。ぬるりとした感触に、脳が警鐘を鳴らす。いやだ、これはみてはだめだ。

 そう思うのに、視界には鮮烈な赤に塗られた真珠の小さな手が飛び込んできた。

「おい、しっかりしろ」

 瑠璃がわめきたてるのを、真珠はどこか他人事のように見ていた。知覚してしまえば、終わる気がする。

 視線の先にいたのは、藍玉だった。

「姫巫女さまをうばわないで」

 ふるえる体を二本の足でようやっと支えているような風情で立っていた。その手から、大仰な刀がこぼれ落ちる。あれは、惟月が捨てた刀だ。

 血で濡れた刀身は忌々しい輝きを放っていた。

 真珠はうわ言のようにその名を呼んだ。

「藍玉」

「姫巫女さま、逃げましょう。だれもいない、姫巫女さまと私だけで、銀狼の追ってこないところへ」

 寝言じみた言葉は本人もよく意味を分かっていないのだろう。どこか呆然自失としている。しかし、それは真珠も同様だった。すべて膜が張ったようにぼんやりと見えた。触れる身体も、感じている重さも、濡れた手の不快感も、これは本当に存在していることなのか。

 いやだいやだ。

 死ぬなと叫べばそれが現実になりそうな気がして、真珠は言葉が出なかった。

「あははっ、これで終わりだ」

 惟月の笑いで、真珠ははっとする。

 いいや、終わりではない。

「だまれ」

 わいて出てくる血を両手で押さえ、真珠は微笑した。

「藍玉、少し待ってくれ」

 透輝を抱きしめた手が、強くなる。腕の中で透輝が力なく笑った。

「なんだ、さよならでも言ってくれるのか」

「しゃべるな、ばか」

 窘めると、弱弱しく告げた。

「これで、あんたは自由だ」

「さんざん俺のものだといっておいて、死ぬくらいで諦めるのか。冗談じゃない。もっとほしがれ、私の銀狼」

 勝手なことを言っているのはわかっている。でも口が止まらなかった。

「自由だと? 断る」

 そうだ。どうしていつも失う直前でわかってしまうのだ。

 何ひとつ失えない。でもたった一つを失うのだとしたら。

 真珠は迷いなく、自身を投げ出す。かつてそうできなかったように、今回は間違わない。

「私はもう、なにも失うわけにはいかない」

 いいながら、真珠は透輝の握っていた刀を取り上げる。

「借りるぞ」

 なにを、と驚愕に目を開く透輝に心配するなと視線で頷く。顔色を変えたのは藍玉だ。

「姫巫女さまっ」

 真珠のやろうとすることがわかったのだろう。藍玉とて、次代の姫巫女としての知識を授けられている。

 邪魔が入らぬうちに、と真珠は口早に告げた。

「藍玉、あとの私はくれてやる。好きにしろ」

「おい、なにするつもりだ」

 真珠は答えなかった。

 その代わりに、たったひとつの望みを口にした。

「言っただろう。失うわけにはいかない、と」

 さよならだ、透輝。

 真珠は小さく呟いて腹に剣を突き立てる。

「真珠っ」

 透輝が名を呼ぶ声が、まるで絶叫のように響いた。

 心配するなと言ってやりたいのに、真珠の唇はわななくばかりで声が出ない。

 肉体のくせに逆らうとはいい度胸じゃないか。私を誰だと思っている。

 内心で思うがままにならない肉体を叱咤して、残る力を振り絞る。

「命は巡る」

 透輝の傷口に自身の血をたっぷり塗り付けて、真珠は言霊を吐く。

「巡る命は変化して、ひとつ」

 混じり合う血液は、花のような芳香を放つ。それはまるで、命を祝福するように。

 姫巫女のもたらす祝福に、ひとつだけ呪いに似たものがある。

 変化は常におこる。真珠はそれを意図的に、一つの方向にねじ曲げることができる。自分の肉体の死を対価として。

 姫巫女は己の命を対価に命に指示性を与えることができる。死、あるいは生。進化、あるいは退化。

 振りまく祝福とは一線を画すその力は、姫巫女たちに幸福をもたらさない。これは命の交換であり、もはや神の領域であるからだ。

 かつてこの力を行使したものは、婚姻を待たずして姫巫女としての生を終えている。同時に、人としても失われている。

 ある姫巫女は銀狼にさらなる力を与え、死んだ。またある姫巫女はその愛ゆえ、銀狼に死を与えた。彼女たちはいずれも力を行使したとたん、灰になって消えた。神の力に器が耐えきれなかったのだ。

 一種の禁術である。しかし、銀狼のなかにはそれを求める者も多かった。

 真珠はこの役割に大いに不満があった。人を愛して命を対価にするなんてばかげている。

 姫巫女になってしまった。ならば誰も愛さない。あの美しいひとがなれなかった、ただの姫巫女であろう。最後まで。

 移ろうことなく、ただ永遠にあるものとして。誰も二度と、姫巫女などという存在を娶るなどと考えないほど、長く。

 なのに、どうして望んでしまうのか。

 浮かぶのは後悔ではない。真珠は願いを込めて呟く。

「いきろ」

 おまえだけは、しんでほしくない。

 たったひとつの、愚かな願いだ。いつでも死を見送ってきたのに、姫巫女であろうとするなら我慢すべきたった一人を、真珠は我慢できなかった。

「馬鹿かっ! くそっ」

 透輝は剣を抜こうとするが、真珠に押さえ込まれてわめくだけだった。こんな小娘におさえこまれるなんて信じられないに違いない。

 神の力をそそぎ込んでいるのだ。ただの人に妨げられることなどあってはならない。

「いきろよ」

 こみ上げた血を口の端から垂らし、真珠は透輝の口をふさいだ。唾液と血が混じり合う。

 のめ。

 促すように舌をなでると、透輝はだまって喉をならした。

 いいこだ。

 名残惜しい気持ちを隠さないまま、水音を響かせて未練がましくゆっくりと唇を離す。

「足りるかっ」

 真珠の頭を押さえ、透輝はもう一度その唇に噛みついた。真珠は重ね合う唇の間で、小さく笑った。

「おまえ、私を手玉に取るつもりか」

 透明な笑みだった。

 そのまま儚く消えてしまいそうな。

 透輝は逃がすまいと真珠にしがみついた。

「いくらでも手玉にとってやる。あんただけ死んで終わりとか俺が許すと思うのか」

 細い首に噛みつかんばかりの勢いで許さないと怒る。

 真珠は小さく身を震わした。

「……来世で期待してくれ」

 喘ぐように吐き出した言葉は、最後の強がりだった。痛みを忘れ、真珠は透輝を抱きしめる。

 我儘だろうが、最後はこの男の腕の中に閉じ込められたかった。

「真珠っ」

 泣きそうな声で抱き返され、笑い飛ばしてやりたいのに今度こそ声が出なかった。 

 あぁ、今度こそ目が覚めない眠りだ。

 でも不思議と、恐ろしさはなかった。

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