第三章
夢じゃない。
私が最初に思ったのはそれだった。
かといって、過去を見ているのでもない。現実として、私は姫巫女と対峙している。
意識が閉じている状態でも私の頭にはもう一つの世界がある。それ今はたぶん、より鮮明になっている。
私の記憶と寸分たがわぬ美しい姿に、我知らず息を漏らしていた。
お会いいたしとうございました。私は、あなたに、ずっと。
耳ざとい姫巫女は私の心の中も全て聞き咎めて苦笑する。
紅い唇から形のいい歯が見え隠れした。
「いいざまだ」
辛辣な言葉を口にするくせに、本当の意味で私を傷つけたりはしない。その証拠に、瞳の奥はいたずらっぽい光がひそんでいた。私は承知していると言うように肩をすくめてみせた。
「姫巫女様、その口のききかた、なんとかなりませんか」
姫巫女は答えずに、私のまねをして肩をすくめた。
「おまえ、私にはなれんぞ」
あげく、そんなことを断言してみせる。
心臓が大きく跳ね上がったのがわかった。
どこまでご存じなのか。
驚くと同時に圧倒的な羞恥心が私の耳に熱を持たせる。
たぶん、私は最初にみた彼女に魅了されていた。彼女のようにあろうと、私は人としての生を捨てるときに決めた。この美しく、完璧な姫巫女に私はなろうとした。そして、彼女を連れていこうと。
だが。
「なる必要もない」
もう一度、私の全てを否定される。
なる必要がないだと? どうしてあなたがそんなことを言うのだ。あなただけにはそんなこと、言われたくなかった。
お門違いの激情のまま、私は豪奢な白の装束に手をかける。姫巫女が最も愛した、鶴の柄を織り込んだものだ。生きている時には触れることすらかなわなかったのに、私はためらわずに握りしめる。
行かないでほしい。
もう悲鳴だった。
「だったら、どうして私を選んだのですか」
「おまえが私じゃないからだよ」
最後まで楽しみなさい。
そう笑った彼女は最初に見たとおり、いたずらに成功したような少女の笑みを浮かべていた。
まったく最低じゃないか。
胸中で呟くに留めたのは我ながら理性が働いているな、と真珠は自嘲した。
白昼夢というのはまさにこのようなことをいうにちがいない。
先ほどの姫巫女との邂逅を指しているのではない。今現在の、目の前の光景が、だ。
このいけすかない男。
寝所に御簾は降りたままだった。自身の寝起きの顔を直接見られたわけではないが、それにしても不躾であったし不愉快だった。
こんなことは透輝にすらゆるしたことはない。
「お加減はいかがですか、姫巫女様」
なんとおいたわしいことか。
そう眉をひそめる目の前の男、もとい惟月に、真珠は胸の内でこっそりとため息をついた。こちらの憤慨などはお構いなしで、ここにいることを当たり前だと思っている声音だ。何の権利があるというのか。
姫巫女の寝所に堂々と入り込むのは侍女が特別に図らったからであろう。あの子犬のような瞳で「姫巫女様に是非お会いしたい」と言われれば頷いてしまう女たちがいるのは真珠にもわかる。もっとも、藍玉がその筆頭であったことは計算の外であったが。
百五十年あまり生きてきて、人が自身に向ける感情にはいくつかの種類しかないと気がついた。為政者というのは勝手だ。信仰を道具か何かと勘違いしている。自分に利がなければあっさりと捨て去ってしまう。与え尽くしてしまえば、あっさりと捨てられる。
かつての姫巫女たちはみなそうだった。すくなくとも、真珠の姫巫女はそうだった。
直感で、目の前の男はそういう種類のものだとわかっている。透輝とは大違いだ。あの、神などいらんと言い放った透輝とは。
それにしても無礼な男であることよ。
あの吐き捨てぶりを思い出して小さく笑うと、目の前の惟月が目を丸くした。
「姫巫女様?」
「いいや、なんでもない」
すぐにもとの鉄面皮をとりもどし、真珠はひとつ咳払いをした。ようやく真珠は身を起こすことにした。「そのままで」と惟月が気遣うように言ったが、この男の前で呑気に寝ていられるほど危機感がないわけではない。
ついでに肌蹴た着物を直し、申し訳程度の身づくろいをした。惟月はその間、黙って待っていた。その、妙に行儀がいいところも鼻につく。
真珠が姿勢を正して座ったころに、独り言のように呟いた。
「急にお倒れになったとのことで驚きました」
響きがまるで、この世の終わりを知ったかのようなものだったから思わず吹き出してしまう。ここまでくれば演技過剰であろう。
「はっきり言ったらどうだ。私がまだ使いものになるかどうか、確かめにきたのだろう?」
言葉を弄するのは得意ではない。
そのものずばり言い放てば、小さく息を飲む音がした。
「あの兄になにか言われたのですか?」
はっきりと非難の色がある。
それもそのはずだ。実の父を殺した簒奪者である透輝からその才覚を恐れられ、城から追放されている哀れな弟君、惟月。清廉潔白な志、そして当主たる素質を多くの家臣が惜しみ、彼らは自主的に透輝を廃しようとしている。惟月は兄を助けることこそが与えられた使命と殊勝な姿勢を崩さなかったが、昨今では透輝の暴虐ぶりに心を痛め、さらに姫巫女と恋仲になったことで自ら立つべきであるという決心を固めた、らしい。
という市井の噂そのものの惟月を、目の前の男は演じている。
見る者が見れば、すっかり騙されるだろう。
真珠は生理的にこの男が受け入れることができぬ、という理由がよくわかった。
なりたい姿をそのまま写し取って、そらみろとばかりに披露する。
どこか自分に重なる。いらいらする。
「透輝は関係ない」
もはや不快以外の感情が真珠のなかには浮かばなかった。
自分の振舞いを透輝に結び付けられることも腹立たしい。口の悪さは根っからのものであると自負している。
眉根を寄せてそっぽをむけば、惟月は目を丸くした。
「もう名前で呼ぶ関係なのですね。まだ婚姻もすんでいないというのに」
そこか、とはさすがに真珠も口にしなかった。
「なにを言っている。婚姻がすんだからこその神事だろう」
「まだ兄上に抱かれてもいないのでしょう」
瞬間、頬に朱が走ったのは真珠にとってまったくの失態だった。あまりの乾いた声の調子とは裏腹な、生々しい問いかけに用意していた仮面から容姿相応の幼さが覗いてしまった。
「やはり」
わが意を得たりと笑う男には先ほどまでの忠犬に似た誠実さはみじんも感じなかった。ねばっこい視線を向けて、真珠の上から下までなめるように見回す様に生理的な嫌悪を覚えた。歯噛みしたのはむろん内心で、だ。これ以上動揺を見せてやる必要はない。冷たさを極限まで声に込めた。
「おまえ、なにが言いたい」
そうした真珠の武装を思う存分、惟月は嘲笑う。
「私でもいいのではないですか、ということです」
「性懲りもなく、なにをいいだす」
一笑に伏すとはこのことだ。
姫巫女が嫁ぐのはただ一人、銀狼をおいて他にない。そしてそれは同時代に二人存在はしない。
本来であれば議論に俎上にすら上がらない者が担ぎあげられている理由は唯ひとつ。当代の銀狼が破格であるからだ。常人にはおよそはかりしれぬ大器であるが、時としてそれは愚か者のように映る。変わることを恐れる者たちにとって透輝などは嫌悪の対象なのであろう。いいか悪いかということを論じる前にまずは嫌悪が先立つ。先駆者というのはそういうものだ。
目の前の、ただ凡庸なだけの男がそれを理解しているのか、甚だ疑わしい。
行儀よく振舞うだけの才覚しかない男には。
内心でそう唾棄しているが、同時にそれは自己への批判でもあった。鏡を見ているような真珠の気分を、惟月は理解できないだろう。
「あの兄は、姫巫女様を娶る気はありませんよ」
賢しげに言う言葉は特に驚嘆するような事実ではない。
もともと、真珠自身がそういうつもりだったのだ。
なのに、真珠の胸は小さく痛んだ。それがあの男を放したくないという本能からなのか、あの男に惹かれ始めている理性からの痛みなのか、あるいはその両方かもしれない。
「抱いてしまえばそれこそはなせなくなる。あの人は存外情が深いのです。だから、私のような者もまだ生かしている」
真珠が眉根を寄せたのは己の言葉ゆえだと思ったのだろう。惟月は言ったすぐ後に微笑した。
きもちがわるい。
そう吐き捨てるよりも前に、真珠の口は惟月に問うていた。
「殺してほしいのか?」
惟月は奥底の見えぬ瞳を笑みの形に歪ませる。
「まさか。ただ、私が兄上の立場なら私のような者は殺していますね、間違いなく」
そう考えればありがたいことです。
しゃあしゃあと言ってのけるあたりが恥知らずである。
おめこぼしされているわが身を有難いと感謝するふりをして、水面下ではその喉笛を狙っているのだ。
真珠が最も嫌う部類の人間である。今度こそ、嫌悪を隠さなかった。
「お前のような者を正しく簒奪者と言うのだ」
言い捨てるが、肝心の本人は堪えた様子がない。真顔で身を乗り出す。
「では、私が簒奪者とならないようにお力をかしてくださいませんか」
覗き込む瞳は相変わらず感情がわからない。大嫌いだ、と告げているに等しい相手にどうして協力を仰ぐのか。真珠はこれを挑発と受け取った。
「おまえは私を怒らせたいらしいな」
「どうせ、兄上でなくてもいいのでしょう」
言われて、思わず絶句してしまったのは失態だった。本心をあてられたとぎくりとしてしまったからだ。
一拍の後、舌打ちした真珠を惟月は眉を上げて軽くとがめるが、面白がる様子の方が強かった。
「図星のようですね」
「だまれ」
「兄上は宮を破壊しますよ。統治に神など必要ないと思っている。あのひとの治世は血と刃にまみれますよ。そこに神が介在するすきはありません。でも私なら、宮と銀狼が再び並び立つこともできます。この荒れた山に置き去りにするようなことはありません。忘れられた巫女として百年あまりも孤独をかこつあなたを救うのは、私ですよ」
「だまれといったのが聞こえないか」
立ち上がり、そばにあった花を蹴り飛ばす。
激情を顕わにすれば負けだとわかっていたのに、真珠はどうしても押さえることができなかった。
惟月の言うとおりだった。
銀狼は透輝でなければならぬ。これは天狼の下した決断であるから覆ることはない。しかし、真珠本人としてはどちらでもよかった。宮さえ安堵してもらえれば、そしていずれ解放してもらえれば。
今にして思えば浅ましいというほかない。
自分の望みのために人を駒のように考えていた。誰も好きになる必要がないと、感情を侮っていた。本能を軽んじ、自分はひどく理性的な人間なのだと思おうとしていた。
だが、ここに至ってようやくそうじゃないと気がついた。
本能も理性も、切り離すことのできない自分だ。
それを内包したすべて、真珠自身も認めていなかった真珠を欲しがったのは他ならぬ透輝であった。だから、腹の底から怒っている。
なにも知らぬ者が、我こそはあなたを救うものだと大演説をぶつ。我慢ならなかった。
叫んで乱れた息が、真珠の細い肩を上下させる。
姫巫女らしくもない乱暴な仕業に慌てる素振りもなく、惟月は泰然と笑ってみせた。
「なにもいますぐ結論を出す必要はありません。私はいくらでも待ちます」
「出ていけ、無礼者。だれかあるかっ」
再び声を張り上げると、入ってきたのは侍女ではなかった。
透輝である。
どこからか聞いていたのか、すでに柄に手がかかっている準備のよさだ。真珠は剣呑な透輝をみて、ようやく息を吐きだした。
「惟月、俺の妻の部屋でなにをしている」
真珠を惟月の視線から庇うように二人の間に割って入る透輝は、一見して激怒していた。真珠がいなければ、抜き打ちに切っていたであろうというほどの静かな怒りをたたえている。惟月はなにを怒っているのかと言わんばかりに小首をかしげてみせた。
「義姉上を見舞いにきたのですよ」
よくもぬけぬけと、そう思いながらもあまりの疲労に寝台にふせってしまう。体調がまだ、万全ではない。惟月との問答にすっかり疲れてしまったのもあるが、透輝がきたことによる安心感の方が大きい。
どれだけこの男に侵食されているのか、と伏せたままで小さく笑う。
倒れ込んだ真珠をちらりと見て、透輝は言った。
「惟月、さがれ」
「はいはい、邪魔ものは消えるとしますよ」
姉上、それではよくお考えになってください。
呟かれた言葉は意味のないものだ。なにも考える必要などない。
立ち去る惟月の背中にそう言い返したかったのに、伏せたままの身体は虚脱したように動かすのが困難になっていた。
「山犬が知らせてくれて助かった。前に言った通りに惟月には気をつけろといっただろう。聞いているのか? おい、真珠?」
揺り動かされる手の優しさに、泣きたい気持ちになった。そのまま伝えられたらどんなにいいだろう。
真珠の口からこぼれ出したのは、からかうような少しばかりの本音だった。
「婿殿、私は激しく傷ついている」
「は?」
「甘やかしてくれ」
その肩口に顔を埋め、透輝のにおいを堪能する。
真珠が透輝を選んだのは、天狼の意思があったればこそだ。しかし、それ以上にこの男であれば姫巫女としての自分を必要としないのだろうという直感が働いたのも事実である。要は、瞬間的に利用できると考えたのだ。卑怯なことだとわかっている。その点では惟月と同じだ。
あの男は透輝を恐ろしい男だと、血も涙もない男だと非難する。しかし、それ以上に罪深いのは真珠本人だ。真珠の勝手な本能で透輝をつなぎ止め、口では嫌だと言いながら本心ではどうしようもなく求めている。それでも感情に従うことはできない。冷たい理性でもって、透輝を拒否してでもあの宮を守らなければならない。
ただの真珠を求める透輝にはこたえることはできないのに、その手を放すこともできないのだった。
許せよ、と心の中で呟く。
透輝の優しさにつけこむことに吐き気がするが、それでもあの男を選んで透輝を殺してしまうのはもっと吐き気がする所業だった。
「おい、どうした」
「なんでもない。それより、腹が減った。暇だ」
「あんた、言うに事欠いてそれか」
寝床で大の字になっている真珠に、透輝は呆れていった。
「だって、私はこんなところで安静を強いられるほど重症じゃないぞ」
「矢で思いっきり胸を貫通されてなにいってやがる」
うぐっ。
言われて真珠は言葉に詰まる。
確かに、事実として真珠は何者かに胸を射られた。矢はばっちりと心臓を突き刺しており、抜いたら恐ろしいほどの血が噴き出していた。普通であれば死んでいるのだろうが、なんと真珠は普通ではないのだ。力を多少なりとも使ったからふらふらはするが、それだけだ。いまのところは。
「いや、それは」
「円環の巫女だから平気だ、なんぞと言ったらそのままむりやりさらに三日は寝てもらうからな」
「横暴だろ!」
叫んで、はたと気がつく。
「その言いぶりだと本当はもう私は無罪放免なんじゃないか」
「なんだよ、無罪放免って」
大きなため息をついて透輝は頭を振った。
「普通だと生きるか死ぬかの大けがだ、というか死んでいるぞ」
「でも私は死ななかっただろう」
「あのな」
透輝は真珠の頭をぐしゃぐしゃになでる。「ちょっと!」そう抗議するとつまらなそうに鼻を鳴らした。
「俺の前でああいうことするな。胸くそ悪い」
「不可抗力だろ」
「うるさい」
言って、立ち上がる。
もう帰ってしまうのか。そう表情に出てしまったのだろう。透輝は苦笑した。
「大人しくしてろよ。明日もまたくる」
「いやだ」
「あのな」
「退屈だ、と私は言った。婿として、妻の退屈を紛らわす義務があると思わないか。ついでに言うなら腹が減った」
「言いたい放題だな」
「要求を飲まねば酷い目にあうぞ」
「ほぉお。どんな」
真珠は天井を見てしばし考える。
透輝から脇腹をつつかれ催促されるのをうるさいと叩き落とし、胸を張って言い放った。
「なんか、酷い目だ! すごいことだ!」
「あんたな……」
馬鹿だろうと言いたげな、なんなら多分言っただろう、いま!
憤慨してばたつかせる足が、ふいに宙を舞った。透輝は真珠を抱きあげたのだ。驚愕に固まる真珠に、
「で、どこいきたいんだ?」
優しく問いかける。それだけで真珠の頭は真っ白になる。
「言えよ」
耳元でそっと言われて混乱する。どうしたというのだろう。やけに優しい目で見つめられているのは気のせいじゃないはずだ。
「目が覚めたか」
「婿殿、なんていう格好をしているんだ」
どこだここは、と言う前に真珠は透輝のおかれている状況に眉をひそめた。あろうことか、身体を柱に縛りつけられている。
たしか。
真珠は寝起きで動きの悪い頭を働かせ、記憶をたどる。
外に連れて行けと喚く真珠を透輝は抱き上げて、山を下った。さすがの透輝もそのままでは遠くに行けないから真珠の気が済む程度にそこいらをぐるりと散歩する程度のつもりだったのだろう。それにごねてもうちょっと遠くまで、じいさまのところに連れて行けと言ったのは紛れもない真珠であったのに、いつの間にかまた眠っていたのだった。
改めて部屋の中を見渡すと、見覚えのある小屋であった。
起こしてくれればよかったのに、と一瞬思ったが、真珠の体調を気遣って声をかけなかったのだろう。それにしてもどうして透輝が縛られているのか皆目見当がつかない。
真珠が首をかしげていると、
「婿殿? やっぱりこのひと姫巫女さまのお婿さんだったんだ」
「だから俺はよしておけといったんだ」
枕元で双子たちがくちぐちに責任を擦り付け合う。それを柱に荒縄でくくりつけられた透輝はじっとりと眺めながら、
「もういいか?」
疲れきっていた。
その言葉で双子たちは透輝の縄を解いてやる。さして悪びれた様子もなく縄を回収しつつ、双子たちは真珠の青白い顔を心配した。
「姫巫女様、おかげんはいかがですか」
「おい、俺は無視か」
自由になった腕と肩を回しつつ、透輝は怒るよりも呆れていた。それでも叱責されると思ったのか、双子たちは真珠の影に隠れるようにまとわりついた。
そうして気遣うように頬に触れる小さな手の温かさを、真珠は有難いと思う。
「うん、大事ない。透輝、私は一体どうしたのだ」
「あんたは道中で気を失っていたんだよ」
「なんと」
「それをうちの双子が見つけて、ここまでお連れしたわけです」
奥からじいさまが茶を運んできた。
「とてもお連れした、という話じゃなかったと思うがな」
透輝のぼやきはまったく黙殺される。
真珠はじいさまの元気そうな姿にほっと息を吐いた。具合がよくないと聞いていたが、日常生活が送れる程度には回復したようだ。
「じい、加減はどうか」
「姫巫女さまからいただいた獣の肉を食しております故、そこらの若者より元気ですよ」
いいながら、ずいぶん細くなった腕でちからこぶをつくってみせる。それがかえって切なかったが、真珠は笑って頷いた。
「なら、いい」
「わたしなどよりも姫巫女様の方が心配です。気を失われるなどいったいどうされました」
真珠は考え込む。
どう考えても自分が傷ついた回復が追いついていないのが原因だが、ここまで気を失うということがなかった。
正確には、気を失うというよりも突如として抗いがたい眠りに襲われるといったほうが近い。いずれにしても今までにないことだ。
どうにも気が薄くなっているような気がする。
姫巫女として理を宿したその日から、人らしい肉体の不調というもの感じたことがなかったがゆえに、真珠自身、困惑している。
が、姫巫女としての力が弱まってが故のことだとすれば、考えられる理由はただ一つ。
「まぁ、人に近づいているのやもしれんな」
「それはいったい」
ひとりごちたつもりだったが、それを透輝にききとがめられ真珠はあわててなんでもないと手を振る。透輝はしばしみつめたあとそれ以上なにも言わなかった。
黙り込んだ二人の顔を交互に見ていた双子たちは、「あっ」と一声叫んだと思ったら奥に引っ込んだ。そうしてすぐに戻ってきた。大皿を両手でもっている。香ばしい匂いがあたりに漂う。
「姫巫女さま、うさぎが焼き上がりました」
皿いっぱいに色よく焼かれたうさぎの肉を嬉しげにみせる双子たちに、真珠は頷いて破顔した。
そういえば腹が減っていたのだと思いだした途端、大きく腹がなってしまう。慌てて両手で押さえるがあとの祭りだ。透輝の顔をうかがうと、案の定笑っていた。あげく、
「案外、あんたが気を失ったのは空腹が理由なんじゃないか」
「失礼な婿殿だ!」
双子どもがまとわりつきながらその小さなこぶしで透輝をたたく。痛くもかゆくもないが、透輝は双子たちを捕まえてすごんでみせた。
「お前たち、俺に対する礼儀がなってないな」
いいながら双子たちを振り回す。きゃーと叫びながら彼らは楽しそうにしていた。
それをみながら真珠は自然と目が細くなるのがわかった。なにかまぶしいものでもみるような、そんなつんとしたものがこみ上げる。
「よき婿どのでございますなぁ」
「ん、そうだな」
ずっとこうしていたい、とどこかで思う。でもそれはあともうすこしなのかもしれない。。
夢の中で姫巫女が言った。
『とうてい人のような道はあゆめまい』
なら、いまだけでもそうあってもいいじゃないか。どうせかぎりあるものなのだ。
「なぁ、実往(みおう)」
「姫巫女さまに名前をよんでいただけるなど、いつぶりでございましょうなぁ」
ふぇっふぇえ。
抜けた歯の隙間から空気が漏れて、奇妙な笑い声になる。かつては快活に白く小さな歯を隙間鳴く並べて大口あけて笑っていた少年も今はしわくちゃの枯れ木になっている。それを切ないと思ったことはなかった。通り過ぎる者を誰ひとりとして特別には思わず、ただ流れている者としてみていた。
「死ぬことは恐ろしいか」
「巡る命をその身に宿す姫巫女さまとも思えぬお言葉ですな」
「言うな。考えたことがなかったのだ。死ぬということの切なさに」
「切なさ、でございますか」
真珠は小さく頷く。
この百五十年、何度別れを繰り返しただろう。永遠の命を持つ者として、別れはいつからか日常になってしまった。便宜上、必要な場合を除いて名前を覚えることすらしなかった。そんなことをしてもいつかは失われてしまうのだし、生活に支障はなかったからだ。姫巫女となった真珠の望みはただ一つ。永遠に愛しい姫巫女の思い出を抱いて生き続けることだった。それ以外は、ただの背景だったのだ。
なのに、透輝によって自らこそがただの人間であることに気づかされた。身体が、人になりたがっている。永遠を失うのはもうすぐそこだ。
そうして初めて、限りある命を生きること、見送ることの怖さを思った。背景が一つ一つの意味を持って、真珠のそばに生きている。彼らはすべて意思ある者たちで、真珠が自由にできるものなど何一つなかった。
「人がいなくなるのは切ない。いずれ巡るとはわかっていても、戻ってくるのは私の知っているちびではない」
「そうでございますなぁ。しかし、それが人と言うものです」
「恐ろしくはないようだな」
「恐ろしくはありませんよ、しかし、切ないとは左様でございますな。私一人いなくなるのはなにも思いませんが、あの子たちを最後までみておられないのがくるしゅうございます」
さだめとはいえ。
口調とは裏腹にその瞳は達観していた。
真珠が未だ悟れぬ境地のことを、この老人は短い生の中ですでに覚悟している。
自分は今まで、何を知っていた気になっていたのだろうか。
「そうだな、私もそれがつらい」
「婿様のことでございますか」
小さく頷いて、それ以上はなにも言わなかった。実往もなにもきかなかった。
「なんのはなしだ」
ひとしきり双子たちを振り回して疲れたのだろう。透輝が実往に顔を向ける。
「いや、姫巫女さまのお小さい時の話ですよ。この方はずいぶんとおてんばでございましてなぁ」
「姫巫女さん、狩りが好きだもんな」
透輝に遊んでもらったのがよほど楽しかったのか、双子たちは顔を上気させて言った。
「狩り?」
「えぇ、神事のためでなく、ご自分で獣をとって食べるのが好きなのですよ。それはもう、見事に捌きますぞ」
「実往!」
余計なことを言ってくれるなと、制止したが時すでに遅し。透輝は呆れたと言わんばかりに片眉を跳ね上げた。
「あんた、そんなことしてたのか」
「たまにだ、たまに!」
「いやいや、宮の食事が物足りないとかでしょっちゅう狩りをしていましたよ。獣をとって食べるだけでなく、木に登ってぐみの実やらあけびやらとって猿のように食べておりましたし。初めて山でみたときは本当の猿かと思ってぎょっといたしました」
遠慮なく笑う実往に、とうとう真珠は立ち上がって叫んだ。
「もうやめろ!」
とたん、透輝は大笑した。腹を抱えて笑う透輝に、ますます真珠は赤くなって地団太を踏んだ。
「失礼な奴だっ! どいつもこいつも!」
「いや、悪い。じゃじゃ馬だとは思ったが、ここまでとは思わなかった」
目じりにたまった涙を拭いて謝るが、完全に笑いを治めきれていないので説得力がない。
「だれがじゃじゃ馬だ。それにあの木の実は」
「先代にお持ちしていたのでしょう?」
「……そうだ、姫巫女さまがお好きだったから」
遠く、昔の記憶を手繰り寄せるように、真珠は目を閉じる。
舞の稽古をしていると宮の食事だけでは足らぬと、真珠はよく狩りや木の実を採りに行かされたものだった。もともと野山を駆け回るのは好きだったので、今思えば子供らしく遊ばせてやろうという姫巫女の配慮でもあったのかもしれない。真珠は思うさま山を駆け巡り、食料を調達してきた。それを受け取る姫巫女はいつだって笑顔だった。
「あの方はまさに汚れを知らぬ乙女のような方だった。無邪気すぎて言葉が直接的過ぎることもあるが、愛されるなにかをもっていた。私も例にもれず、愛さずにいられなかった」
「……妬ける話だ」
まんざら冗談を言ったとも思われぬ真顔の透輝に「馬鹿なことを」と窘めようとしたその時だ。聞き捨てならぬ言葉が続いた。
「しかしその溺愛の仕方、先代銀狼を思い出すな」
先代銀狼。
耳にした途端、真珠を襲ったのは目の前が真っ赤になるほどの憎しみだった。
「溺愛? あの男が?」
真珠は確かに激昂していた。が、呟いた声は感情を排したかのような平坦なものだった。
「姫巫女さまを食い殺した、あの男が、か」
呆然と口にものはこれ以上ないほど物騒な言葉である。透輝は思わず繰り返した。
「食い殺した?」
「知らんのか。お前の有難がっている男は、姫巫女さまを食い殺したのだ。あの男が、私にそう言った」
真珠が先代の死を知ったのは、すべてが終わってからのことだった。病床にあったといことは聞いていた。何度も見舞いを申し入れたが、会ってはもらえなかったのだ。自分のしたことを考えればそれは当然だと納得してはいたが、それが死して後にもそうであることは承服できなかった。
一目遺骸に会わせてくれ、と銀狼に申し入れた時にはもうすでに火葬した後であった。火で遺体を燃やすなど、罪人に対しても行わない蛮行である。それをなぜ、と問い詰めれば、彼の者ははっきりと言ったのだ。「残らず食べてしまった」と。
言われた時、真珠は激昂したのか、あるいは泣いたのか。今でも思い出せない。
ただ、体中の血の気が引くような、取り返しのつかない感覚だけは覚えている。
不老不死であった姫巫女の血肉を得れば、同じく不老不死になることができる。そう考えたものはかつて何人かいたらしい、というのは聞いたことがあった。しかし、それが自分の姫巫女に起こるなど、真珠は想像だにしていなかったのだ。
「まったく愚か者の発想だ。だが、そんな愚か者に私の姫巫女を渡してしまったのだ。誰でもない、私が! だから、私はすべてを憎んでいる。この国も、銀狼も、私自身さえも」
そうだ、どうして迷うことなどできたのだろう。
真珠は怯えたようにこちらを見つめる双子たちに悠然と微笑んでみせた。それは間違いなく、かつて世界で一番美しいと真珠自身が誇らしく思った、姫巫女の笑い方だった。
人として愛されるなど、どうして喜びをもって受け入れられようか。そんな資格などない罪人であるのに。
「ちょっとまて。俺の知っている話と違う」
「どうせ都合のいい話が伝わっているのだろう。聞きたくもない」
いやいやと頭をふり、両手で耳を押さえる。できることなら、五感のすべてを閉ざしてしまいたかった。しかし、透輝はそれを許さなかった。
「聞け」
耳を塞ぐ真珠の手を掴む。真珠は手を掴む透輝の熱さにおののく。反射的に身を引いた真珠などお構いなしだった。
「先代の異名を知っているか。血濡れの狼だ。それはなにも彼の苛烈な戦いばかりを評したものではない。まして、姫巫女を食い殺したなど」
透輝は語る。
先代の銀狼は姫巫女を愛しすぎたのだ、と。
姫巫女が病に倒れた時は哀れなほどうろたえたという。そして、出陣時以外は姫巫女をそばから放さなかった。すでに世継ぎが生まれていたが、その寵愛は変わらないどころか日々増してくようであったと。病を得てから閉じ込めるようにして愛された姫巫女は、死してなお、銀狼の心を虜にしていた。亡くなった直後の悲しみようは伝わっていない。記録として残すのが憚られるほどの取り乱しようであったのだろう。
事実として、姫巫女が亡くなって以降、銀狼は赤い衣しか身につけようとしなかった。
「赤い衣で、血濡れ? それが一体なんの関係がある」
「その衣は、姫巫女の遺体を燃やした灰で染められた」
暗い瞳で続けられた言葉に、真珠は息を飲む。
「赤は姫巫女の瞳の色だ。先代は、生涯その衣以外身につけようとしなかった。食べた、というのも一部事実だろう。もっとも遺骨を多少口にしたという程度だろうが」
いや、それすら異常である。
残った遺骨と灰は自分が死ぬときに一緒に埋めてくれと頼み、そうなっているという。愛するというよりも、病的な執着と言っていい。おぞましいと思いながらも、真珠はどこか腑に落ちていた。
あの男ならば、深く私の姫巫女を愛するのだろう、と。だから、あの時の自分は許したのだ。
でも、これがすべて真実であるのなら。
「姫巫女さまは、お幸せであった?」
「愛されていた、というのは確かだろうな。少なくとも、無残な最期ではなかった」
全身が虚脱した。崩れ落ちるように座り込み、動くことができないでいた。
「真珠?」
名を呼び、遠慮がちに手を差し伸べてくる透輝を振り払いはしなかった。されるがままに抱きしめられて、真珠は深く息を吐いた。
「あの方は、愛されていたのだな。一人の女として。姫巫女として、ではなく」
「あぁ」
「……ありがとう、透輝」
私は、それだけで生きていける。
囁かれた後半は果たして透輝に届いていたのだろうか。ただ、強く抱きしめられる腕に、真珠は身体を預けた。
「真珠、俺は」
柔らかな声で紡がれる言葉はそこで途切れた。唐突な侵入者によって。
「銀狼様」
山犬である。
いつも通りなんの気配も感じなかった。今さら驚きもしないはずであるのに、真珠は大きく肩を揺らした。
「動きがありました」
「そうか、話は外できく。あんたは休んでいろ」
熱が一段下がった。
抱きしめられた腕から伝わる違和感が、真珠に透輝の袖を掴ませていた。
「いやだ。宮のことなら私も聞く権利があるはずだ」
「宮のことじゃない。あんたにはなんら関係のないことだ」
「藍玉か」
名がこぼれた瞬間、透輝は確かに眉をぴくりと跳ねあげた。
「どうして、藍玉など」
「姫巫女さま、藍玉は失踪いたしました。そして惟月殿も」
「山犬っ」
透輝が叱責しても山犬はいつもの無表情を崩すことはなかった。
「お忘れですか。私の主は姫巫女さまでございますれば」
くそっ、と悪態をつく透輝を信じられぬ思いで真珠は仰ぎ見た。
「探らせていたのか、惟月のみならず宮の者までも」
「俺が探らせていたのはあくまで惟月のことだ。他はついでにすぎない」
悪びれた様子がない。ここで一言でも謝罪があれば、たぶんこれほど腹が立つことはなかった。
「私を、なめているのか。そこいらの女と同じに扱っているのか」
「おい、興奮するな。あんたはまだ身体が万全じゃない」
「うるさい、私に指図するな。私を何者だと思っているのだ」
目を見張る透輝には真珠はこの世のものとは思えぬ美しさに映っているはずだ。そう言う風に見えるように、真珠は笑みを浮かべている。
「当代の姫巫女である。誰も、私に命じることはできない」
あぁ、そうだ。やはり私はあの方の続きを演じなければならない。だって、こんなにも血が凍る。領域を踏みにじられたことに、吐き気が止まらない。
唯の人になりたいなど、やはり無理だったのだ。
真珠の中に、もう迷いはなかった。
「惟月はそちらでいかようにでも処分するがいい。だが、藍玉は私に任せてもらおう」
「あんたになにができる。惟月は藍玉と一緒にいる可能性が高い。手勢もどれくらいいるかわからないんだぞ」
「笑わせるな。お前、藍玉をわざと泳がせたのだろう? 惟月に近づいていると知って。いや、もしくは知らなかったのか? そうなるように仕向けていた?」
「あんただって、藍玉が惟月に通じていることを俺に知らせなかっただろう」
「もちろんだ。だってこれはお前には関係のない、宮の問題だ」
「それが、俺たちを窮地に陥れると知ってか」
自然と透輝が真珠もひとくくりに考えていることが妙におかしかった。
それほど、心許したと思われていたのか。
冗談ではない。
「勘違いをしているようだな、婿殿。私は言ったはずだぞ。この婚姻は互いの利害一致だ。いまや、お前自身が私の宮を踏み荒らすようなら、容赦しない」
「容赦? どうしてくれるっていうんだ」
「お役御免だ、婿殿。そちらはそちらで勝手にやっていろ」
「待て」
踵を返す真珠に、透輝は腕を掴むがためらいなく振り払った。
「触るな、無礼者」
言い捨てる真珠の瞳は冷え切っていた。思わず息を飲む透輝に、真珠は構わず山犬を呼びつける。
「帰る」
「はっ」
返事をした山犬に視線をやることもなく、そして振り返ることもなく一歩踏み出す。
とたん、真珠の体がぐらりと傾いた。
まずい。
そのまま後ろから倒れこんでしまうところを抱きとめられる。知った体温だ。
ばか。さわるな。
その悪態が透輝に届いたかどうかわからぬまま、真珠は意識を失ったのだった。
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