第一章①


 上を下への大騒ぎ、とは正しくこの状況のことであろう。

 真珠が婚姻を宣言したとたん、侍女たちは宮を走り回った。宮中の全てをひっくり返しかねない勢いで、彼女たちは百五十年前の記録を探した。基本的な手順はわかってはいるが、なにぶん婚姻の儀式を取り仕切った経験のある者が誰ひとりとしていない。誰もが初めての大仕事に不安を抱えていた。

 姫巫女に仕える女たちはいずれもただの人間である。天狼の加護を受け永遠の肉体を得ている真珠以外は、普通の人間のままに生きて死ぬ。生き証人などありえぬ年月がたっているのだから、基本的なこと以上のことを知りたければ酔狂な誰かが残した書きつけの類を探すしかない。

 そんなわけで、宮は騒然としている。にもかかわらず、壁を隔てたこちら側。真珠の寝室では逆に沈黙しか存在していないのであった。

 床に頭をこすりつけて微動だにしない藍玉を、真珠はただ無感動に見下ろしていた。

 無感動にもなろうというものだ。かれこれ一刻ほど、藍玉は真珠がどう言おうと姿勢を崩すことはなかったからだ。

「もういい」

 何度言ったかしれない許しの言葉を、一定間隔で口にしている。そして最初からそうであるように、藍玉は顔を上げようとはしない。

 放っておけば冗談でなく一晩でも土下座を続けるであろう。そうせざるを得ない藍玉の心情は察して余りあるが、だからと言ってこのままにしておくこともできない。それに、聞きたいこともある。

 どうしてあのような者を引きいれたのか。

 何度問いかけても、申し訳ありませんとしか言わない藍玉には正直辟易としている。なので、言い方そのものを変えることにした。

「惟月と通じていたのか」

 問いたださねばならないその一点のみを簡潔に言った。口にすれば、もうあとは断罪されるしかないとわかっていながら、真珠はあえて問うた。

 藍玉が惟月と通じていたのは明白だ。証拠もなにも、あの時はっきりと本人が口にしている。ここで再度確認したのは『許さない』という意思表示の他ならない。少なくとも、藍玉はそう理解しているはずだ。

 藍玉は顔を上げぬまま身を震わせる。

 答えない。

「沈黙はそのまま肯定ととるが、よいか」

 言葉そのものは厳しいものの、口調は荒れてはいない。感情的に怒鳴り散らすほど真珠は幼くはない。

 冷静に考えてみればこんな子供にできることなど、たかが知れている。どこから藍玉が忌子であると知って、あげくどうやって渡りをつけたのかは知らないが、藍玉はそそのかされたに違いなかった。ずっと宮にいた藍玉が自ら求めて惟月と接触したとは思われない。

 この子どもは、愚かであるが悪くない。

 心の澱を吐き出すように、真珠は深く息を吐いた。そうして、

「藍玉」

 名を呼ぶ。思ったよりも柔らかい感触でもって藍玉の頭上から降り注いだ。

 思わず、といったふうに藍玉の瞳が真珠を仰ぎ見る。

「この宮はそもそも男子禁制でないと知っていたか」

 問われたことの唐突さに藍玉は一瞬目を丸くする。

「……いいえ、そのようなことは誰も」

「当然だな。百八十年くらい前になるか。先代の姫巫女がお決めになったことだ」

 故郷を見るように、憧憬に目を細めた真珠を藍玉は不思議に思った。こんな幼子のような表情をする真珠を、藍玉は知らないだろう。

「宮に入り神に仕えることのできるものは天狼の加護を受ける女だけだ。それは皆が知っての通り。が、天狼は男を拒むものではない。その信仰は男女問わずあまねく人に浸透している。訪ねてくるものに門扉を閉ざすものではなかった。それが、先代が急に男の立ち入りを禁じたのだ。なぜかわかるか」

 惚けたように首を横に振る藍玉。

「銀狼を見つけたくなかったから」

 瞬間、息をのんだ。

「なぜっ! 銀狼との婚姻は姫巫女にとって天狼様と深くつながる至上の使命ではございませぬか」

 そうだ、と真珠は頷く。しかし、口の端を皮肉によって釣りあげる。

「至上の使命に喜びを見いだす前に、姫巫女さまは舞を自分の運命と思われたからさ」

 舞は神である天狼と繋がるための手段の一つである。その、ただの手段であるはずのものを、あろうことか先代の姫巫女は自分の目的としてしまった。

 本末転倒もいいところだ。

「姫巫女は舞うことにおいて、天賦の才がおありだった。それを銀狼との婚姻で失うことを恐れたのだ。舞を極めることこそ、ご自分の運命とお決めになった」

 真珠も見とれるほどの才の持ち主であった。歴代の姫巫女がどのように舞ったか、真珠の知るところではないが、自分を含めずらりと舞ったところで彼女に及ぶものはいないだろうと、真珠はある種の信仰に似た思いで信じている。

 重さをもった装束が、まるで風にあそぶ花びらのようにふわりと舞い、その花びらの向こうで姫巫女はうっすらとほほえんでいた。恐ろしいほどの技術の上で、彼女はなんでもないように笑い、舞うことの喜びにあふれていた。神に捧げるのではなく、地上のありとあらゆるものの喜びを祝福するように、彼女はその才を惜しげもなく披露する。

 初めてその舞を見たときに、自然と涙がこぼれたことをいまでも鮮明に思い出す。悲しくもなく、うれしくもない。ただ美しいものをみてあれほど感情を揺さぶられるなど、真珠には初めての経験だった。

「でも結局、姫巫女は運命から逃れられなかった」

 私という、愚か者によってもたらされる運命に。

 続く言葉を飲み込む。

 真珠が藍玉を憎み切れず、しかし心のどこかでは決して許さないと思ってしまうのは過去の自分の過ちを思い起こさせるからだった。

「今でも思う。私の姫巫女さまがあれから百五十年、舞をお続けになったらどれほどの境地に達していたか。私は、それをみたいと今でも思うのだよ」

「姫巫女さま、それでは」

「私は婚姻を望んではいないよ、藍玉。だれであっても、だ」

「しかし、姫巫女さまは選ばれました、あの恐ろしい男を。どうしてっ」

 山城透輝。

 名前を、あの姿を思い浮かべるだけで、心臓が掴まれたかのような衝撃が真珠を襲う。内面での衝動を押隠して、微笑む。

「天狼様の意志だ。選ぶことを拒むことはできない」

「でもっ! 惟月様はご自分が姫巫女さまの本当の銀狼であると! 姫巫女さまを一目見たときから、この方が自分の半身であると確信を得たと」

「お前は自分が何を言っているのかわかっているのか」

 頭に熱が集まるのと同時に、身体が急速に冷えていく。

 藍玉が息を飲むのがわかったが言葉を止めようがなかった。

 言うに事欠いて、『半身である確信を得た』だと? 姫巫女でない、ただの人の子が。

 こみあげた怒りは真珠という人格のものではない。真珠という人格の感じる喜怒哀楽はある程度制御できる。それこそ年の功というやつだ。が、姫巫女としての本能というべきもの、神の性を持つ部分が激しく反発したのだった。

「天狼様の意思でもって、選ぶのは私だ。奴らには何ひとつ選ぶ権利などありはしない。お前は私に仕え、そのことをよく知っているはずだ。ちがうか」

 平素ありえぬほど激昂している真珠の様子に、藍玉はおののいた。怯えの中で呆然自失に呟く。

「惟月様が、嘘を」

 幼い目の縁を盛り上げる涙をみて、真珠はようやく正気に戻りつつあった。暴走する怒りの熱を深呼吸で冷まし、言った。

「確信と言ったか? そんなご立派なものではない。あるのはただ、強烈な飢餓感だけだ」

 この男がほしい、と。

 天狼の意思だというそれは、真珠の意思など無視した押さえ込むことのできない衝動である。取り繕われた言語のすべてが無に帰すような、圧倒的な感情の本流と言い換えてもいい。

 いずれにしろ、説明のつく類ではない。取り澄ました顔の惟月が言う『確信を得た』などという言葉で表せない、もっと原始的な感覚である。

「それでは、あの男がまことに」

「だろうな。ただ、私がその衝動に従ってやる必要はない」

 真珠はようやく己を取り戻し切って、不敵に笑ってみせた。

 肉体に組み込まれた行動原理に振り回されているだけなら、それはただの獣じゃないか。真珠はそんなものに成り下がるのはごめんだった。

「選ぶのは私だけの権利。しかしそれを行使するかしないかも、私が決めることだ。ゆえに私は誰のものにもなりはしない。天狼がそれを望もうとも」

 にっこりと笑みすら浮かべて宣言したのは、およそ姫巫女の地位で言ってはならぬことだった。口を開けて唖然とする藍玉を、真珠は悪いと思いながらも噴き出してしまった。その途端、

「どうしてっ」

 悲鳴じみた問いかけが真珠に投げられる。

 真珠は心底、首を傾げた。

「どうして? 確かに私は天狼に従っている。しかし、私の心を自由にできるのは、この世界でたった一人、私だけだ。かつての姫巫女同様、私は私がそうであるように生きる。次代の姫巫女候補であるお前には悪いと思っているが」

「たったおひとりで、このままずっと?」

「あぁ、そうだ。私は一人で宮を守り、天狼とともに永遠に舞い続けて生きていく。それこそが私の望むもの、すべてだ」

 そして、これが先代の望んだもの、そのもの。

 彼女の思い出を抱いて、この小さな宮に閉じこもること。これ以上の幸福があろうか。

「だから、私の選んだ銀狼がどんなに外道であろうが、惟月がどんなにすばらしい男であろうが、私には何の意味もないのだよ。婚姻そのものを真実の私は認めていないのだから」

 透輝から宮を穏便に救うため方法は、偽りの婚姻しかなかったわけではない。あの場面で婚姻を口にしたのは紛れもない真珠の本能の部分であった。それを理性が『偽り』だととっさにねじ伏せたのだ。

 透輝の様子を見る限り、神にかぶれた女を娶るのはごめんだ、という風だった。今は姫巫女の地位を利用することも考えているだろうが、国が鎮まれば真珠は用なしとなる可能性が高い。そうすれば宮に帰ることができる。子さえなさなければ、姫巫女はその聖性を失わない。貞操さえ死守すれば、こちらの勝ちだ。

 藍玉が思うように、宮を救うために人身御供になったわけではない。あの男が欲しいという本能の欲求を一時的に満たしてやり、あとは長期戦の構えだった。貞操を許すことなく透輝の寿命が尽きるのを待てば、真珠の勝ちである。

 そういう、勝手な真珠の戦いなのである。だから藍玉には妙なところで責任を感じて欲しくなかった。

 わかっておくれね。

 言い聞かせて肩をたたく。藍玉はその小さな肩を震わせ、たまらず真珠に抱きついたのであった。



「ずいぶんな歓迎の仕方があったものだな」

 透輝がそう言ってようやっと息をついたのは、案内された宮の一室であった。

 まるで汚いものを見るかのように嫌がる侍女が案内したのは、長年人の手が入っていなかったであろう光も入らぬ一室であった。開ければ埃が舞い、すえた臭いのする空気が透輝を出迎えた。見間違いでなければ単なる物置きではないのか。

 本当にここに滞在させる気じゃあないだろうなという抗議を含めた視線で振り返れば、侍女は頭を下げたまま足早に去って行った。器用なことだ。

 後ろで舌打ちが止まらない瑠璃をなだめ、透輝は色あせた畳に座る。再び埃が舞うが今度は小さく肩を竦めただけだった。戦場での野営よりは随分ましである。

 ここまで邪険にされればいっそ清々しい。

 存外潔癖の気のある瑠璃はしばらく思いっきり眉をひそめていたが、透輝が座れと促すと、とうとう唸り声で喉を鳴らしながら座った。

「あんたが言うんじゃなきゃ、俺は今すぐここを飛び出して火をつけているね」

 本当にやりそうだな、と透輝ぼんやり思ったが、それにこたえることなく唐突に問うた。

「どういう女だ、あれは」

 憤りというよりも純粋な疑問に近い。

 疑問の体で口にしたが、その実ただのつぶやきに近い。

 大した女だ、と感心するにはただ者ではなさ過ぎる、と透輝は思っている。

 なによりも透輝をぎょっとさせたのは、汚れを嫌う巫女でありながら血を浴びたことにみじんも動じなかったことだ。彼女がいったいどういう道を歩んでかの地位についたかは知らない。それにしてもあのような静かな瞳でいられるはずがないのだ。

 白い髪、赤い瞳とおよそ見たことのない容姿に惑わされるが、年の頃ならほんの十五ほどの少女である。透輝よりも五つも下の子供が、人死にを目の当たりにしてどうして動揺のひとつもしないでいられる。よほどの地獄をみてきたのか、それともよほどの胆力があるか、だ。

 後者であろう。

 同じ場にいた侍女たちはある者は悲鳴を上げ、ある者は声を発することなく気を失っていた。

 胆力に加えて、あのこちらを熱烈ににらみつける瞳。どう考えても婚姻を望む姫君の甘やかな視線ではなかった。いっそ殺意さえ感じたほどだ。それも、姫巫女という彼女の上辺でなく、その下に潜む真珠という少女の、純粋な殺意である。

「まぁ並の女ではありませんね」

 そんなことは承知している。

 毒にもクスリにもならんような感想をききたいわけじゃない。もっとも、姫巫女については瑠璃とて神話程度にしか話をしらないのだから他に言いようもないのではあるが。

 姫巫女に足しげく通うようなご婦人はほとんどが惟月に組みする者たちの縁者である。透輝の父である先代の銀狼もずいぶんと熱心に寄進していた。それをくだらぬと取りやめてしまったのは他でもない透輝である。彼女たちのことを知ろうともしていなかったわけであるが、それがまさかこんなところで祟ろうとは思ってもいなかった。

「まぁ、よくわかりませんが、女であることには違いありませんから通り一遍のことをやってご機嫌をうかがうのが定石なんじゃないですかねぇ」

「俺のあれに対する評価が正しいのであれば、そこいらの女と同じことをして機嫌を取ってやれば俺の命をとりかねんぞ」

「殿下、姫巫女を凶暴な獣かなにかと勘違いしてやしませんか」

「凶暴な獣どころか、だな」

「へぇ。んじゃ、あんたの見立ては?」

「俺の見立てが確かであれば」

 確かであれば。

 そういう言い方はしたが、実のところ、透輝は疑っていない。

 あの十五になろうかという風変わりな少女は自分と同じ種類の人間、いやそれどころか、もっと優れた勝負師というべきものなのかもしれないと思い始めている。

 少し目を合わせて話しただけで値踏みされたのがよくわかった。

 負けないためにどうすべきかではなく、勝とうとしていたのだ。あの状況で、あろうことか。

「俺の見立てが確かなら、あれは一種の化け物というべきやつだろうな。自分の目的のために、自分すら駒として見ることのできる唾棄すべき才能を持っている」

 真珠とわずかばかりの言葉を交わしてみて、これは惟月とは通じていないなとすぐにわかった。とても惟月の手に負える女ではないからだ。すぐに疑いが晴れたと言ってやればよかったのだろうが、透輝はもう少し追い詰めて反応を見てみたかった。真珠は迷わず自らの身を差し出した。自己犠牲などと軟弱なものでなく、思惑あって一時的に自分の身を担保したにすぎない。決断は瞬時に下されて迷うそぶりはなかった。

 こういう判断の下し方は、どうにも自分に覚えがあった。

「あんたと同じく?」

「そう、俺と同じくだ」

 揶揄する瑠璃に迷いなく頷いてみせた。が、不満であるらしい。

「買いかぶりすぎじゃないですか。というか、あんたあの姫さんのことめちゃくちゃ気に入ってますね?」

 どういう立場の女かわかっているのかと、こめかみを押さえる瑠璃である。一方、透輝はそんな瑠璃の心配を笑い飛ばした。

「あれが姫巫女でなければむりやり俺のそばにおくんだがな。惜しい話だ」

「その言い様だと今のところは深入りしない、と?」

「今のところは。人として面白いとは思うが、俺はあの愚弟のように信心深くない。変にあの手のものにかぶれたと思われるのも癪な話だ」

「そのへんを飲みこんでこその政治なんでしょうが、俺はどうも苦手ですね。あとこういう抹香臭いところも。さっきから体がかゆくてしょうがない」

 刀で解決できぬことは自分の領分を越えているとばかりに瑠璃は天井を仰いだ。

「政治、ねぇ」

 呟いて、透輝はため息をつく。

 姫巫女との婚姻で透輝の地位が揺るぎないものとなるだろう。姫巫女をめとって銀狼となったのだ。もはや異を唱える隙がない。

 いまだ、それがさほど重要なものとも思えないが。

 もともと、惟月は嫡男ではない己を飾りたてることで補おうとした。姫巫女などという伝説をひっぱりだしてきたのもそのひとつだ。今にして思えば、その埃をかぶった伝説を示してやったのはあの父かもしれないな、とあたりをつける。

 だとしたら、最期の最期まで祟ってくれるじゃないか。

 透輝は内心でうんざりと舌を出した。

「惟月が打って出てくると思うか」

「そういう分かりやすい手は使わないでしょう、あの御仁は。人を操って姿を見せず、最期の最期で着物に染みひとつつけずに君臨する輩ですね。反吐がでるったら」

 からからと笑う瑠璃の瞳はちっとも笑っていない。

 瑠璃は瑠璃で、戦場を厭う惟月を腰ぬけだと嫌い抜いている。案外、透輝に仕えているのもそれが理由かもしれないと思わせる程度には、あからさまに嫌悪を示してみせる。

「だから、いかにもあの弟君が御しやすそうな女たちがごろごろいる、こんな場所はごめんなんですがね。命がいくらあっても足りないってわかってます? 虎穴にいらずんばなんとやらってやつですが、ここは俺にいわせりゃ悪鬼の巣窟ですよ。どいつもこいつも得体が知れない。あの妙な術をつかう女どもも、結局なんのことだかわからなかったし」

 後半は恨み節のようになっているところをみると、よほどあの女たちの手口を明らかにすることができなかったのが悔しいとみえる。

 荒事に絶対の自信を持つ瑠璃だからこそ、自分がわからぬ理屈で人をしとめることのできる術が存在することが歯がゆいのであろう。

 それにしても悪鬼とは、ずいぶん言葉がすぎるものだが。

「他の女どもはいざ知らず、少なくともあの姫巫女は惟月なんぞに動かされるタマではあるまいよ」

「なんでそんなことわかるんですか」

「自分が従うのは自分自身だけだとあの姫巫女は言った。俺と同じだ。だとすれば、姫巫女が俺の首をねらうのは、自身の意志でしかありえない。そこに惟月の意志が介在する隙間はないからな。まぁ今のところ俺があの姫巫女に狙われる理由はないが、それもこちら側の話で、あの姫巫女がどう考えてるかはわからんから、結局なにがしかの理由で殺されることもあり得るな。なにせ、腹が読めん。この婚姻もあちら側にさして利がある話とも思えんし」

「ってちょっとまってよ。それって結局あっちがなに考えてるかわかんないし、ここが悪鬼の巣であることには変わらないってことでしょ」

「ま、そうだな」

 とうとう瑠璃はがっくりと肩をおとした。

 透輝は笑いながら、あの姫巫女と一線交えるのもおもしろいと心の片隅で思った。

 自分であるなら、相手を油断させ懐に入ってから笑顔を浮かべて首を切り落とすであろう。父を殺したときと全く同じく。

 あの少女は必要であればそうできる部類の人間だ。

 悪くない。そういう人間は大好きだ。

 自然、口角が上がる自分を認識して、これだから鬼などと呼ばれるのだと自嘲したのだった。

 


 巫女の婚姻は三度通うことで成る。

 かつて、この地を平定した狼が人界にて神の言葉を降ろす役目を負った巫女と恋に落ちた。人でありながら神の領域にいる巫女と狼は互いの違いを埋めるために順を追って『同じ』になることにした。初めは声を、次に手を、最後に身体を交えることで『同じもの』になった二人は婚姻が許される。

 つまり、今日という一日目は互いに声をかわすことだけが許されるというわけである。

 婚姻の手順が早速今夜、交わされる。

 藍玉はもう少し猶予を! と騒ぎたてたようだが、聞き入れられるはずもなかった。

 斬り殺したあの武者。

 彼だけではない。例外なく、山に足を踏み入れた者たちはすべて斬り殺されていた。山犬たちと瑠璃の双方から仔細を聞いた真珠は、それをきいて双子たちが山歩きの時に死体見つけて泣きわめかなければいいが、とあさっての心配をしていた。

 しかしこんな過激派なのであれば腹違いの弟など真っ先に殺してしまえばいいものを、そこは色々と大義名分が必要であるらしかった。あの場に惟月が居合せたならともかく、そうでないのならば証拠は何一つない。彼らの死体を探っても惟月とのつながりをにおわせるようなものはなかった。あの武者が先走っている可能性もあるわけだ。

 が、透輝はおろか真珠だってその可能性をこれっぽっちも信じていない。

 今のところ惟月の罪状は女と偽ってこの宮に入ったということだけで、それにしても謀反の意あり、とはいえない。天狼に格別の信心があった、と言われればそれまでだからだ。

 そんなわけでまた性懲りもなくいつ惟月が仕掛けてくるかわからない。善は急げということになったわけで急ごしらえの婚姻となったのだった。

 真珠としても早かろうが遅かろうが異論はない。神への嫌悪を隠そうとしなかったあの男が自分に手を出すとはとても思われなかったからだ。今、この瞬間までは。

 真珠は塗籠と呼ばれる光の入らない部屋にぽつねんといた。

 今日は雲ひとつない夜であったから、いつもの寝室であれば月明かりで薄く部屋が照らされているはずだ。しかし、ここは四方を漆塗りの壁でふさがれており、光が差し込む隙間がない。心もとない蝋燭の明かりだけで真珠はぼんやりと待っていた。

 百五十年ぶりの巫女の婚姻である。本来であれば盛大に祝うものなのだろうが、なにせ急な話のため、調度品などをそろえる余裕はなかった。

 経験のあるものはすべて死に絶えて久しい上に記録として残ってはいるが、それとて断片的に書きとめてあるだけで、そもそも個人が所有していた備忘録のような扱いであったらしく、はっきりとわからないことも多い。不手際があるのではと藍玉などは青くなって震えていたが、こういうのは儀式というよりも本能的なものであるから別にいいんじゃないか、と真珠が答えれば今度は顔を赤くして藍玉は黙り込んだ。わけがわからぬと首を傾げた真珠がその意味を知るのはもっと後のことである。

 巫女の婚姻の細かな手順が残っていないのは当然だ。『同化する』ということが必要なのであって、細かな儀式そのものにあまり意味はないからだ。真珠はそれを、姫巫女を受け継ぐときに先代より教わった。

 大地を平定した銀狼は巫女と婚姻し、子を成した。それは遥か彼方、神話の時代の話だ。円環の姫巫女は血によって繋がれているものではない。巫女が亡くなれば新たに資格あるものが選ばれる。成り立ちそのものが違うから、両者の今のあり方は違う。巫女だけが神話の時代から変わらずに留まっていた。

 これだけ違うものになってしまっては同じになるということは難しい。

 人の世に生きる彼らが口をそろえて巫女を化け物、あるいは神話に傾倒するある種の法螺吹きのように扱うのは無理からぬことである

 この神話ですら、今時信じている者はいない。姫巫女が銀狼を選ばなくなってから百五十年、そんなもので威光を示さずとも山城はよく国を治めていたからだ。それでも真珠との婚姻を承知したのは向こうの政治的な思惑と。

「……私の美しさに他ならない、か」

 真珠は小さく首を振って耐えきれないと憂鬱を吐きだした。 

 美しいということはそれだけですべての切り札となりえるのだな。恐ろしいことだ。

 真珠は自分で言い出したことながら、いまさら自身が猛獣の口の中に飛び込もうとしていることを悟った。

 私に溺れるな、と親切に忠告してやったが常人には無理かもしれない。あの男がそういう理性を備えているとも思えない。多少触れるくらいは許してやるつもりだが、それ以上のことを獣のように荒々しく求められても自分の細腕で抗しきれるものだろうか。藍玉に鈍器の一つでも用意してもらうべきだったか。

 いざ婚姻が現実のものになると、真珠は耐えきれないほどの不安に苛まれた。

 部屋から出るな、ということだったが、藍玉に得物を用意してもらうくらいはいいだろう。さっとでかけてさっと何食わぬ顔でもどってくればいいのだ。なにより自分の貞躁の一大事なのだから、許されてしかるべきだろう。

 そうと決まれば善は急げだ。

 真珠は白の長襦袢をずるずると引きずりながら妻戸に手をかけた。

 と。

「起きているか」

 低い声がして跳び上がる。

 紛れもなく透輝の声である。妻戸を隔ててすぐ向こうにいる。足音も、気配もしなかった。驚愕して、思わず「うん」と幼児のような返事をしてしまった。

 真珠の呆けた声にため息だけが響いた。完全に準備不足である。そして不意打ちだった。そうでなければもっと美少女巫女に相応しい鈴を転がすような声で儚げに返事をしてやるくらいの芸当はできた。

 冷たい空気の中で男の心ないため息は一層冷えて聞こえた。

「あんた、なんで俺と婚姻する気になった?」

 ため息より一拍置いて透輝は囁くように言った。

「婿殿、いくら夜半とはいえ寝ぼけるには早いぞ」

 妻戸を一つ大きく叩いてやると舌打ちで返事される。

「誰が呆けているか。そうじゃなく、俺はあんたを殺そうとしたんだぞ」

「なんだ、責任を感じているのか」

 交じりっ気なしの嫌味のつもりだったが、しばし沈黙が続いて真珠は慌てた。

「おい、まさか本気で」

「俺にどう抱いてほしい」

「……は?」

「瑠璃があんたに報いるには優しく抱いてやるべきだ、と」

「ちょっとまて、何の話だ」

「だから、要望を聞いてやろうというんだよ。あんたが俺に何を望んで、どうされたいのか」

「そんなこと、乙女の私に言えるわけがないだろう」

 馬鹿か。

 そう揶揄してやると、妻戸の向こうで低く笑い声が聞こえた。

「あんたほどの女が乙女って柄か。俺を利用して自らの野望を遂げようという女が」

 何の話だ。

 そうとぼけることができなかったのは少なくとも真珠には心当たりがあるからだった。

「言えよ、姫君。俺のできる範囲でよくしてやる」

「小僧、私を挑発しているのか」

 言葉は真珠が想像するよりも静かに響いた。

「挑発? しているさ。あんたの腹の底が知りたい。でないと、あんたとおちおち寝ることもできん。寝首を掻かれちゃたまらんからな。あるいは、寝首をかかれるのであれば、その理由くらい知りたいものだ」

「まるで殺されたがっているようだな」

「もちろん、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。が、正直に言えば図りかねている。あんたという女を」

 おんな。

 女と言ったか。

 あくまで唯の女として扱おうとする透輝の姿勢に、苛立ちを感じる。自然、声はそっけなくなった。

「私は巫女だ。それ以外の何者でもない。お前ごときが神の器をはかろうなど、愚かなことだ」

「生身のあんたの話をしているんだがね」

「だから」

「あんた、俺をにらみつけただろう。殺したいほど憎い、あるいは愛している、というような目で」

 ばかな。

 そう笑い飛ばそうとして、真珠はできなかった。喉が詰まったようになって、細い息がもれるばかりだ。

「正直、どう考えてもわからん。あんたは本来なら引きこもってしまえばいいだけだ。あの妙な術をつかう山犬とかいったか? あれらに守らせればこの山はそうそうたやすくはないだろうさ」

「うちの者をあれほど傷つけておいて、よく言うな」

「壁にするなら十分な強度だ」

「言ってくれる」

 わざと怒らせるような言葉を選んでいるのはわかっている。それでも人を駒のようにいう男を許してはおけなかった。

 やはり、銀狼の系譜はここで断つべきだ。

 真珠は確信とともに小さく笑った。

「婿殿は随分私をかっているようだな。私を一端の策略家のように言ってくれる」

「あぁ、大いに買っている。あんたは俺と似ているところがあるからな」

「ほぉ?」

「もっとも、俺はあんたを利用しようとは思ってはいないが。でも多少の協力はしてやってもいい。これでもあんたを巻き込んだという自覚はある。あの馬鹿が、妙な気を起こさなければあんたはこの山で誰にも見とがめられず静かに暮らしていくはずだったんだからな」

「たしかにな。その点は大いに反省してくれ」

「で、言えよ。そうすればあんたの望むものはあたえてやってもいい。ある程度は」

 ある程度、か。

 透輝にも果たすべき役割があるとすれば、この申し出は実に誠実なものだ。自分の叶えるべきことの邪魔にならなければ力になってやってもいいといっているのだから。

 破格、といってもいい。

 が、それを信じられるほど真珠もおめでたくはできていない。

 そもそも優しく抱いてやる、という言い方も気に食わなければ、人を人と思わないところも論外だ。何様だと思っているのか。

 お前がそんな、上等なものかよ。笑わせる。

 怒りでのたうちまわってしばし。真珠は暴れまわってはだけた胸元を掻き合わせて深くため息をひとつ。

「望むものなどない。婿殿は当代の銀狼だろう。そして私は当代の巫女だ。この二人の婚姻が成れば、国の安定につながる。それだけだ」

 巫女が婚姻を許されるのはただ一人、銀狼だけだ。

 銀狼は他の誰かを選ぶことができるのに、巫女だけは銀狼としかつがえない。それは巫女が神の代理であり、人と交わることが許されていないからだ。あくまで人でしかない彼らは、神という決めごとに縛られることはない。

 が、巫女は神のためにあるのだから当然天上の決めごとに縛られることとなる。つまり、天上の者が現世の者と交わってはならぬということだ。

 そしてもう一つ。

 神は一度交わした契約を反故にすることはない。

 巫女は銀狼とつがう。それは神が約束したことであり、銀狼と巫女という存在がある限り終わらない盟約だ。銀狼は代を重ねその制約が薄れつつあるが、巫女は何度でも新しくあり続ける。肉体が滅びようとも魂は変質せずあり続けるのだから、刻まれた盟約も薄れようがない。この盟約ゆえに、巫女は銀狼を求めてやまない。

「というか、だ。そういうふうにできている。だから余計なことは心配してくれるな」

 王に嫁して国の安寧を約束するそういう役割の巫女である。惟月がなんとしても巫女を手に入れようとしたのは、神からのお墨付きを得たいという気持ちに他ならない。それを他ならぬ透輝に与えてやる、というのが今回の真珠の申し出である。

 それ以外、お前には何ひとつ関係ない。

 通り一遍のことしか語らなかった真珠はそう言ったも同然であった。

「お前に協力してやることが、そんなに不満か」

「もちろん、ありがたいことだ。これで俺はなんの障害もなく当主の地位を安堵できるばかりか惟月を殺す大義名分さえもできた」

「そうか、それはなによりだな」

「ついでに一つ聞いておくが、銀狼も巫女も置いておいて、この婚姻が恐ろしくないのか、あんたは」

「恐ろしい? 急に何の話だ」

「ありていにいえば、血を見ることが厭わしくないのか、ということだ。俺の二つ名は知っているだろう」

 鬼若子。

 まだ先代の銀狼が生きていたころ、透輝がただの若君であったころの呼び名である。

 先代、つまり透輝の父は穏やかな、といえば聞こえはいいが、その実無能な男であった。三方を山に囲まれているとはいえ、隣国との諍いはある。挨拶代りに国境を侵し、奪っていく。嫌がらせのようなやり口であったが、隙あらば国を取ろうとする意志は感じている。この土地が豊かだからだ。三方の山に蓄えられた雪解け水が必要な分だけ流し込まれる平野には豊かな緑があり、清い水は豊富な川魚たちを育んでいた。まるでこの土地だけ祝福を受けているように飢えるということを知らない。

 欲しがるな、という方が無理な話だ。

 そしてこの国を統治するのは山城、喰らうこと飢えた狼のごとしと言われた勇名をはせている。その当主が、刀も弓も取らずに女に溺れ、舞を踊る日々を過ごしている。このままではいつ喰らわれてもおかしくない、家臣団が頭を抱えたときに、いつもの嫌がらせの一団を苛烈なほどの血祭りにあげたのが齢十五にならんとする透輝であった。

「初陣、というほどのものでもない。あれは本当にただの挨拶代わりだ。我が親父殿がぼんくらで、俺がまもなく元服を迎える頃合いで、どれひとつからかってやろうかというしょうもない兵だった。それを、俺は完膚なきまでに、過剰な執拗さでもって叩きのめした。それが、このざまだ」

「なんだ、後悔しているのか」

「まさか。あれはやるべきだった。あのまま舐められているようでは国土が喰らいつくされるところだ。あの一撃は必要だった」

 だが、それゆえに恐れられた。

 次代のあまりの苛烈さゆえに、とうてい自分たちの手に負えぬと家臣の一部は恐怖した。それまで家中のことに興味を持たぬ当主の操り、いいようにしてきた者たちにおいて、この俊英は脅威であった。

「あんたが俺の話をどれだけ聞いているかは知らないが、鬼若子の逸話はそれほどまちがっちゃいない。おまけに俺はあの頃からなにもかわっちゃいない。鬼若子で、銀狼だ。よりたちが悪くなったとも言えるが」

 言葉は揶揄するような響きがあったが、声は冷えていた。

「あんたは、それでも俺が恐ろしくないのか」

「お前、私に懺悔でもするつもりか」

「なに?」

「馬鹿馬鹿しい問答だな。私がお前を恐れていようとそうでなかろうと、関係あるのか」

 まるで、一人の人間に問うているようではないか。

 人の好悪、それが神の決めた婚姻になんの関係があるのか。

 いや、透輝がこう言うということは、真珠を理解しようとしているのだ。そうして、受け入れて欲しいとも思っている。彼なりの譲歩なのだろう。

 が、無意味だ。必要がない。

「生と死を身に宿す私が今更血潮を恐れるか。それに、あれは必要なことだった」

「ほぉ、殺人が、か」

 わざと露悪ぶった言い様をする透輝に、真珠は見えもしないというのにうんざりという表情をつくってみせた。

「お前はなにか。聖人君子のつもりか。それとも死んでもいいと思っている大馬鹿者のくちか? 殺されてそれでいいと諦めのつく生を送っているのか。だったらさっさとその命を返上しろ」

 どんっ。

 足を踏みしめて真珠は立ち上がる。激怒していた。投げやりに生きている男に自らが囚われていると考えるだけで身の毛もよだつような激情が走った。

 よくきけ、といわんばかりに戸に手を突いて叫ぶ。

「殺すつもりでくるやつを返り討ちにしてなにが悪い。殺されるがままになることが聖人の証明だというのなら、私はそんなものとうの昔にどぶに捨てているっ! 使えるものはすべて使って生きる道を探すだろうさ。それがたとえ唾棄すべき神の使いだろうが、手を血で染めることだろうがっ! 私ならそれをやるっ」

 一気に言い募って、真珠は肩で息をした。しばしの沈黙の後、

「いや、まさかそうくるとは」

 ひとりごちる透輝の声が聞こえたような気がしたが、意味のない言葉の羅列に真珠も答えようがなかった。ひとしきりの笑い声の後、

「あんた、やはり俺のものになれ」

「もちろん、お前は私のものだ、限りある間だけだが」

 面食らいながらも声を揺らさないでよくも憎まれ口をたたけたものだ、と真珠は我がことながら感心した。

 妻戸の向こうで息を吐く気配がした。

「あんなに熱烈に俺を見つめた女とは思えんそっけない口ぶりだな」

 まだ言うか。

 からかう言葉に真珠はようやく肩の力が抜けるのを感じた。

「そんなに熱心に見ていたか、私は」

「俺の全身の毛穴がぶち開くくらいにはな」

「どういうたとえだ、それは」

 だが、まぁ。

 妻戸の向こうにいるであろう透輝の顔を思い出していた。

 黒髪に縁取られた面には月のように輝く切れ長の目が形よく配置されている。鼻はすらりとしており、薄い唇は面白くなさそうに引き結ばれていた。人形のような、というにはいささか鋭すぎるが、それでも銀狼と呼ばれるのは納得の美しさであったはずだ。無表情すぎるのは減点だが、真珠はけして嫌いではない。

 造形だけでいえば、あの先代姫巫女の面影があったからだ。

「お前を見つめていた理由か。しいていえば顔だな。今見えないのが残念なくらいだ。顔だけは、私の好みに合う」

 しばしの沈黙の後、透輝は戸を震わすほど大笑した。

「はっ。やはりあんたは俺の見込んだ女だ。この状況でそんな妄言を吐くか! その肝の太さ、つくづく姫巫女なぞやらせているのがもったいない」

「意味が分からん」

「唯のひとであったのなら、あんたが欲しかったって言っているんだが?」

「はぁ?」

「いずれにしても、今のあんたが俺に対してどう思っているのか、よくわかった」

 言葉とは裏腹に揶揄するような声だった。表情はわからない。

「明日はもっと遅い時間にくる」

「起きていられるか心配だ」

「寝ていてもいいぞ。姫巫女であるあんたとは、こんなのは茶番だ」

 立ち上がり、去って行った。真珠はなんとなく呆然と天井を見上げる。とにかくけだるく付きまとう眠気に身を任せるだけだった。



「で、惟月の動きはどうだ」

「なにもございません」

「ちょっと、陛下さぁ」

 瑠璃が不満げに口をとがらせる。

「なんだ」

「なんだって、あんたこれ疑問に思わないわけ? なんでこの女がここにいるんだよ」

 瑠璃の疑問はもっともだった。

 あてがわれた部屋は宮の端で、居住環境はともかく密談をするにはもってこいの場所だ。侍女たちもすすんで透輝に関わりたくないようで、食事を運んでくる以外は誰も近寄ろうとしない。透輝はそんな環境を存分に活用し、堂々と宮の中で惟月を討ち果たす手回しをしていた。それは瑠璃も承知している。

 問題は、山犬も仲間に入っていることだ。

 透輝は怒る瑠璃にあっさりと回答した。

「俺が惟月の様子を探るように言ったからだな」

「いみふめいすぎる!!」

 どうしたらそんな話になるのだ。瑠璃は絶叫して頭を抱えた。

 山犬は我関せずといったふうに顔を伏せたままで、微動だにしない。

 透輝はいまだ腹の読めぬ女に声をかける。

「傷はもういいのか」

「はっ。姫巫女さまに治癒いただきましたので」

「なんだ、あの姫君はそんな特技もあるのか」

 からかうように言ったが、山犬衆は沈黙したままだ。姫巫女に関することには口を割らない。それは初めに惟月の様子を探るように依頼したときから一貫していた。

 真珠とはどういう女であるのか、という問いに顔も上げないままで『答える必要がない』とぴしゃり言われてしまったことは記憶に新しい。

「立派な忠犬ぶりだ。利害が一致している間は引き続き頼む」

「はっ」

 諾、と返事をして消えようとした山犬の両肩を瑠璃は押さえる。

「ちょおっとまった! あれこれ言いたいのはさておいて、あんたたちさ、あれどうやってるの」

 あれ?

 小首を傾げる山犬に、瑠璃は焦れる。

「だから、傷を負わせずに絶命させた術だよ」

 にやり。

 十分に皮肉を含んだ言い方に、透輝が声を上げる前に、

「話す必要がありません。あなたは我が主ではありませんゆえ」

 にべもない。

 さすがに透輝は少し気を悪くした。

「ずいぶん愛想がないことだ」

「勘違いされては困りますが」

 そう前置きした上で、手で顔を隠したまま眼光鋭くにらみつける。

「我が主は姫巫女、ひいては天狼様のみです。あなた方に手を貸しているのは姫君が選んだ銀狼が万に一つも失われるようなことがあってはならぬから、ということをお忘れなく。そうでなければ、我々はあなたの命は受けない。そのようにできていないのですから」

「どいつもこいつもつまらないことを言うな。そういうふうにしかできていないなどと、まるで人に意志などないようだ。人の営みのあらゆることから遠いように、あの姫巫女もそんなようなことを言っていたが」

「姫君の言うことは正しくあります。天狼に仕える限り、必要ないと存じます」

 断言した山犬に噛みついたのは瑠璃だった。

「はぁ~? あんたたちの宗教がどんなだかしらないけど、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話だね」

 瑠璃は息がかかるような距離で山犬の顔を覗き込んだ。さすがに近すぎる。あれほど感情を排した女の瞳が、わずかにたじろいだ。瑠璃はその動揺に無関心で言い放つ。

「あんた、せっかくきれいな顔してんのにな」

 恋もしないとはもったいない。

 考えてもない言葉をぶつけられ、山犬は絶句した。

「なっ」

「顔を隠しても目だけみりゃわかる。あんた、ずいぶん美人さんだよね? こんな辛気くさい格好ばっかりしててもったいないと最初から思ってたんだよね。この着物だってあんたの方がよっぽどにあうだろうに。ねぇ、陛下?」

 相変わらず肩にひっかけているの派手な女物の着物を指して瑠璃がそうのたまうのを聞くと、さすがに透輝は山犬が哀れになった。

「そりゃそうだが、お前な……」

 なにを突拍子もないことを、と透輝が頭を抱えていると、顔を隠していても紅潮していることがまるわかりの山犬は肩にかかったままの瑠璃の手を振り払った。そうして、いきおいよく立ちあがる。

「女だと思って侮るかっ」

「きれいなもんをきれいだと言って、どうしてそれが侮りになるかわかんないんだけど」

 ますます近づいて、肌をまじまじと見る。今度は息がかかるどころではない。鼻先が触れ合うほどの距離だ。

「あんた肌も白くてきれいだね。こんな肌の女は城下一の遊郭でもみたことないよ」

「失礼するっ!」

 憤怒に身を染めて、山犬は忽然と姿を消した。

 しばし妙な沈黙が場を支配する。打ち破ったのは透輝のため息だった。

「瑠璃、試したな?」

 胡乱な視線を向けると、瑠璃はあっけらかんと言う。

「半分は本気ですけどねぇ。あの人はたぶん、俺がみた中で一等きれいな部類ですよ。あんたは姫様の方がっていうんでしょうが、そのあたりは好みの問題ですからね」

「そんなことは言っていない」

「それはともかく」

 瑠璃は軽く肩を竦めた。

「あれはただの人間ですよ。いくら神の使いをきどったところでね。俺たちと同じく、赤い血の流れる人間だ」

 その通り。

 瑠璃が山犬の反応を伺うような馬鹿話をはじめたのを止めなかったのは、透輝自身、それが知りたかったからだ。

 真珠は自らシステムであるかのようなことを言った。ずっと違和感があったのだ。彼女には天真爛漫な年齢相応の少女の姿と、その向こうにのぞくどうしようもない無機質な歯車のひとつである姿がのぞく。

「おまけにあの人を絶命させる不思議術は乱発できるようなもんじゃなさそうですね。平然としているように見えましたが、どこか体をかばっているようなそぶりがありますし、なにより血が足りてないのか肌がいやに青白い。俺が奴の主ならさっさと寝ておけといいますがね」

 天狼ってのはよほど人使いが荒いらしい。どこか吐き捨てるような響きだ。

「で、陛下は大胆と無謀は違うって知ってますよね?」

「安心しろ。俺が銀狼であるかぎり、あいつらは俺の害になるようなことはしない」

「そんなのはあいつらが単なる神の使徒であるなら安心するだろうけれども、あんたも知っての通り、どうしようもなくただの人間だ。であれば心変わりはいつだってする。なにひとつ信用ならない。いつ弟殿に寝返るかわかったもんじゃない。むしろもう寝返っているかもしれないとは思わないわけ?」

「あいつらがなにを考えていようが、現時点で俺にとって利があるから使っているだけだ。あいつらはあくまで姫巫女に忠誠を誓っている。真珠本人でなく、だ。であれば、銀狼以外を姫巫女に近づけるなど言語道断と考えている。だから、あちらに組みすることもない」

「だから、それが何の証明にもなっていないでしょ」

「だが現に、お前の探らせているところと大きく違いはないだろう」

 そう透輝が指摘すると瑠璃は心底いやそうな顔をした。

「確かにあの女どもの言うとおり、弟殿には別段、なにもありませんね。誰かと連絡を取っている様子もない。やつの意をくんだ、というか妙な気を利かせているのかなんなのか、自主的に俺たちの命令をきかないアホどもはいますが。というか、もうこれはあの姫巫女殿の思惑通りですねぇ」

「あぁ、こっちから動いてやらないとあっちはてこでも動かない」

 もともと、取るに足らない惟月という存在が、この宮にいるだけで油断ならないものだというのが肌にしみてきた。

 惟月という人物の評価を、透輝は変えていない。依然、女である真珠よりも大胆さに欠け、やり口は姑息であるという印象だ。万に一つも転ばされるはずもないと思っていたが、姫巫女という存在がどれほど人の心の隙に入り込むものなのか、ということを思い知った。初めて彼女と対峙したとき言われたとおりだ。信仰は習慣であり、それは血肉となる。その血肉の本丸である姫巫女の身に何かあれば死を恐れぬ兵にもなるし、熱狂的な支持者にもなる。国を治める者としては、民への信頼は譲れぬものである。惟月は、それを身に汗をかかずして手に入れようとしていた。そして、瑠璃の言うとおり放置しておけばこれほどやっかいな男もなかったであろう。

 今となっては真珠が応じたとも思えないが、仮に二人が婚姻を結べば当主の座は脅かされていたであろう。待つのはいつ終わるともしれぬ血みどろの内乱である。

「動かないのならこちらから動いてたたくべき、だろうな。あの姫様ならその選択肢をためらいもなく選ぶだろうさ。なんせ俺に生きるための手段を問うな、と怒鳴った女だ。俺たちよりもよっぽど好戦的で、好みに合う」

「あんたね、またそんな誉めるようなまねを」

「まだ気に入らないのか」

「得体が知れなさすぎる、という話をしているんですよ」

 主の寝首をいつかかれるか、心配する方の身にもなってほしいとわめく瑠璃に、

「あきらめろ。俺についていくと誓った己を呪うんだな」

「全くその通りですよ!」


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