第三幕
華火の提案で、しばらくは位置取りの練習をするようにした。
左腕の使えない華火にはどうしても死角が生まれる。その死角を久太郎が塞ぐのだ。淡路たちとの試合で、久太郎の死角を華火が塞いでいたのと同じことを久太郎もできるようにするのが目標だった。
その練習を通して、久太郎は華火のやっていたことがいかに常人離れした技であるかを思い知った。味方の位置と相手二人の位置を常に把握し、それと同時に目の前にいる相手の刃を受ける算段を立てながら自分は最適な位置へ移動し続けなければならない。ややもすれば目の前の相手との打ち合いに没頭するあまり華火の守りががら空きになり、逆に華火の動きを気にしすぎると自分の守りが疎かになり移動の隙に簡単に打たれてしまう。
「大丈夫?」
竹刀を使った乱取りの練習が終わって、汗だくになり息を切らしているところに華火が話しかけてきた。そういう華火は、髪が汗で額に張り付いているが、久太郎ほどは息が乱れていない。
「ハッ、ハッ、お前も、ぶっ通しで動いて、ハッ、るのに、ハッ、なんで、そんなに」
「急いで動くから疲れるんだよ。久太郎は無駄な移動が多すぎ」
「だって……、お前が、しょっちゅう位置を変えるから……」
「動かなかったら回り込まれて的になるし。そうじゃなくて、私がこれからどこに動こうとしてるのかちゃんと分かってないから、間違えたところに移動して体力を消耗するんだと思う。最初から正解の場所だけに向かって移動するのが一番疲れないから」
「そんなの分かるわけないだろ!」
と久太郎は突っ込んだが、そういえばこの女はそれを実践してたんだよな……と気づいて空恐ろしくなった。
「それと、久太郎は試合中ずっと神経を尖らせてるから、それで余計に疲れるんだと思う」
「いやそうしないと相手かお前のどっちかの動きを見失うんだよ」
「もっとぼんやりと見るの。私のこと全部をずっと集中して見ている必要はなくて……足の動きとか、向きとか、だいたいの情報だけぼんやり見るようにして……相手の動きも、今自分が剣を合わせてる相手以外はそんなに凝視しなくてもいいから――」
そうやって自分の集中力を適切に振り分けるのだ、と華火は説明した。理屈は分かるが、それを実際にどうやればいいのかが久太郎には分からない。華火の話も感覚的で曖昧だ。
華火の怪我以来変わったことといえば、彼女がこうして久太郎に剣闘のことを教えるようになったことだ。久太郎の方も、これまでやったことのない戦術で戦うしかないということで、これまでと違って華火の言葉に素直に耳を傾けるようになっていた。
それからさらに竹刀での乱取りの練習を続けてやって、部活の終わる時間になった。練習は四風旗に出る上級生ペアを相手にやっているが、あの練習試合以降は滝川と淡路のペアにすら未だに一度も勝てていなかった。
とはいえ、勝率は散々であるにしろ、久太郎は自分の技量が上がっていることと、華火との息が合ってきている実感があって、ここのところの練習は特に楽しかった。
「おい有沢、ちょっといいか」
道場を出ようとしたところで、教師が華火を呼び止めた。試合のことだと思って久太郎も一緒についていく。
「……何でお前も一緒に来たんだ」
「有沢だけですか」
「向こう行ってろ」
と教師に追い払われてしまう。
教師と華火だけが準備室に入っていく。他の部員はみな先に帰ってしまったが、久太郎は教師に対するほのかな反抗心もあって、華火たちの話が終わるのを待つことにした。
それからあまり時間もかからずに出てきた。
「よう。説教でもされたか?」
と、久太郎は軽口を叩いたが。
「…………」
華火は久太郎をちょっとだけ見て、何も言わずに道場を出ていこうとした。
「おい、待てって。……何の話だったんだよ」
「別に――」
「別にどうでもいいって話でもないんだろ。めっちゃ不機嫌だし」
「私がいつ不機嫌だなんて言った?」
「顔に出てる」
「勘違い。思い上がり。目が曇ってる」
「お、今日は一段と毒舌だな。相当ムカついてるのか?」
「あなたには関係ないでしょ」
「――ああそうだよ。関係ねえよ。じゃあ勝手にムカついてろ」
久太郎は華火に吐き捨てるように言って、追いかけるのをやめた。
ふう、と深呼吸をする。以前の華火を思い出していた。ここ最近はうまくやれているつもりだったんだが。同時に、あのときの久太郎が抱いていた華火への敵愾心も同時に思い出していた。
ふと視線を戻すと、華火が廊下の先で立ち止まって久太郎を待っていた。
慌てて華火に追いつく。
「……何だよ」
「先生に言われた」
「何を?」
「大会を辞退しろって。もう部活は辞めろって」
――一瞬、頭が真っ白になる。
「たぶん、父から私のことを聞いたんだと思う」
「あの……お父さんって、有沢流の家元だろ?」
「そう。私は破門されたけど」
「破門したからって、大会に出るのを邪魔するのかよ」
カッ、と久太郎の心の中で義憤の炎が湧き上がった。
しかし華火は諦めたように力なく首を振ると、
「そうじゃなくて。私の体のことを話したんだと思う」
「――体?」
「私……細胞治療を受けられないの」
学校を出て、夜の道を下校しながら、久太郎は有沢華火の物語を聞いた。
怪我に対する医療は、ここ百年でほぼすべてが細胞再生医療に取って代わられていた。ただし、極稀に、それこそ宝くじが当たるくらいの確率で、細胞再生医療を受け付けない体質の人間が生まれる。それが有沢華火であり、よりにもよって有沢流の家元の娘であったのは皮肉という他ない。
華火の体質が分かったのは小学生のころ、剣闘の練習をしていて怪我をしたときのことだった。それまでは周囲の大人たちは華火こそが有沢流の後継者になると信じて疑わなかった。もちろん華火自身も信じていた。しかし華火の体質のことが分かってからは、父の命令で華火は剣闘から遠ざけられた。それでも華火が刀を持とうとすると、父は華火を破門にした。
現在、怪我に対する細胞再生医療以外の方法は、その設備もノウハウもほとんどが失われていた。ごくまれに華火のような人間が生まれてくるにしろ、古い医術を伝統芸能のように保護するコストを社会は許容しなかった。大部分の人間にとってはそれが最善の選択だったのだ。古い医術を守るためのお金と時間を使って、もっとたくさんの人を助けられる。
「だけど、宝くじに当たる人はいるんだよ」
と、華火は優しい声で言った。
華火のこれまで背負ってきたもの、差し出したものの大きさに、久太郎はめまいがした。――こいつは生命のリスクを負っていながら、今まで平気な顔をして刀に身を晒してきたのだ。
自分は、そこまでの覚悟を決められるだろうか。
「でも、だったら何で剣闘やってるんだよ。お前、怪我したら死ぬんだぞ!」
「私が剣闘をやるのは――剣闘をやりたいから、だよ。私、剣闘士になるのが、昔からの夢だったの」
華火は、真っ直ぐに久太郎を見て言った。
「でも、そんなの……命をかけてまでやりたいことなのかよ……」
「命をかけてまでやりたいから夢なんだよ。今だって登山家は山に登って死ぬし、パイロットは飛行機が落ちて死ぬ。けど、それは夢を諦める理由にはならないんだよ」
「わかんねえ……わかんねえよ俺には……急に命とかそういう話をされても……」
「私、大会に出るよ。先生がどうしてもダメだと言うなら、剣闘部を辞めて、個人で出場してもいい。でも私は、久太郎と一緒に大会に出たい。ダメ?」
「……まずは、先生をどうやって説得するかだな」
久太郎がつぶやくと、華火はいつものように口元を緩ませた。
***
四風旗が始まった。初日はトーナメントの第一回戦が行われる。二回戦以降は別日だ。
試合の抽選は一週間前に行われていた。いきなり同じ部活のチームと当たったらどうしようかと話していたが、幸いにも「同士討ち」になる組み合わせにはならなかった。
第一回戦の相手は隣の県の高校の、二年生の葉山と三年生の榎川のチームで、特に榎川は去年の四風旗では準決勝まで残っている強敵だった。
「調子はどうだ?」
開会式が終わり、控室で出番を待っているときに華火に質問した。
華火は柔軟体操をしながら、
「普通」
「普通か。ま、普通にできれば上出来だな」
「まだ痛むけど、使わなければ邪魔にはならない」
左腕を伸ばしながら答えた。
「久太郎は?」
「ん?」
「調子」
「風邪気味」
冗談で返した。華火はいつも以上に言葉がぶつ切りだった。今まで知らなかったが大会前はさすがの華火も緊張するようだ。
控室に教師がやってきて、久太郎たちの出番を告げた。
「んじゃ、勝ちますか」
華火が硬い表情のまま頷いた。
久太郎は鎮痛薬を飲んだ。華火は飲まない。傷を負えば死んでしまう彼女にとって、ダメージを知覚できないのは致命的だからだ。今日は華火が受ける傷はすべて自分が受けるつもりだった。
控室を出て、短い廊下を歩いた先に会場のホールがあった。もしかすると華火にとってこれが最後の剣闘になるかもしれない。帰りはないかもしれない。引き返すならここだ。まだ間に合う。ホールに入った途端、無数の観客の視線とライトに目がくらんだ。
それでも、迷うことなく、久太郎たちは試合場に入った。向かい合う相手チーム、葉山と榎川の顔。榎川は身長が二メートル近くある大男だった。今さら身長差で怯む久太郎ではないが、華火を守るのであればやつの刀を受ける場面も出てくるだろう。そうなれば体重と筋力の差が大きく響くことになる。
儀礼に則って試合が始まった。
「始め!」
作戦通りまずは華火が前に出た。片腕が使えない華火よりも両腕が自由に使える久太郎の方が対応可能な状況が広いためサポートに回る。
華火は躊躇いなく榎川の方に突っ込んでいく。相手チームは間違いなく榎川が攻撃の要だった。葉山が華火の左側面に回り込もうとしたのを見て、久太郎は前に出てそれを抑え込んだ。
久太郎と華火が、それぞれの対手と切り結ぶ。
久太郎は葉山の相手をしていても榎川の剣圧の凄まじさを感じた。一瞬だけそちらに注意力を振り向けると、上段に構えた榎川の暴力を、華火は立ち止まったまま器用に片手だけで捌いていた。
「セイッ!!」
と、華火にばかり気を取られている場合じゃない。榎川より一枚落ちるとはいえ葉山も実力者だ。
葉山は深く踏み込まず、鋭く短い太刀筋で久太郎を牽制する。一呼吸様子を見る。向こうに攻め気がないのを確認してから、相手が逆袈裟に切り上げたのに合わせて前進し、刀を押し込んで鍔迫り合いに持ち込む。
「はああああああっ!」
二歩踏み込んだ。そのまま押し切れるかと一瞬思ったが、押し込んだ力を巧みに横に流されて距離を離された。
じり、と睨み合う。葉山は刀を正眼の構えでまっすぐに久太郎を見ている。守りが堅い。久太郎の経験では、この手の剣士は最初の不意打ちにしくじると崩すのは容易ではない。こちらが焦れて下手な攻めをしたら、やつはその瞬間を絶対に見逃さないだろう。
ここまでくれば相手チームの狙いは明らかだった。葉山は拘束役で、技量と体格に優れる榎川が相手を一対一で屠る。初歩的で一般的な戦術だが、手負いの華火では荷が重い。
――と、ここまで考えて、鍔迫り合いにかまけて華火への注意が消失していたことに気づいた。葉山に隙を見せないように一瞬だけそちらに目を動かす。今まさに、榎川の猛攻撃に対して、反撃することも下がることもできずにいた華火の姿を見た。
久太郎は迷わなかった。
構えなどお構いなしに、全力で榎川に飛びかかった。
「――ッ!」
すぐに葉山が反応して、久太郎の進行方向より首を狙って横一閃。
久太郎はほとんど考えることなく、ただの直感で、膝を落とすと葉山の刀の下を滑ってくぐり抜けた。
「えっ!?」
葉山の驚く声が聞こえた。必殺のつもりで放った一撃を空振り、葉山は無防備な状態を晒していた。しかし久太郎はそちらには構わず、飛び上がるように立ち上がって榎川に横から切りかかった。
「ふん」
榎川は久太郎をろくに見もせずに刀で受けた。久太郎はそのまま鍔迫り合いをしようとして――ただの腕力で跳ね返されて、久太郎は尻もちをつきそうになった。
くそっ、なんて力だ!
久太郎と榎川の攻防は一瞬だったが、その間に華火は体勢を立て直した。静かな、しかし鋭い切り込みで反撃する。榎川と華火の剣が激しくぶつかって、力負けした華火が後退して久太郎のそばに移動する。
一方の久太郎も、遅れて近づいてきた葉山の相手で、榎本の方ばかりに気を取られている場合ではなかった。
背中合わせに立つ久太郎と華火。それを囲むように榎本と葉山の二人。
久太郎の背後で榎本の動く気配がした。榎本の剣の相手をする華火の動きが背中越しに伝わる。久太郎に対しても葉山が切り込んでくる。
もう一度葉山の不意をつけるとは思えない。しかしこのままでは華火が榎本に削り殺される。どうする。どうする。
そのとき――見えないはずの榎本の動きが、構えが、呼吸が、華火の見ている光景が、彼女の背中越しに見えた気がした。苛烈な攻撃を絶技で捌く華火の動きももちろん――。
――華火、そっちは駄目だ!
瞬時の判断。
葉山の刀を横に弾き、同時に後ろに手を伸ばして華火の襟を掴んで強引に放り投げた。
華火は小柄とはいえ、その体を一瞬で投げられたのは、自分自身でも信じられない怪力だった。華火を投げた直後、華火を狙った榎本の嵐のような一閃が空振った。
やった、華火は無傷だ――。
その直後、目の前の葉山からの突きを躱せず、久太郎は喉の下から頭部まで貫かれて意識を失った。
久太郎は意識を取り戻したが自分がどこにいるのか分からなかった。ベッドの上で上半身を起こして、そばに立っていた華火を見て、次いで部屋の中を見回して、ここが再生室で試合はすでに終わったということを悟った。さらに、試合の結果も。
「二対一でよく勝てたな」
華火が頷いた。もし負けていたら彼女はここに立ってはいまい。
後から試合の映像を見たが、久太郎が刺された直後、華火は一息で榎川の胴を抜いて、久太郎の咽頭から刀を抜くのに手間取った葉山を返す刀で切り捨てた。一瞬だった。華火ほどの剣士であれば、久太郎が作った一瞬で十分だった。
「助けてくれて、ありがとう」
「何? ああ、いや、咄嗟だったから、もっと上手い方法があったかもしれないけど……。それにチームだろ、俺たち。礼には及ばない」
こくん、と華火は頷いた。
まだ話の続きがあるのかと待っていたが、彼女は黙ったまま久太郎の顔を見ていた。いつも以上に華火は寡黙だった。
「あー……二回戦、どうだろうな。さすがに次はもうちょっと楽な相手だと思うが」
「油断は禁物」
「だな」
「久太郎はもっと鍛えたほうがいい」
「はいはい」
「……首」
「あ?」
「首はもう大丈夫?」
「ああ、そりゃ、再生室だからな。薬も飲んでるし、痛みはない」
華火はまた黙った。細胞再生医療を受けたことがない華火には、傷が残らないという感覚がよく分からないのかもしれない、と久太郎は勝手に納得した。
「……私の、腕は」
震える声で、華火は言った。
「今、とても痛い」
「試合で動き回ったからか」
「多分」
「頑張ったな」
「……うん。久太郎も」
「俺たち最強だな」
「足して二で割ったら、普通」
「なんだと」
軽口を言い合う。笑いながらベッドから起き上がる。
部屋を出てからも、久太郎と華火は同じ速度で、肩を並べて歩いた。
有沢華火は刺されると死ぬ 叶あぞ @anareta
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