第5話 ダム湖のクジラ

 その日は、上司と二人でトンネルの中を進んでいた。

 そして、その日に関しては、なぜそんな所にいたのか、という理由まで覚えている。



  ダムの様子が、何かおかしい。

  だから、現地に行って点検してこい。



 上司が社長からそう告げられ、ダムの点検という緊急の仕事が発生してしまったからだ。そうは言っても、私も上司もダムの点検など、門外漢も良いところなのだが。

 それでも、そのときは疑問も持たず、ヘルメットを被りつなぎの作業服に身を包んで、ダムに続くトンネルを進んでいた。


 土が剥き出しになった簡素な造りのトンネルを進みながら、変な仕事が発生しましたね、と上司に告げた。すると、上司はどこか諦めたような表情で、いつものことだから、と力なく答えた。その回答に私も力なく同意の言葉を口にし、トンネルを更に進んでいった。

 

 それから、どれほどの距離を進んだろうか。

 視線の先には、微かに光が見えてきた。上司と私はどちらともなく足を速めて、出口と思われる光の方へ進んでいった。


 トンネルを抜け、辺りを見渡すと、そこは切り立った崖になっていた。


 頭上を見上げると、虹色の雲が広がる空が目に入り、崖の下を見下ろすと、瑠璃色の水を湛えたダム湖と灰色のダムが目に入った。思い返してみると、美しい風景だったのかもしれないが、そのときは他のことに気を取られていた。

 ダム湖の水が澄んでいたため、その中身が鮮明に見えていたからだ。


 シャチ、ザトウクジラなどの海獣。


 バシロサウルスなどの原クジラ。

 

 エラスモサウルスなどの首長竜。


 モササウルスや、イクチオサウルスなどもいたかもしれない。


 ともかく、そんな類の海生生物達が、ダム湖の中にひしめき合っていた。

 

 暫くは呆然と眺めていたが、上司が不意に、おかしくもなるよな、と感慨深そうに口にした。私も、ですよね、と曖昧に返事をし、またダム湖を眺めた。


 澄んだ水の中を窮屈そうに泳ぎ回る巨獣達を見ているうちに、当初の目的を忘れてしまいたくなった。

 しかし、思い直して、ダムの方へ目をやった。


 すると、ダムにはいつの間にか大きな亀裂が走っていた。


 慌てて上司に声を掛けようとしたが、時既に遅く、ダムは轟音を立てて決壊した。

 決壊した部分からは、瑠璃色の水が勢いよく飛び出していく。


 海生生物達もその流れに乗って、虹色の空へと飛び出していった。


 このまま落下しては、海生生物達が死んでしまう。そんな不安が、頭をよぎった。


 しかし、海生生物達は、ある者はヒレを動かしながら、またある者は身をくねらせながら、虹色の空を泳ぐように進んでいった。


 その姿をずっと見ていたかったが、悠長にしている場合ではなかった。

 点検をしてこい、と言われた矢先にダムが決壊したとあっては、社長からお叱りを受けることは請け合いだ。


「これから、どうしましょう?」


 空を泳いでいく海生生物達を見送りながら、恐る恐る上司に声を掛けてみた。すると、上司は意外にも呑気な表情を浮かべて、そうだなぁ、と呟いた。


「まあ、こうなったら、どうしようもないだろ。それに、よくあることだし」


 鷹揚な上司の言葉に、そうですか、と力なく答えた。すると、上司は、そうですよ、というまるで茶化すように言葉を返す。その口調に若干の苛立ちを感じたが、上司の言葉通り、決壊したダムを二人でどうにかできるはずも無い。

 私も社に戻った後の心配などやめて、再び海生生物達を眺めることに専念した。


 海生生物達が空を泳ぐ様子は悠然としていた。しかし、その姿からは同時に、力強さや、鋭さも感じた。

 また、仄かな恐ろしささえも。


 眺めているうちに、虹色の空を泳ぐ海生生物達の姿は段々と小さくなっていった。やがて、雲の濃淡に紛れ、完全に見えなくなった。

 

 私と上司はどちらともなく踵を返し、来た道を戻っていった。


 あの海生生物達が、どこに行ってしまったのかは、未だに分からない。


 ただ、狭いダム湖でひしめき合っている頃よりは、悠々と過ごしているのだろう。

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屋上のクジラ 鯨井イルカ @TanakaYoshio

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