第4話 帰れない坂道
その日は、丘の上から帰る途中だった。
仕事の帰りなのか、学校の帰りなのか、行楽の帰りだったのか、例に漏れず目的は覚えていない。
ただ、湿った風の吹く夜のことだったとは覚えている。
頭上を見上げると、濃紺色の空に白い星が疎らに散り、チラチラと瞬いていた。周囲に街灯が無いためか、細かな星までよく見えた。
雲一つ無い夜空を眺めながら、美しい光景だと感じた。ただし、次にしなくてはならないことを考えると、感慨に耽ってばかりもいられない。
空を見上げていた顔を降ろすと、目の前には雑木林に囲まれた坂道があった。
丘の勾配が急なためか、坂道は真っ直ぐではなく、つづら折りになっている。
曲がりくねった道の間には雑草が伸び放題になっていて、なんとも鬱蒼としている。それなのに、街灯は道がカーブになっている部分にしかない。
こんな夜中に一人歩くには、心細いことこの上ない道だった。できれば、他の道を行きたいが、丘の上から家に帰るためには、この道を通るしか無かった。
気は進まないが、他に道は無い。
歩き始めると、周囲からガサガサという音が聞こえ始めた。木々や雑草が風に揺られている音だとは分かっているが、明かりの少ないこの状況では酷く不安を感じる。
思い切って、全速力で駆け抜けてしまおうかとも思った。しかし、道はアスファルトで舗装されてはいるが、凹凸やヒビが至る所にできている。足下が暗い状況では、間違い無く転んでしまうだろう。
ならば、このまま歩いていくしか無い。
慎重に進んでいくうちに、一つ目のカーブにさしかかった。
何気なく足を止めて街灯を見上げると、悍ましいほど無数の蛾や甲虫が群がっていた。そのため、私はすぐに街灯を見上げたことを後悔しながら、足下に視線を落とした。
これだけ木々や草に囲まれているのだから、地面にもそれなりに蟲はいたのだろう。しかし、幸いなことにデコボコとしたアスファルトの地面以外は目に入らなかった。
私はため息を吐くと、顔を正面に向けて再び歩きだした。
それから、ぼんやりと歩いているうちに、これから帰らなくてはいけない家のことが頭に浮かんだ。
その家は、小さな平屋だが、なぜかやたらと庭が広かった。
庭には、鉄棒やら砂場やら、箱形のブランコやらがあり、幼い頃は公園に出掛けなくても、不自由なく遊ぶことができた。
その他に、松と柑橘類の木に囲まれた小さな池もあり、巨大化した金魚たちが泳いでいたことを覚えている。
また、春には桜が咲き誇り、初夏には藤棚の藤が見事な花を咲かせ……
花が散ると庭中に大量の毛虫が発生する。
思い返してみると、そんな訳の分からない家など存在していなかったのではないか、と懐疑的になる。
しかし、藤棚を這うチャドクガの列や、葉桜から舞い降りるアメリカシロヒトリの姿や、松からあふれ出たマツカレハが家の外壁を這う姿などは鮮明に覚えている。そのため、あの家は確実に存在していたのだろう。
回想しているうちに、坂道の中腹までさしかかった。
もう少しで坂道も終わるが、心なしか、カーブを曲がるごとに道の状態が悪くなっている気がする。足を止め坂の続きを見下ろしてみると、先の道には大きな陥没や地割れのようなものができていた。避けて通れない程ではないが、この暗い中で進むのは難儀しそうだ。
いっそのこと、このまま夜が明けるのを待ってしまおうか。
そんなことを考えた矢先、突如として眩しさを怯えた。
目をこらしながら光が差してきた方向に顔を向けると、坂道の最上段に懐中電灯を持った人影を確認できた。
私の他にも、こんな時間に帰宅する者がいるとは意外なものだ。
そう思いながら、人影を眺めていたが、すぐに背筋が冷えていくのを感じた。
その人影が、刃物を握っていたからだ。
しかも、切っ先をこちらに向けている。
捕まったら、切りつけられて所持品を全て持って行かれるかもしれない。
我ながらさもしい怖がり方だとは思ったが、自嘲している場合ではない。
私は道が険しいことも忘れ、坂を駆け下りた。
案の定、凸凹としたアスファルトに足を取られ、大きな穴や地割れに落ちそうになった。
アスファルトを突き破る木の根に躓いて転んだときは、もうダメだ、とさえ思った。
しかし、擦り傷や打撲を作りながらも、なんとか無事に坂道を下りきることができた。
息を整えながら辺りを見渡すと、街灯の多い住宅街に辿り着いていた。
窓から明かりの漏れる家も目に入る。
ここならば、あの人影も手出しはしてこないだろう。そう思いながら深くため息を吐き、家までの残りの道を歩きだそうとした。
しかし、そこで思い出してしまった。
帰らなくてはいけない家など、既になくなってしまっていたことを。
もう随分と昔に、家屋は潰され、木々は切り倒され、池は埋められてしまった。
幸いなことに、他の場所に住むことはできたが、ここからはバスと電車を乗り継がないと辿り着くことができない。この時間なら、バスや電車の最終便は既に終わっているだろう……ということは、まだ歩かなくてはいけないのか。
私は再びため息を吐き、重い足を踏み出した。
その後の道中に何があったかは覚えていないが、住処に辿り着いたようには覚えている。
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