第3話 水槽のクジラ

 その日は、丘の上にある遊園地に来ていた。

 立体的なエレベーターを有するホテルがある街と、同じ街にある遊園地だったように覚えている。

 しかし、家族で遊びに来ていたのか、友人達と来ていたのかは忘れてしまった。

 

 そんな遊園地の中で、気がつけば私は一人になっていた。

 同行者を探そうと思い辺りを見渡しても、誰一人目に入らない。同行者の姿だけでなく、他の来場者の姿さえも見当たらなかった。夕焼けに包まれ園内では、古びた遊具達が橙色に染まり、今にも停止しそうな速度で動いているだけだった。もうすぐ、閉園の時間が来てしまうのかもしれない。


 ならば、急がないといけない。

 そう思い、ゆったりと動く遊具達を横目に、私は走りだした。

 

 息を切らして園内を駆け抜けると、私は目的の場所まで辿り着いた。足を止めて呼吸を整える。

 

 目の前には、白と水色の縞模様をしたテントが立っている。


 一見すると、サーカスのテントのように見えるが、そうではない。

 その証拠に、珊瑚や魚達が描かれた看板が掲げられている。


 看板の文字は歪んでいたため読むことはできないが、ここはたしかに水族館なのだ。

 

 周りの遊具など、おまけに過ぎない。そう思うほど、私はこの水族館が好きだった。

 

 はやる気持ちを抑え、黒いもやのような受付にチケットを見せ、水族館の中へ足を踏み入れる。

 館内は外見に反して、床も壁も天井も全てコンクリート製だった。薄暗い通路の両脇には、控えめな照明で照らされた水槽が設けられている。お目当ての物とは違うが、この展示も充分に興味深いものだ。


 水槽には、鎧のような鱗を持つ魚や、足の生えた魚など他では見られない魚が展示されている。


 物珍しさに心を躍らせることも多いが、他の客がいない中で眺めると空恐ろしい気もする。しかし、ここで足を竦めてはいられない。


 目的の展示は、もっと奥にあるのだから。


 奇妙な魚達を眺めながら暗い通路を進むと、円形の広間に辿り着いた。広間は深い青色の照明に照らされ、周囲を巨大な水槽に囲まれている。

 その水槽は、高さもさることながら、奥行きが鴻大だった。水槽の奥に行くほど水は暗くなっていき、最奥は暗闇に包まれ何も見えない。何度か、水槽の果てを見つけようとしたことはあったが、ついぞ成功したことはない。


 私はそんな水槽に近づくと、アクリルに両手をついて中を覗き込んだ。

 しかし、重苦しい水の中には、何の動きも無かった。


 水槽の主は、今日は留守なのかもしれない。


 今までも何度かそういうことがあったため、会えないということも覚悟していた。

 

 仕方が無い、諦めて今日はもう帰ろう。

 ただ、少しだけ残念ではあるが。


 そう考え、名残惜しさを感じながらも、私は水槽から手を放そうとした。

 

 そのとき、水槽の奥が微かに揺らいだ。

 

 咄嗟に、私は水槽に額がつくほど顔を近づけた。

 暗い水の奥に、微かに灰色の影が見える。


 初めはぼんやりとした輪郭をしていた影は、こちらに近づくに連れて明確な形を作っていく。


 

 鈍い光沢のある灰色の肌。


 口元の尖った顔。


 乱雑に並ぶ鋭く尖った歯。


 体に対して小ぶりな胸びれ。


 一見すると、イルカにも似ているが、その大きさはイルカの五倍以上はある。

 この水族館には、まともに読むことができる案内板が無いため、正確な正体は分からない。


 それでも、私はこの水槽の主をバシロサウルスだと確信している。


 近づいて来たバシロサウルスは、暫く私と向かいあってから横を向いた。

 そして、長い体をくねらせながら、円形の水槽を泳ぎ回った。

 暗い水の中に、白い泡沫が消える間もなく次々と生まれていく。 

 私はその姿を夢中で眺めていた。


 もしも、この瞬間に水槽が砕けてしまえば、私は溺れてしまうか、バシロサウルスに食べられてしまうのだろう。

 そう考えると、背筋がざわつき、耳鳴りがするほど恐ろしかった。


 それでも、尖った歯の並ぶ細い顔、二十メートルはあろう長い体、それらが鈍く灰色に光る様子は美しいと思った。その巨獣が泳ぐ、暗い水を湛えた水槽も。

 

 だから、広間から逃げ出すことも無く、その姿をずっと眺めていた。

 

 円形の水槽の中を数十週ほど泳ぐと、バシロサウルスは動きを止めた。そして、そのまま微動だにせずに、暗い水の中に浮かんでいた。


 どのくらいの時間そうしていたかは定かではない、ただ非常に長い時間だったように覚えている。

 

 このままでは、帰宅するのが遅くなってしまう。

 また、あのホテルにでも泊まろうか。 

 

 そんなことを考えていると、不意にバシロサウルスが方向を変え、水槽の奥に顔を向けた。

 そして、こちらに振り返ること無く、長い体をくねらせながら、暗闇の中へと消えていった。

 

 バシロサウルスの完全に姿が見えなくなると、広間には淋しげな音楽が流れ出した。

 きっと、もう閉園時間になったのだろう。ならば、もうここを出なくてはいけない。


 この場所は気に入っているが、一人取り残されるには恐ろしすぎる。 


 出口までの道のりは、真っ直ぐな一本道だったように覚えている。

 途中、ペンギンの展示もあった気がするが、記憶が曖昧なため、本当にこの水族館で見たものかどうかは定かではない。ともあれ、私は迷うこと無く水族館の出口に辿り着いた。


 外に出ると、日はスッカリと落ち、周囲の遊具が見えなくなるくらいの闇に包まれていた。


 この中を進んで帰宅しなくてはいけないのか、そう思い、自然とため息がこぼれていたことは覚えている。

 

 しかし、どのように進んで家に辿り着いたのか、そもそも無事に家に辿り着くことができたのかまでは、未だに思い出すことができていない。

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