第2話  立体的なエレベーター

 その日は、丘の上にある繁華街に来ていた。

 映画を見に来たのだったか、買い物に来たのだったか、仕事だったのか、通院だったのか、またしても目的はよく覚えていない。しかし、酷く疲れていたことだけは覚えている。


 ともかく、その丘の上にある繁華街は、帰宅するのに一時間も掛からないような近所の街ではあった。しかし、その時間すら億劫になり、近くのホテルに泊まることに決めた。


 何しろ、この街のホテルには楽しみにしているものがあるし、丁度良い。


 そんなことを考えながら、私は疲れていたことも忘れて意気揚々とホテルに向かった。

 

 少し歩くと、目的のホテルに辿り着いた。

 亜麻色の壁に灰色の窓が点々とついている建物。一見すると、張りぼてのようですらある。

 はじめて見たときは、あまりにものっぺりとした見た目に、足を踏み入れることを躊躇った。しかし、何度か宿泊するうちに、その外観にも慣れた。


 それに、あれはこのホテルにしか無いため、他の宿を探すという選択肢は浮かばない。


 浮かれながら入り口の自動扉をくぐり、ホテルの内部へと足を踏み入れた。

 蘇芳色を基調としたロビーに入り、受け付けを済ませ、ルームキーを受け取ってエレベーターに向かう。エレベーターの扉の前に立つと、私の胸はいよいよ高鳴った。

 やがてエレベーターはロビーに辿り着き、扉がゆっくりと開いた。私は鼻歌交じりに足を踏み入れた。


 エレベーターの内部は、扉と床以外は全てガラス製になっていて、扉の横には操作パネルの代わりに窪みがついている。

 先ほど受け取ったルームキーを窪みに差し込むと、エレベーターの扉はゆっくりと閉じた。そして、部屋のある階を目指して上昇を始める。目的の階に辿り着くと、ポーン、という電子音が響いた。


 そして、エレベーターは水平方向に移動を始めた。

 この瞬間が楽しみで、このホテルに宿泊している。

 

 何のことは無い、エレベーターが横に移動しているだけだ。それでも、当時の私にとって、そのことがやけに楽しかった。


「立体的なエレベーター」という、呼称を勝手につけるほどには、このエレベーターを気に入っていた。

 

 今思えば、エレベーターが立体的なのは当たり前のことなのかもしれないが。


 ともかく、水平方向への移動を楽しんでいるうちに、再び電子音が鳴り響き、エレベーターは動きを止めた。扉が開くと、そこには宿泊する部屋が広がっている。

 テーブルクロスの掛かったテーブル、一人掛けのソファー、簡素な机とシングルベッド。

 風変わりなエレベーターとは対照的に、部屋の中は一般的なビジネスホテルと大差なかった。それでも、一夜を過ごすだけならば、充分なものだろう。

 楽しい時間はすぐに終わってしまうな、などと感傷的な気分に浸りながらも、私はルームキーを引き抜いて部屋に入った。部屋に入ると、エレベーターはすぐに扉を閉じて、他の宿泊客のもとへ向かっていった。


 それから、暫くはソファーに腰掛け、ぼんやりと窓を眺めていた。窓の外にはもやに包まれた繁華街が広がっている。

 街の中にいたときは気がつかなかったが、見下ろしてみるとどこか寂れている、という印象を受けた。

 そのとき、酷く喉が渇いていることに気がついた。

 窓の外を眺めながら、ロビーに自動販売機があったはずだから何か買ってこよう、とぼんやりと考えた。

 洗面所の蛇口を捻れば、飲用水が出てくるということは知っていた。しかし、ロビーへ向かえば、再びエレベーターに乗ることができる。エレベーターに乗るための口実を見つけた私は、意気揚々と立ち上がった。そして、財布とルームキーを手に取り、エレベーターの扉の前に向かった。


 ロビー行きのボタンを押すと、すぐさまエレベーターの扉が開いた。乗り込むと、ゆっくりと扉が閉じ、水平方向への移動が始まった。


 上りの場合はルームキーを挿す必要があったが、下りの場合はロビー以外の到着点が無いため、何かをする必要は無い。手持ち無沙汰になった私は、ただぼんやりとガラスの外を眺めていた。


 部屋の窓からはもやに包まれた街が見えたが、こちら側には萌黄色の草原が広がっている。


 草原は、地平線が見える程だった。


 この草原はどこまで続いているのだろうと考えていると、電子音が響き、垂直方向への移動が始まった。


 水平方向への移動が先だと、面白みが半減してしまう気がする。

 それでも、ロビーから部屋に戻るには、もう一度このエレベーターに載ることができるのだから構わないか。

 そう考えながら段々と近づいてくる草原を眺めているうちに、違和感を覚えた。


 エレベーターがカタカタと小刻みに震えている。


 まさか落下してしまうのだろうか?


 私は俄に不安を覚えたが、エレベーターは震えながらも無事に一階に辿り着いた。


 しかし、安心した瞬間、足下がぐらぐらと揺れだし、私は思わず目をつぶり、頭を抱えてしゃがみ込んだ。


 すると、ガシャンという音が耳に入った。


 恐る恐る目を開けて立ち上がると、私はエレベーターに入ったまま、草原を進んでいた。


 驚いて内部を探したが、外部への連絡ボタンはおろか、先ほどまであったはずの扉さえなくなり、床以外の部分はスッカリとガラス板に囲まれている。

 もはや、エレベーターというよりも、ガラスの箱といったほうが正しい形相になってしまった。 


 どうしたものかと悩んでいる間にも、ガラスの箱は凄まじい速度で進んでいく。

 

 それから、ガラスの箱は時折速度を上げたりカーブをしたりしながら進み、私の目には立ち枯れの木やトタン屋根の小屋などが近づいては遠ざかっていく様子が映った。


 なるほど、思ったよりも広い草原だ。


 どうしようも無くなった私は、土埃を巻き上げながら進むガラスの箱の内で、そんな呑気なことを考えていた。

 

 どこに辿り着くのかはよく分からないが、建物の中で縦と横だけに動いているよりは面白いだろう。

 

 その後、ガラスの箱がどこで止まったのかは、いまだに思い出せていない。

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