屋上のクジラ

鯨井イルカ

第1話 屋上のクジラ

 何故だかは忘れたが、その日は立体駐車場の中にいた。

 軽自動車の助手席に座り、長い螺旋状のスロープを上っていたように思う。しかし、どの階も満車を表す赤いランプが点灯していた。


 初めのうちは大人しく座っていたが、延々と続く灰色の壁や天井に、段々と飽きてきた。そこで、あとどれくらい登るの、と運転する母に尋ねようと顔を向けた。しかし、不機嫌そうな表情が目に入り、正面に向き直った。この状況で声を掛けては、口論になってしまうに違いない。

 それから、また螺旋状のスロープを上ったが、相変わらず赤いランプがともる階ばかりだった。


 空車を表す緑色のランプに出会えたのは、屋上階の入り口だった。

 これで漸く灰色の視界と、不機嫌そうな母の顔から解放される。そう考えていると、視界に眩しい光があふれ、思わず目を閉じた。


 目を開くと、いつの間にか車を降りていた。

 

 頭上には紺青色の空が広がり、足下にはヒビが入り雑草が生えたコンクリートが広がっている。


 急に風景が変わったことに不安を覚えて辺りを見渡したが、他の階の満車が嘘のように、車は一台も見当たらない。


 それどころか、車を運転していた母の姿も見当たらない。


 私は着ていたワンピースの裾を握りしめながら、必死に辺りを見渡した。それでも、目に入るのは相変わらず青い空とひび割れのあるコンクリートの床のみで、母は見つからなかった。

 

 私は途方に暮れながら、異様に広い屋上駐車場を歩き回った。

 どれほど歩いたかは忘れたが、気がつくと屋上の縁に到達していた。そこには、背丈と同じくらいの高さの柵が設けられていた。策に手を掛けて下を覗き込むと、周辺の様子が目に入った。


 萌黄色の草原に、雑居ビルのような建物が点在している。


 眼下に広がっていたのは、サバンナと古い繁華街を雑に組み合わせたような景色だった。今思えば異様な景色だが、そのときは疑問を持たずに、ただその景色を眺めていた。

 すると、雑居ビルの一つに視線が向いた。

 そのビルの屋上だけ、他のビルとは様子が違ったからだ。


 ひび割れた灰色の床の上に、錆びた檻が設けられている。


 檻の中には、瑠璃色の水を湛えた小さなプールが一つ。


 プールの中には、紺青色をしたクジラが一頭。

 詳しい種類は分からなかったが、ザトウクジラに似ていたと記憶している。


 そんな光景が、遠眼鏡を持っていたわけでもないのに、鮮明に見えた。

 

 暫くの間は、母のことも忘れて、屋上の様子を眺めていた。その間、クジラは飛び跳ねることも泳ぎ回ることも無かった。

 あまりにも変化の無い光景のため、クジラは死んでしまっているのかもしれないと思った。しかし、時折水面から顔を出し、暫しそのままの体勢でじっと佇み、ゆっくりと水中に顔を戻したりもしていた。だから、多分、生きてはいたのだろう。

 

「何をしているの」


 不意に、背後から声が聞こえた。

 振り返ると、母が疲れた表情を浮かべて立っていた。

 私は左手で母に手招きをして、見ていた光景を説明しながら、右手でクジラのいる屋上を指さした。すると、母は小さくため息を吐いた。


「ああ、あそこには水族館があるからね。それよりも、早く行くわよ」


 母は煩わしそうにそう言うと、踵を返して歩きだした。

 名残惜しさは感じたが、また一人きりになってしまってはかなわない。そう思い、振り返らずに進む母親の後を追った。

 母に追いついた私は、あの水族館に行ってみたい、とねだってみた。しかし、母からは、後でね、という気のない返事しかもらえなかった。

 その後のことはよく覚えていないが、あの水族館には行けなかったことだけは覚えている。

 

 その日から、随分と月日は過ぎた。その中で、あの屋上よりも大きくて華やかな水族館には、何度か足を運んだ。

 ザトウクジラの実物を見たことはまだ無いが、小型のクジラやシャチやイルカといった海獣達のショーもそれなりに見てきた。


 それでも、ひび割れたコンクリートの屋上に取り残されたクジラの姿を不意に思い出すことがある。


 しかし、クジラのいた屋上はおろか、やけに背の高い立体駐車場にすら、未だに辿り着けずにいる。

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