気持ちを言葉にするということ

「自分の言葉に責任を持て」と、父は言った。

「自分の気持ちを伝える術を忘れないで」と、母は言った。



 休日なんかに家で引きこもっていると、二、三日ほど何も喋らないことが多々ある。


 プログラマになって三年。日本語よりもアセンブリ言語を読む時間の方が多くなった。私の会社ではワークライフバランスの推進とかいって、職場での業務を減らし、自宅での作業をしてもいいことになっている。

 そうなれば当然、家で作業をすることが多くなる。


 もともと口が上手な方ではない。学生時代も、誰かとわいわい楽しくやるよりも一人で小説を読んだりとか、パソコンでアプリを作ったりする方が好きだった。

 にしても、今の仕事を始めてから出不精でぶしょうに拍車がかかったように思う。休日は用がない限り家から出ないし、買い物もネット通販で済ませるようになった。こうなれば、ますます誰とも話さない。発信する内容もないからSNSも登録しただけのまま。自分のことを表現する機会がなくなった。



 先日、久しぶりに職場に行った際、同僚ともめた。

 私が休み時間中に文庫本を読んでいると、「なにかっこつけてんの」と非難されたのだ。


 その人は西野さんという名前で、私よりも一つ年上で、とても気の利く人付き合いの上手な人だった。ショートカットで、行動が早くて、口も上手で、表情豊かで、彼女の周りにはいつも人が多く集まっていた。


「いつもそうだよね。休憩時間になると黙ってひとり本読んでさ。わざわざ分厚い本をこんな職場に持ってきて。どうせ、本読んでる自分がかっこいいと思ってるんでしょ。人よりもインテリっぽくてさ、賢いって思って悦に入ってるんでしょ」


 いきなりかけられた言葉に対して、私は何も言えなかった。


 かっこつけている、という自覚が全くなかったから、「そんなことはない」と否定できるのかどうか、分からなかったのだ。


 ――悦に浸っているだけでしょ。


「あ、……えと、」


 西野さんの言葉は、休憩室に響き渡っていたから、みんなの視線が、私のもとに集まっていた。


「えと、」


 みられている、という事実に意識が強く向いた。そのあと、言葉が詰まっている自分自身に、意識が強く向いた。上手に話したいのだけれど、自分のことを表現する機会がなくなってしまった私には、言葉が見つからない。


「……その、」


 ——自分の言葉に責任を持て。


 テンパっていた。テンパっていたし、テンパっている自分が恥ずかしくてたまらなかった。みんながこちらをみている。テンパっている私を見ている。ごまかさなければいけない。何か、何かを話さなければ。なんでもいいから、言葉を出さなければ。


「……」


 耳が暑かった。顔が赤くなっているのが、わかった。

 こうなれば、もう、ダメなのだ。


  * * *



 言葉は、難しい。

 難しく考えようとするから、そう思うのは当然なのだけれど。


 あの日以降、私は素直に読書ができていない。

 本を読んでいても、本を読んでいる自分のことに意識が向いて、本の内容に集中できない。気にしないようにしようと思って、職場に行く際はいつも通り本を持っていくのだけれど、休憩時間中にカバンから本を取り出すことができなくなった。


 格好つけている、という言葉が、頭から離れない。


 そんなわけない、という気持ちと、もしかしたらそうなのかもしれない、という気持ちが、右へ左へ揺れ動いて、落ち着かない。


 はたから見たら、私の行動は気取っているように見えたかもしれない。

 誰かと仲良くなろうという努力をせず、意思疎通を放棄して読書にふける私は、他人からしたら、近寄りがたくて感じの悪い奴に見えたのかもしれない。ただ、


 ——悦に浸っているだけでしょ。


 そんなつもりは、なかったのだ。

 だけど、そんなつもりはなかったと言えない自分が、情けなくて、恥ずかしくて、嫌になる。


 西野さんは、私に対して、思っていることを素直に伝えてくれた。

 私には、それができない。


 ——自分の言葉に責任を持て。


 スマホを手に取って、ラインを開く。

 職場のグループラインから、西野さんのアカウントを開く。「この間は、すみませんでした」と打ち込む。けれど、送信ボタンが押せない。私が伝えたいことは、そんなことでは、ないのだ。


 結局メッセージを消して、私はベッドに倒れこんだ。


「……もういや」


 私が何を話したかなんて、誰も気にしないのに。

 そんなこと、分かっているのに。


 ツイッターやラインで、私が書き込む内容なんて、誰も気にしない。何分も悩んで、送信ボタンを押す前に何度も文章を読み返して、その間に、「この表現ってあってるのかな」なんて思って、修正して、その修正にもさらに修正を加えて、結局正解がわからなくなって、疲れて、「やっぱり黙っておこう」と発言を止めてしまう。


 なにをやっているのだろう、と思う。


 私の発言なんて、誰も気に留めないのに。

 私が、他の誰かの発言を気に留めていないように。


 すっと言葉が出てくる人が、羨ましくて仕方ない。

 私が、ツイッターで一回のつぶやきに費やす時間の間、10も20もつぶやく人がいる。グループラインで、私がどう発言しようか考えている間に次々発言して、ころころ話を進めていく人がいる。そんなふうに、上手にコミュニケーションを取る人が、世の中にはいるのだ。


 ——自分の気持ちを伝える術を忘れないで。


 思ったことを、すっと発言できたらいいなと思う。

 たとえそのあと、損をしたとしても。


 嫌われることが怖いという、傷つくのが怖いという、自分可愛さで、発言することをやめてしまう今の自分を、もう、やめたい。


 所詮、私が発進した言葉が届く範囲というのは、しれている。

 それなら、嫌われるの覚悟で、自分の考えを発信したらいいに決まっているのだ。そっちのほうが、徳なのだ。


  * * *


「あの」


 昼休み。私は食堂に向かおうとする西野さんを呼び止めた。


「この間は、すみません。その、私の行動で不愉快にさせてしまったのなら、すみません。自覚はないですけど、心のどこかで、本を読んでいる自分を素敵だと思っているのかもしれません。それは否定しません。すみません。ただ、読書って、ほんとうに面白いんです。漫画とか、映画とは違う良さが、あるんです。言葉だけでしか表せない表現というのが、あるんです」


 突然話し始めた私を、西野さんが気味悪そうに見ている。

 周りの人も、普段無口な私が話しているのを見ている。

 でも、私は話すのをやめない。


「登場人物が思っていることや、感じていることを、一つ一つ、すぐ横で寄り添うようにして、言葉で情景を想像するのが、とても心地いいんです。私がこれまで考えていたことを代弁してくれていたり、これまで体験したことのないような気持ちが発見できたりして、そんなときは心が震えるくらい嬉しいんです。楽しいんです、とても。本を読むことで、誰かよりも優位に立ちたいとか、賢く見せたいとか、そういうことではなくて、純粋に好きなんです。スポーツすることが好きな人がいたり、楽器を演奏するのが好きな人がいたり、誰かと話をするのが好きな人がいるように、純粋に、本を読むことが好きなんです」


 息を吸う。


「言葉でしか伝わらないことが、あるんです。言葉のテンポやリズムに身を任せて、私の想像の中で情景を思い浮かべることが楽しくて仕方がないんです。いつも黙り込んで、皆さんの輪を乱すようなことをしてしまってすみません。不愉快な思いをさせてしまったのはすみません。でも、読書は楽しいんです。かっこつけてるだけじゃないって、分かって下さい」


 しんと、職場が静まりかえった。

 息が詰まるほど、静かだった。時間を止めたかと思うほど、誰も物音を立てなかった。


 静寂の中、最初に動いたのは、西野さんだった。


「なに、急に。この間のこと、そんなに気にしていたの?」

「してました。どう伝えればいいだろうって、ずっと考えてました」

「そういえば最近、職場で本読んでないよね」

「どう伝えればいいか、そればっかり考えて本が読めませんでした」


 卓球のラリーを返すように、思っていることを瞬時に言葉にする。返答を考え込んで、動きを止めてしまったら、もうラリーを続けることができないと思った。


「本読んでる自分のことが好きじゃないの?」

「どんな本でも面白いと思える自分のことは好きです。それは、100メートルを速く走れる自分が好きとか、ピアノが上手に弾ける自分が好きと同じタイプの好きです。好きなことを思い切り満喫できる自分でよかったと思えるから好きなんです」

「私たちのことを見下してるんじゃないの?」

「見下してません。むしろ、皆さんお話しが上手で、うらやましいってずっと思ってました」


 ふうん、と西野さんが呟いた。


「じゃあ、その楽しいって本を、読ませてよ」

「――え?」

「私にも、その言葉の楽しさを教えてよ。あなたのおすすめの本、なに?」


 歩み寄ってくれている。

 西野さんが、私に歩み寄ってくれている。


 ――自分の気持ちを伝える術を忘れないで。


 私はカバンを開いた。何度も何度も読んで、私の手垢まみれになってしまった大好きな本。最近は人の目を気にして、人前で読むことができなかったのだけれど、職場に来る際はいつもカバンに詰めていたのだ。


「えっと、私が一番好きな本は、」

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フィクションに逃げ込みたい 鶴丸ひろ @hiro2600

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