サクラチル

 桜が咲いている。

 私ではない、他の誰かを祝うために。


 三月。合格発表の日の大学は穏やかな春の到来を感じさせるような温かい日差しが降り注いでいる。合格者の受験番号が張り出されたボードの前は当然ように受験生であふれていて、一年間の努力の結晶が実を結んだのかどうか、人生を大きく左右するその判決を一人一人が噛み締めている。土曜日だというのに現役生は律儀に学生服を着ていて、高校のブレザーを着ている私もまた、その大多数の一人としてその場に立ち尽くしている。私のすぐ横にいた女子が友人と泣きながら抱き合い、後ろから、よっしゃあ、と男子の野太い声が響いた。遠くからラグビー部が胴上げしている声が聞こえる。狂喜の声が響き渡るその会場の真ん前で、私は声一つあげることせず、突っ立っている。


 無意識に力が入った右手の中で、受験票がぐしゃりと音を立てた。


 あのボードの中に、私の番号は必ずあると信じていた。


 あるはずなのだ。


「……いやだ」


 ぽろっと、口から出てくる。事実を認めたくない。認めたくないけれど、でも現実は残酷なほど平然と私の前にそびえ立っている。現実が、認めろと迫ってくる。頭ではその事実を拒否しようとするけれど、どれだけ拒否しても、だんだん実態となって私の体にじんわりと染み込んでくる。腹の底にドロっとした冷たさを覚える。目頭が熱くなる。


 もう一度、右手の中でくしゃくしゃになった受験票を見る。「2024」。何度も見た私の受験番号。


 顔を上げ、4度目の確認をする。張り出された受験番号の「2022」と「2028」の間の空白を、じっと見つめる。見つめて、見つめ続けて、そしてもう、逃げられない事実を頭が理解して、突きつけられている現実を受け入れるしかなくなる。


 横隔膜が痙攣する。


 嗚咽が漏れる。


「——うっ」



 落ちた。



 きびすを返す。次から次へとやってくる受験生の強ばった表情をかき分け、ラグビー部の「万歳」を聞こえないように耳をふさぎ、足早に校門を目指す。一分でも、一秒でも早く、この大学の敷地から離れたい。合否なんて、ネットですぐに確認できるのに、わざわざこんな家からほど遠いこのキャンパスまで始発電車に乗って来た自分が愚かで浅はかで恨めしい。


 校門の前で記念撮影をする親子がいる。その写真に縁起の悪い私が映り込まないよう、顔を髪の毛で隠し、足元を見つめて歩く。地面にピンク色の花びらが散っている。視界が滲む。


 桜が咲いている。

 私ではない、他の誰かを祝うために。






 桜の花びらから逃れるように歩き続け、気がつけば、私は湖岸沿いの小さな公園のベンチに腰掛けていた。


 土曜日だというのに、私以外には公園には誰もいない。春に差し掛かっているのに、周囲は真冬のような静けさで心が押しつぶされそうになる。走馬燈のように、これまでの受験生活がフラッシュバックする。


 これまで勉強してきたこの一年間は、いったいなんだったのだろう。なんのために、私はこんなことをやってきたのだろう。やりたいことを我慢した。友達が遊んでいるのを尻目に必死に単語を頭に詰め込んで、大嫌いな数学を泣きながら勉強した。青春らしい青春をまったくしなかった。それでも、目標があって、そこにたどり着けるのであれば頑張れた。


 だけど、志望校に落ちた。


 努力は目標を達成して初めて成り立つ。達成できなかった努力は、私がどれだけ「頑張った」と言っても、していないのと同じ。


 結果が全てのこの世界で、結果が残せなかった私は、結果を残そうとしなかった人と何も違わない。


 こんなことなら、最後の高校生活、恋愛の一つや二つ、惚れた腫れたとかやっておけば良かった。友達と声が嗄れるほどカラオケに行けば良かった。クラスメイトたちと、かけがえのない青春の思い出をつくれば良かった。そっちの方が、何倍も有意義な日々を送れたはずだ。


 私には、何も残らない。想い出も、努力も。


 結局ハッピーエンドを迎えるのはほんの一握りだけで、その勝者たちの影には、私のような敗者が山ほどいるのだ。合格発表の場所で、友人と抱き合っていた女の子の顔が浮かぶ。彼女は選ばれた。私は選ばれなかった。


 私も、そっち側に行きたかった。


 私は、そっち側にいけるって思っていた。


 ——あなただったら大丈夫。胸張って行ってきなさい。


 二次試験の日、わざわざ大学まで送ってくれた母がそう背中を押してくれた。


 ——絶対にみんなで合格しようね。


 友人とそう固く約束した。


 親に会うのが怖い。友達に会うのが怖い。気を遣わせるのが怖い。どんな顔で皆は私を見るんだろう。きっと、眉間に皺を寄せて、悲しそうな顔を作って、必死に励まそうとしてくれるだろう。その優しさが、私には耐えられない。見たくない。皆と一緒に、喜び合いたかった。水を差すようなことを、したくなかった。


 一緒に喜びたかった。


 そっち側に、私も行きたかった。


「ふう、——うぅぅ」


 ゴールを迎えたとき、きっとハッピーエンドになるって、私は信じていた。


「うぅぅ」


 私だったら、できるって思っていた。ときどき不安になることもあったけど、その都度、私なら大丈夫って言い聞かせてきた。


 だけど、大丈夫じゃなかった現実が、いまこうして目の前に突きつけられている。


 あなたの努力は、うちの大学にはふさわしくありませんと、拒絶されたという事実が、ここにある。


「うぅぅ」


 もう、逃げ出したかった。

 目標を達成できなかった自分から。

 こんな自分で歩まなきゃいけない、この先の人生という暗いトンネルから。


「……助けて」


 助けて。助けて。

 だれか、私を助けて欲しい。私以外の誰かに、救いの言葉をかけて欲しい。今の私を、私以外の誰かに、肯定して欲しい。


 こんな私で、このさきの人生を歩み続けて、そこに希望はあるのだろうか。


 これまで、くじけそうになったときは、何とかして自分で奮い立たせてきた。自分に負けずに頑張れば、きっと未来は認めてくれるって、必死に自分に言い聞かせてきた。


 だけど、今の私にはもう無理。「失敗するかも」は「失敗した」という客観的事実となって私の目の前に突っ立っている。私が私を慰めるために使う言葉が、根拠のない無責任なものであるということを、知ってしまった。もう、私のことを信じられない。お前には無理だよって、私が私自身に対して思ってしまう。チクチクと、針を突き立てられるような痛みが私の心を蝕んでいく。


 誰かに、未来は明るいって、教えて欲しい。夢を叶えることができず、たった一回の失敗でふさぎ込んでしまうような私でも、生きていたら良いことあるって、希望のある言葉をかけて欲しい。受験の失敗なんか気にしなくたって良いって、長い人生のほんの小さな失敗に過ぎないって、言って欲しい。自分で言い聞かせようとしても、受け入れられないから。私の言葉は、私を裏切るから。


 今の私には、分からない。


 多分、十年後の私が今の私を見たら、まだまだ道は開けていると思うのかもしれない。でも、今の私には見当付かない。


 勝者の人たちに対して、一方的な嫉妬と劣等感を感じながら生き続ける未来が、果たして本当に明るい未来になるのだろうか。本当に、受験の失敗は些細なものなのだろうか。


 ざあ、と風が吹いた。


 ベンチに座って頭を垂れる私の視界の中に、桜の花びらが一枚、ひらりと舞い降りた。少しの濁りもないその花びらはとてつもなく美しくて、それが悲しくて、つま先で踏みつぶす。泣きすぎて疲れた私の瞳には、あざやかなその色が眩しくて堪らなかった。

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