地獄で咲いた百合の花

藤田大腸

地獄で咲いた百合の花

 株式会社インヴィンシブルの合宿形式での新人社員研修は、生き地獄という言葉では片付けられないものだった。


 朝の五時に叩き起こされ、一時間もかけて合宿所の清掃。この時点ですでにおかしいけれど、これはほんの地獄の入り口に過ぎない。


 わずかな朝食時間の後、私たち研修生は穴を掘る。


……何を言っているのかわからないと思うけど、実際に穴を掘るのだ。


 制限時間内に規定の深さと広さの穴を掘る必要があり、できなければ何と昼食が抜かれてしまう。たとえ刑務所でもこんな仕打ちをすれば人権問題になるような扱いを平気でやる。


 午後からはもっと狂気度が増す。何十キロもある土のうをかついで何十キロも歩かされて、これも規定のタイムをクリアできなければ夕食抜き。


 夕食の後は就寝時間までぶっ通しで社長の書いた本『気合と根性は道理に勝る』を元に座学が行われる。ちなみに就寝時間は午前二時。


……ウソを言うなって怒られるかもしれないけれど、これはまぎれもないいち中小企業の研修なのだ。ちなみにインヴィンシブル無敵なんて大層な名前をつけているけれど、業務内容は健康食品の卸売業。バカみたい。


 何でこんな会社に入社してしまったのかというと、ど田舎の実家住まいに嫌気がさして、絶対に東京で就職してやるという気持ちにはやってなりふり構わず就活していたからだ。そうしてこのインヴィンシブルに引っかかって、簡単な面接一回だけで内定を貰ったけれど、この裏を読み取る頭が私にはなかった。


 体力だけは自信があったから、研修にはかろうじてついてこれた。だけど中日、この日だけは息抜き(になっていないが)として宴会が催されたが、その場で教官の先輩から執拗なセクハラを受けた。内容は口で言えないひどいぐらいに。しかも周りは誰も止めようとせず、むしろけしかけていた。みんな狂っていた。


 そして私は、脱走を決意した。そうするきっかけを与えてくれた人がいなければ、私は自殺していたかもしれなかった。


「一緒に逃げよう」


 声をかけてくれたのは、鈴木さんという研修生だった。


 *


 合宿所の部屋から拝借した非常用の懐中電灯で山道を照らす。車の一台も通る気配が全くなく、ただ灯りを頼りに進む。


 鈴木さんは研修では常にトップの成績を叩き出していた。体力は私よりもあるし、座学ではどんな理不尽な質問を投げかけられても機知に富んだ返しをして教官を唸らせていた。そんな鈴木さんは高卒で六年間フリーターをやっていて、中途採用枠で入ったと聞いている。


「何でこんなブラック企業に就職してしまったんですか?」


 私は聞いた。会話で夜道の恐怖感を紛らわせたかった。


「取材のため」

「へ? 取材って……」

「そ。あたし、実は物書きの仕事をやっていてね。現代社会の暗部をテーマに雑誌に投稿したり本を書いて出したりしてるの」

「高卒フリーターじゃなかったんですか……」

「実は高卒でもないけどね」


 鈴木さんは、誰もが知っている超名門大学の名前を出して、そこの出身だと明かした。


「そ、それって、学歴詐称じゃ……」

「まあね。でもバカ正直に名前を出したらかえって冷やかしに来たと思われて書類選考で落とされかねなかったから、高卒フリーターという設定にしたの。大卒が高卒を偽るのって結構簡単だよ? 実際に高校の卒業証書が手元にあるわけだし、人事がいい加減だと尚更騙しやすいの」

「……もしかして、鈴木って名前も偽物だったりします?」

「ふふっ、本名で本は出していない、とだけ言っておくよ」


 はぐらかされた。


 スマートフォンがあれば警察を呼べた。だけど合宿初日に没収されて、そのまま合宿所に置いてきてしまった。私たちが助かるには麓にたどり着くか、車が通りかかって拾ってくれるかの二つしかない。だけどどちらも今日中には叶いそうにない。


「こっちに行こう」


 鈴木さんが道路の脇を懐中電灯で照らす。山林が生い茂っていたけれど、鈴木さんは躊躇せず踏み入った。


「危ないですよ!」

「そろそろ見張りが気づいてあたし達がいないのに気づいて探し出すはず。しばらく隠れてやり過ごそう」


 鈴木さんが私の手を引いた。


 道なき道を進み、私の不安感はどんどん増していく。私は鈴木さんの手を握って放さなかった。彼女の温もりを感じていなかったら、気が狂いそうだった。


 やがて、後ろの方から車のクラクションらしき音が聞こえてきた。何度も何度もしつこく鳴らして、その合間に人の声もした。


 どこにいやがる。でてこい。そんな威圧的な怒号の他、私たちの名前をさんづけで呼ぶのもある。


「研修生も狩り出されてるみたいだね。みんなも逃げ出したいだろうに、かわいそうなことをしたな」


 鈴木さんは、私の手を握る力を強くした。


 斜面を慎重に下りていくと、せせらぎが聞こえてきた。懐中電灯を向けるとゴツゴツとした岩場が見えて、その合間を小川が流れている。


「ちょうどいい場所がある。ここに潜もう」


 鈴木さんの懐中電灯が照らしたところは大きな岩二つがあり、その間には人間が二人ちょっと入れる程のスペースがあった。


「ふー!」


 ようやく人心地がついたところで、鈴木さんは小川で顔をバシャバシャと洗った。


一二三ひふみさんも顔を洗いなよ、冷たくて気持ちいいよ」

「私の名前、覚えてくれてたんですね」

「珍しいからね」


 一二三というのは下の名前じゃなく苗字だ。面接のときにからかわれたことを思い出して少し嫌な気分になった。私も小川の水を手ですくってバシャバシャと、ひっかけるようにして顔を洗った。ああ、本当に冷たくて気持ちがいい。


 それから少しだけ水を飲んだ。美味しい。


「ちょっとだけにしときなよ。生水だからお腹壊すよ」

「はい」


 私は岩の隙間に潜り込んだ。


 クラクションも声も、もはや聞こえない。


「夜が明けたら道に戻ろう。きっと車が通るはずだから拾ってもらおう」


 鈴木さんはそう言って体を横たえた。私も緊張状態から一応解放されたからか、急に眠たくなってきた。


「横、いいですか」

「いいよ」


 私は鈴木さんの隣に寝転んだ。狭い岩間だから体は否応なく密着する形になる。


 懐中電灯に浮かび上がった鈴木さんの顔には、笑みが浮かんでいる。何だかこの状況をあえて楽しんでいるみたいだ。でもその笑みは私を安堵で包んでくれた。


「一二三さん、会社辞めた後はどうするつもり?」


 鈴木さんが聞いてきた。


「そうですね……田舎に帰ろうかなと思います」


 村社会が嫌で飛び出した田舎だけど、このまま東京に残っても新卒カードを捨ててしまった以上、まともなところには正社員としての就職を望めない。生きるためには仕方ない選択をしなければいけなかった。


 鈴木さんの顔がこちらを向いた。


「東京に残る気はないの?」

「残れたら残りたいんですけど……」

「じゃあ、良かったらあたしのところに来ない?」

「えっ!?」

「そろそろアシスタントが欲しいなと思ってたんだ。インヴィンシブルこんな糞会社よりずっとまともな扱いをしてあげるからさ。ね?」


 鈴木さんは私の頭を優しく撫でつつ言う。昔付き合ってた恋人が私に告白したときと同じような、甘ったるい口調で。


 イヤ、と断れるような雰囲気ではなかったし、断るという気持ちも起きなかった。


「じゃ、じゃあ、よろしくお願いします……」

「ありがとっ」


 鈴木さんがぎゅっと抱き寄せてきた。胸の鼓動がドンドン早くなっていく。研修中に置かれた緊張状態のときと違う鼓動がしている。


 鈴木さんは豪胆にも、そのまま寝息を立て始めた。私はというとすっかり眠気が飛んでしまい、鈴木さんの暖かさを感じたまま夜明けを迎えたのだった。


 *


 次の朝、私はたまたま通りがかった人の車に乗せられて麓の街まで下りて、そこからタクシーを拾って鈴木さんの家まで逃げ帰った。鈴木さんはもともと途中で脱走する予定だったらしく、後始末はスムーズにいった。


 すぐさま、私と鈴木さん宛に郵送で解雇通知と、採用にかかった費用の損害賠償を起こす脅迫状めいた手紙が届いた。だけど当然無視して、鈴木さんは週刊誌にインヴィンシブルの実態を暴露した記事を投稿した。これが大反響を呼び起こし、インヴィンシブルは世間から糾弾を浴びることとなり、半年も経たないうちに倒産に追い込まれたのだった。


 現在、私は鈴木さんと同居してアシスタントの仕事をさせてもらっている。その他にも炊事洗濯掃除等、家事もやってて忙しい毎日を送っているけれどそれでいてかつ、楽しくもあった。


 周りからは夫婦みたいだと茶化されることがあるけれど、全くイヤな気分じゃなかった。


「よーし、原稿提出完了っと」


 パソコンに向かっていた鈴木さんがうーんと背伸びした。


「お疲れ様です」


 私は鈴木さんの好きなアップルティーを差し出した。


「一二三さん、月末までに大阪まで取材に行くよ」

「この前言ってた西成ですか?」

「そ。今までと違っていろんな意味で手強い取材になりそうだから覚悟してね」


 鈴木さんは愛おしそうに私の頬に触れてきた。何度もされていることだけど、ドキドキしてしまう。


 私は鈴木さんにすっかり恋をしてしまっている。あの生き地獄のような理不尽合宿も、私たちを引き合わせてくれたきっかけになったから今となっては感謝したい、と皮肉めいた思いを抱くようになっていた。


「大阪だったら泊りがけですね。早速宿を探しておきます」

「取材費出してくれないとこの仕事だから、なるべく安いところでね」

「はーい」


 私は自分のパソコンで検索を始めた。なるべく安い宿で、かつ近くにデートにうってつけの場所があるところを探さないと。

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