エピローグ:離別、そして

「ほんとに行っちゃうんすね、リンくん……」


 ベルの寂しそうな笑顔に、俺も心臓をキュッと締め付けられる。

 テルマエ・サノワエの初号館が完成するまでの一か月間、そして、一週間前に着工した大浴場の建設現場にも毎日欠かさず昼食を届けてくれたベル。

 職人の中には、俺とベルはとっくに夫婦めおとになったものだと思いこんでいる者も少なくない。



 ここは冠館クロンヌ前の広場。

 元の現代社会で言えば公民館のような役割を果たす場所だが、今日は村を離れることになった俺たちを、急な話だったにも関わらず大勢の領民たちが見送りにきてくれていた。


「今まで、ほんとにありがとな」


 ポンポン、とベルの頭を撫でると、ついに彼女の目尻からそれまでこらえていたものが溢れ出す。


「お……お礼を言うのはっ……じっ、自分のほうっす……リンぐんのっ……おがげでっ……自分はっ……」

「おいおい、別にこれが今生の分かれってわけでもないんだし、また一か月もすりゃ様子を見にくるから」

「でもっ……でもっ……えっぐ……」

「化粧が落ちてるぞ? せっかく今日は美人にしてきてるのに台無しじゃん」

「バガッ!……いづも美人っす!」


 そう言って俺の胸を叩きながら泣き笑いを浮かべるベル。

 しかし、すぐにまた切なそうな戚顔せきがんに変わり。


「自分も付いていっちゃダメっすか⁉ 身の回りのお世話でも雑用でも、何でもするっす!」

「それは昨日も話しただろ? 俺たちには俺たちのやることがあるし、ベルもこの村でやることがある。孤児院の子供たちはみんなベルのことを頼りにしているし、ベルにも大事な仕事を頼んだじゃないか」


 実は彼女にはテルマエ・サノワエの切り盛りを頼むことにしたのだ。

 ロシーユはあくまでもボナリー家の側仕そばづかえだから専属で頼むことはできないし、他に信用出来てある程度施設のことに精通している人物は……と考えた時に思い浮かんだのがベルだった。


 この一か月半、お昼時の一刻程度とはいえ毎日一緒に工事の様子も見てきたし、施設に関する基本知識も俺との雑談から自然と頭に入っている。

 気も利くし、小気味よく体を動かす働き者だ。料理もできる。ロシーユに手ほどきを受ければさらに腕も上がるだろう。


 そして何より、愛嬌のある元気で可愛らしい顔立ち。

 職人連中の間でもすぐに人気者になったベルなら、きっとテルマエの看板娘になってくれるに違いない。

 しばらくはロシーユと二人で協力してもらう形になるが、ゆくゆくは施設の差配の一切を彼女に任せられればと思っていた。


「大司教やエリザ様も定期的に施設で湯治することになっているから、しっかりもてなしてやってくれ。ベルなら安心して任せられる」

「わ、わかったっす……」


 涙を拭いてにっこりと微笑むベル。


「じゃあ、リンくんにも餞別せんべつっす」

「餞別? そんなもん用意してくれたのか」

「もちろんす。しゃがんで、自分がいいって言うまで目を瞑って欲しいっす」

「——?」


 言われた通りにすると、次の瞬間、唇に触れる柔らかな感触。


——え? な、何だ!?


 直後、集まっていた村人たちからの冷やかしの喚声と、「あああああ——っ!」という澪緒の叫び声が耳朶じだを打つ。

 思わず目を開くと——。


「——っ!!」


 目の前にあったのは、俺の首に手を回し、唇を重ねるベルの顔だった。

 しばらくの間——いや、実際にはほんの寸刻だったのだろうが——その態勢のまま固まっていると、やがてゆっくりと俺の顔から唇を離したベルが柔らかく微笑んで。


「あ~、自分がいいって言うまで瞑っててって言ったのに! 約束、破ったっすね」

「ご、ごめ……」

「乙女のキス顔を覗き見るなんて重罪っす。責任取ってもらうっす」

「せ、責任?」

「いつか……いつかでいいんすけど、自分をリンくんのお嫁さんにして欲しいっす」

「——え?」

「あ、正妻だとかそんなおこがましいことは言わないっす! 側妻でもいいんす! なんだったら愛人みたいなもんでもいいっす」

「そんな……俺なんかじゃなくてもベルならいくらでもいい人が——」

「リンくんがいいんす! リンくんがどうにかしてくれなかったら、自分は一生独身でいくっす! こんな身体の女の子じゃ……イヤっすか?」


 ベルのオーラが、羞恥と悔恨と、怯懦きょうだと不安の色相をい交ぜにして一気に溢れ出し、俺の胸に突き刺さる。

 きっと、娼館やマクシムを相手に色をひさいでいたことを恥じているのだろう。


「そんなことない。俺なんかには勿体ないくらいベルは魅力的だよ。もし俺がこの世界での役目を終えて、その時にまだ俺を想ってくれていたなら……その時にはベルの気持ちときちんと向かい合う」

「ありがとうっす……今の言葉だけで、自分はずっと頑張っていけるっす……」


 抱きついてきたベルの華奢な身体を受け止めて、俺はその柔らかな赤髪をそっと撫で下した。


◇◇


「良かったのぉ? ベルちゃんにあんな約束しちゃって~」


 帰りの大型馬車コーチの中で澪緒がブーたれる。

 本当はファストトラベルで直接ユトリの待つアングヒルまで飛んで行けたのだが、さすがに多くの村人の前であの力を見せるのははばかられたので、冠館クロンヌで馬車を借りてエグジュペリまで行くことにしたのだ。

 そこで昼食を取ったりユトリへのお土産などを買ってからアングヒルへ帰ろうと、皆で話し合って決めていた。


「んなこと言っても……ああ言われたら断れないだろ」

「じゃあ、ほんとにベルちゃんと結婚する気? 信じらんない!」

「いや、別に、検討すると言っただけで結婚を約束したわけでは……」

「うわ、ずるっ! 引くわ~!」

「どっちだよ!」

「それにしても……」


 と、今度はユユが口を開く。


「ティコのやつ、結局最後まで顔を見せなかったな」

「そうだな……」

「このまま別れちまうってのは……ちと寂しくね?」

「まあ、プラスローにはいつでも行けるし、落ち着いたらまたいろいろ話せる機会もあるだろう」


 ティコに今日発つことを伝えたのは昨夜のことだった。

 いずれその日がくることを覚悟はしていただろうが、あまりにも急すぎる話に気持ちの整理が追いつかず、そのまま怒って部屋に閉じこもってしまったのだ。


「最後は、あの母ちゃんも結構あっさりだったな」

「そうだな……。さすがに、急な出立を告げられて諦めがついたんじゃないか?」


 と自分で言ってみたものの、先ほどの見送りの際の、妙に余裕を感じさせる彼女の色相が不気味でならない。


 その時、俺はふとサトリのオーラに妙な揺らぎを感じて。


「どうしたサトリ? 何か話でも?」

「いえ……。この馬車は、私たち四人には少し大きすぎると思いまして」

「……? そうだな……」


——何が言いたいんだ、こいつ?




 エグジュペリの馬繋場には昼過ぎに到着。

 とりあえず街でも見て回ろうと馬車から降りた直後のことだった。

 突然、貸し馬車屋の建物の入り口から女らしき人影が転がり出てくるのが見えた。

 さらに、続いて出てきた数人の男たちに取り囲まれ、


「間違いねぇ! この女、カブラギ団とこの幹部だ!」


 男たちの一人が女を指さして叫ぶ。


——カブラギ団? なんだそれ?


 直後、女から痛みに耐える苦悶の色相を感じ取り、考えるより先に体が動く。

 彼女と男たちの間に割って入り、


「まてまて! 女一人に大の男が寄ってたかって! 何があったんだ!?」


 しかし、男たちの答えより先に耳朶じだに触れたのはうめくような女の声。


「もしか……して……」


 振り向くと、地面にうずくまりながらも青い前髪の隙間から俺を見上げる女の視線にぶつかった。


「君は……リン……タ?」

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脳筋妹を聖女にできるのは俺の愚者スキルだけ。 緋雁✿ひかり @TAMUYYN

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