五、
警視庁へ戻る金森とは別に、御伽は一旦刺された傷を処置して貰うために病院へ向かった。
すぐに応急処置をしたこともあって大事にはならずに済んだ。内臓も傷ついていない。数針縫って解放された。医者は「なるべく安静に」とは言っていたが、入院するほどではない。
「と、いうことなんで、問題はありません。戻ったら報告書を纏めます」
処置室から出てきた御伽は、息を切らせて駆け付けてきた土屋に向かって冷静に告げる。どうやら金森から聞いて慌ててやってきたらしい。
彼女の無事な姿と、相変わらずの抑揚ない声に安堵した土屋は、脱力したようにその場に屈み込んで大きな溜息を吐いた。
「頼むから心配かけるな」
「はぁ……。警察官やってればこういう危険は付き物だと思いますけど」
「だとしても、刺されたなんて聞けば焦るに決まっているだろう。もっと人数を付けていれば――」
「いや、変わらないっすよ。人数が増えたところで、どうせ狙われるのは自分でしょうから。なので、警部も気に病まないで下さい」
本人が何とも思っていないのだから放っておけばいいのに。とはいえ、心配してくれる相手を邪険に扱うほど御伽も薄情ではない。居心地悪さを誤魔化すように頭を掻いた。
「でもまあ、今回で身に沁みました。自分には現場の仕事は向いてないっす」
軽く吐いた言葉を理解しきれなかったのか、土屋は「は?」と間抜けな声を漏らした。
「どういう意味だ?」
「別に、そのままの意味っす。この件は自分に関わることでもあったんで、無理を言って捜査に加われるようにして貰いましたが……。やっぱ自分も頭でっかちのお役所人間だったみたいっすね」
何が言いたいのか察したらしい土屋が目を見開いた。
「戻るつもりなのか?」
「上が研修を受けろって煩いんで。昇進にはそれほど興味ないんすけど、あって困るものでもないですし」
というより既に決まっていることだ。この件が終われば警察庁へ戻るように指示を受けている。土屋にもそれは分かったようで、苦々しい表情をする。勝手ばかりの御伽に文句でも言いたかったのだろうが、彼は溜息をこぼすだけで何も言うことはなかった。
御伽も無事に警視庁へ戻ったところで、執務室で今回の事件について報告が行われた。
まず、逮捕された久遠芽衣は、取り調べによって改めて事件の関与を証明された。彼女の主張通り、犯行に及んだのは相手側の判断であったが、殺害を決心するまで頻繁に煽っていたことから、殺害
更に、月島姉妹の事故を引き起こしたタクシーの運転手が自殺していた件についても、再捜査をしたことで、事件性があることを立証され、容疑者として久遠の関与が明確なものになった。
御伽を刺して逃げようとしたことで、公務執行妨害も適用される。久遠に言い逃れは出来なかった。
「彼女に協力していた梶原という男だが」
科捜研にいた研究員だ。御伽と金森が久遠の下へ行っている間に、土屋が彼を拘束し、取り調べを行っていた。
「罪の殆どを認めている。ただ、所長の誘拐騒ぎは、ほんの出来心だったそうだ」
「出来心って……」
聞き捨てならないというように金森が険しい顔をする。そんなことで自分の上司を危険に晒そうとするなど考えられることではない。全ての刑事が同意見だろうが、事情を知る何人かは微妙な視線を御伽へ向けた。
「何なんすか、皆して」
注目された御伽が怪訝とすると、代表して土屋が口を開いた。
「どうやら彼は、御伽と接点を持ちたかったらしい」
「は?」
声を揃えた御伽と金森が思わずといった様子で目を合わせる。
「よく科捜研に立ち寄るお前のことが気になっていたそうだ。所長と親密な姿に嫉妬して、少し困らせたくなったと。誘拐事件を装って一緒に捜査すれば、御伽に近付け、更に信頼も得られるとでも思ったんだろう」
御伽は白けた表情を浮かべ、金森も頭が痛そうに顔を歪めた。
詳しい話を聞いたところ、彼は御伽の親友だと言って近付いてきた久遠に気を許してしまったようだ。
最初は事件に関わっているつもりはなく、ストーカー被害に遭っていると聞いて、人助けのつもりでアドレスの特定を妨害していたという。だが、誘拐事件を経て、流石におかしいと気付いた。
自分なりに調べてみると、アドレスを捜査しているのが科捜研だった。問い詰めたところ、漸く久遠の目的が分かって戦慄したらしい。とはいえ、彼自身もどっぷり関わった状態になっており、後戻り出来なかった、という話だ。
「つまり、自分のせいってことっすか」
御伽は不満を隠しもせずにこぼす。つまり“お前が巻き込んだ”といわれているようなものだ。流石に納得がいかない。
「いや、向こうが勝手に惚れたんだからお前は関係ないだろう。犯罪に手を染め続けたのは彼の判断だ」
土屋がすかさずフォローをした。梶原の主張は単なる言い訳だ。それを免罪符に自分の行いを正当化するなど言語道断である。周りの刑事達にも宥められて御伽は少しだけ機嫌を直した。
何はともあれ、これまで彼らを煩わせていた事件が解決した。それだけは確かな成果といえる。
***
あれから一週間。大きな事件もなく、日常的な執務を終えて帰り支度を始めていた御伽達に向かって、土屋が声を掛けた。
「今日はこの後、皆で飲みに行かないか」
「え、珍しいですね」
金森が意外そうに声を上げるが、その表情は何処か嬉しげだ。
「折角だから送迎会をしようと思ってな」
「送迎会?」
目を丸くした金森が傍にいた芝と目を合わせる。彼もまた驚いているようだ。事情を知っている御伽以外の全員が困惑しているのを見て、土屋は苦笑を浮かべた。
「あまり騒ぎにするのも悪いと思って伝えていなかったが、御伽が今月付けで警察庁へ戻ることになった」
寝耳に水だったようで、周囲が一斉にざわめく。中でも金森の驚きは凄まじい。
どういうことかと問い質すような視線を向けられた御伽だが、意に介す様子もなく、いつものぼんやりした顔で片手を挙げた。
「あの、ありがたいんすけど、自分はお酒飲めないんで」
「ん? あ、怪我のことがあるからか。鎮痛剤を飲んでるならアルコールはやめた方がいいよな」
土屋がハッとして、御伽の脇腹に気遣うような眼差しを向けてきた。刺された傷は大分塞がっているが、確かに痛みはまだ残っている。
「いえ。一緒に服用しなければ副作用はありません。というか、そうではなく、ただお酒に弱いんす」
「一口もダメなのか?」
「はい」
淡々と頷く彼女に、土屋は目を瞬かせる。金森と芝も驚いた様子で視線を交わしていた。際限なく酒を煽っても平気そうな見た目の割に、意外と繊細であるらしい。
「じゃあ、ソフトドリンクかお茶でも飲んでいろ。折角なんだから雰囲気だけでも味わえ」
「……了解っす」
一瞬面倒だと思った御伽だが、渋々と頷いた。自分のために別れを惜しんで、飲みに誘ってくれている上司の気遣いを無下にするのは流石に気が引けたようだ。
途中で緊急要請が入ることもなく、送迎会は滞りなく開催された。
会場となったのは駅前にある小洒落た居酒屋だ。オッサンばかりで入るには気が引けそうなモダン的デザインの場所であったが、若い女性がいれば問題はないと考えたらしい。紅一点であり、今回の主役である御伽を先頭に立て、店に入った土屋班のメンバーは個室でテーブルを囲んだ。
「えー、それじゃあ、御伽の送迎会を始めたい」
それぞれのグラスにビールが注がれると、主催者である土屋が立ち上がった。
「口が達者で生意気な御伽に振り回された者も多いとは思うが……」
金森がしみじみと頷き、芝が困ったように汗を拭っていた。当の御伽はグラスを手に、感情の読めない目で土屋を見上げる。
「御伽の機転によって早期解決がもたらされた事件も多い。この半年間、共に働けて良かった」
「はぁ……どうも」
やる気のない返事ではあるが、土屋班は態度がどうのと今更気にすることはないようだ。そのまま土屋が乾杯の音頭を取り、笑顔でグラスを打ち鳴らした。
「おい、飲んでるか?」
御伽がノンアルコールのビールを飲み干し、烏龍茶を注文したところで、程良く酔った金森が上機嫌で絡んできた。
「ええ、まあ」
面倒臭そうな気配を察し、座布団を横にずらしながら御伽は距離を取った。
「ったく、指導役の俺に何の相談もなく移動を決めるとは思わなかったぞ。薄情な奴だな、お前は!」
「すいません。けど、ぶっちゃけ最初から決まってたことなんで。この件が終わったら警察庁に戻るよう、上から指示を受けてます」
冷静に答える御伽に、金森はむっとした顔をする。
「お前、そういうとこだぞ。確かにエリートかも知れねぇが、一緒に過ごしてきた班に対して思い入れがあんだろうが!」
「そうっすね」
適当に聞き流しながら、御伽は運ばれてきた烏龍茶を口に含んだ。
「大体なぁ。お前はいつもいつも俺に冷たいんだよ。扱い雑だしよぉ。先輩だぞ? もうちっと敬えんのか、お前はぁ……」
素っ気ない彼女に焦れたのか、それとも酒の勢いだったのか、金森が掴み掛かった。これには流石に土屋も目を丸くし、芝が慌てて止めようとする。
胸ぐらを捕まれた御伽は相変わらず寝惚けたような目で見つめ返すと、ぽつりと呟いた。
「前にも言いましたけど、金森さんのこと割りと好きっすよ」
僅かな沈黙が落ちた。金森は急な気恥ずかしさを感じたようで、酔いのせいだけではない赤みを頬に浮かばせて、挙動不審に視線を逸らす。
「お、おう。そうか」
「自分、ファザコンの気があるんで、オッサンが好みなんす。甘えたくなくなるっていうか。しかも金森さんって、からかったら面白くて、いちいち可愛いから、遠慮すんの忘れちゃって……」
上目遣いになった御伽が「ごめんなさい」と謝る。いつになくトロンとした瞳は心なしか潤んでおり、妙な色気を放っていた。金森が明らかに狼狽えた。
面倒そうに避けていた御伽が今や自分から迫るように身を乗り出し、さりげないボディタッチまでしているのだ。普段の御伽では考えもつかない姿に、土屋や芝も驚いて固まっていた。
しかし、ハッとした土屋が御伽の席にあるグラスを確認した。匂いを嗅ぎ、少しだけ口を付ける。
「これ、ウーロンハイだ」
確信した顔で土屋が言った。全員が御伽を凝視する。どうやら酔っぱらっているようだ。
分かりにくい上に、随分と厄介な性質らしい。なるほど、弱いと自己申告していただけのことはある。
「ウーロンハイ……」
ぼんやりとグラスを見詰めた御伽は、
「何やってんだ?」
「お酒飲んじゃったんで救援ヘルプを呼ぶんす」
咄嗟にそういう判断が出来る程度には冷静らしい。この様子なら心配はいらないだろうというように、土屋達も安堵を見せた。とはいえ、この御伽をそのまま放置する訳にもいかず、土屋は注文し直した烏龍茶を飲ませた。少しはアルコールも薄まるはずだ。
すっかり酔いの醒めた金森も、ちびちびとお茶を口に含む彼女を見守っている。
それからどれくらいが経ったのか、利用していた個室にノックがされ、従業員が顔を出した。
「お連れ様がお越しになりました」
誰も不審がることはない。御伽が呼んだ救援だと察せられたからだ。だが、彼らの余裕は、相手が顔を見せた途端に崩れ去った。
「に、西宮警視総監?」
信じられないというように金森が声を上げる。グラスを傾けていた土屋も噎せ返り、芝は驚きのあまり言葉を失っていた。
「おう、寛いでいるとこ悪いな」
片手を挙げて軽く挨拶した彼は、グラスに浮かんでいる氷を突いて遊んでいた御伽を見付けると、座敷に上がって彼女の腕を持ち上げる。
「栞、帰るぞ」
「うーん?」
ぼんやりと顔を上げた御伽は、相手の姿を視界に入れた途端、ふにゃりと蕩けるように笑みを崩した。
「そういちだー!」
「はいはい、お前の大好きな創一様ですよ」
勢い良く首に抱き付いてきた御伽を難なく受け止め、彼は落ち着かせるように背を撫でる。猫のようにゴロゴロと甘える彼女に、西宮の表情も柔らかい。
一方で、見たこともない彼女の姿に土屋達一同は呆気に取られていた。
「あ、あの、警視総監。御伽とはどういう……」
ショックを隠しきれない様子で土屋が訊ねた。目の前に警視総監がいることに対してか、それとも安藤以外で御伽に親密な男性がいたことにか、本人でなければ真意は分からない。けれど、西宮の方は何となく察するものがあったようで、土屋に向けて挑発的に笑った。
「ああ、ちゃんとした挨拶をしてなかったな。妻がいつも世話になっている」
「これはどうも……」
条件反射のように言葉を返そうとしていた土屋だが、一拍遅れて脳に届いた情報に唖然とした。
「つ、妻?」
金森と芝も目が飛び出さんばかりの形相で「ええっ」と叫んだ。
「え、待って下さい。妻って……苗字が……指輪も……」
年齢についてもツッコミたいところだろうが、年の差をあれこれいうような時代でもない。
半ば放心した顔で呟く土屋に、返事をしたのは御伽だった。未だふわふわしているが、会話を聞き取れるくらいの意識はあるようだ。
「警部。イマドキ夫婦別姓とか珍しくないっすよ。といっても、うちは書類ではちゃんと同姓っすけど」
仕事の際に使い分けているということらしい。警視総監と同じ姓として入って、周囲から下手に目を付けられないための自衛だ。
「指輪も横からごちゃごちゃ言われたくないんで外してます。普段はチェーンに付けて首に」
襟元からペンダントに通した指輪を取り出した御伽を見て、冗談ではないことを土屋達も理解したようだ。
「そういえば、西宮警視総監には若い奥様がいらっしゃると聞いたことが……」
芝が思い出したように告げると、土屋と金森もハッとした。彼らにも聞き覚えがあったのだろう。まさかそれが御伽だとは誰も考えつかなかったに違いない。
「まあ、そういうことだ。残り少ない間だが、うちの妻を宜しく頼む。面倒見てやってくれ」
それだけ残すと、西宮は足元の覚束ない御伽を支えながら立ち去っていった。暫くして背後から聞こえてきた三人分の叫び声に、堪えきれなかったように吹き出す。
「最後の最後で盛大なネタばらし、上手くいったな」
顔を見合わせた御伽と西宮は、互いに悪戯が成功したような笑みをこぼした。
【レディ・グリムの挑戦状 完】
レディ・グリムの挑戦状 斑鳩 環 @ikarugatamaki
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