第3話 攻防極まれり


 夏のさなかのことでした。

 出先からの帰り道、そうだ、甲子園どうなったかしらと、ラジオのスイッチを入れました。

 

 ところが、どうでしょう!

 おやっ、なんだぁ、こりゃーぁと、ハンドルを握りながら、実に、奇妙な感じを持ったのでした。

 

 これ、NHKかぁ、って。

 思わず、車のラジオの周波数を示す数字を見てしまいました。

 確かに、594kHz、間違いありません。


 一体全体、何が起きたのかと言いますと。


 女性アナウンサーが野球の実況中継をしていたのです。

 わたしにとって、女性のアナウンサーの実況を聞くことは初めてであったのですからむりもありません。


 最初、何か違和感のようなものが漂って、私の耳はうろたえていました。


 あの女性特有の細い声で、打ちました、大きい、大きい、入った、ホームラン!って、高い声で、平たく言われて、実はピンとこなかったのです。


 しかし、その試合の八回、九回の攻防を聴くうちに、次第に、耳が冷静さを取り戻していきました。


 この女性アナウンサー、歴史に残る人になるに違いないって、そんなことを思ったのです。

 

 世の中では、見目麗しき女子アナが、あれやこれやと、もてはやされていますが、スポーツ中継をする女子アナは、世界広しと言えども、NHKのこの方だけではないかと、最近、このNHKをぶっつぶせとのたまわっている一派が国会に議席を確保し、大きな顔をしていますから、NHKも考えているなって、そんな憶測もしたりしたのです。


 さて、前置きが長くなりましたが、実は、私、甲子園に行っているのです。

 といっても、球児として、ではありません。


 取手の学校に勤務した最初の年に、甲子園に生徒たちが行ったものですから、新米教師として、あの暑い中、仕立てられた夜行の、保護者応援バスの案内責任教師として乗り込んで、わがままし放題の親たちと一緒に出かけていったという思い出があるのです。


 試合は、完封負けで、あっという間の時間でしたが、それでも、あの当時の選手たちと、何十年経っても、思い出を分かち合えることができて、幸せ者だと思っているのです。


 それにして、今年の甲子園大会、九回の攻防の手に汗握る試合の多いことに驚いているのです。

 NHKの女子アナの実況中継以上に、そこに注目をしているのです。


 あれだけ、自信満々に投げていたエースが、突然に長打を打たれ、点差を詰められ、同点にされ、挙句に逆転されるのですから、やっている方はたまりませんが、見ている方は実に愉快であります。


 高校野球を観戦する多くの人には、贔屓のチームが、殊の外あるわけではありません。

 ですから、たいていの場合、負けているチームに頑張れと、誰もが応援をすることになります。

 日本人特有の判官贔屓というやつです。


 その負けていたチームが完璧に投球をし続けたエースを打ち崩していくのですから、痛快この上ないことです。

 

 昔から、甲子園には魔物が住んでいると言われています。

 ですから、このような九回の攻防は、これまでの100回に及ぶ大会の中で、何度となく繰り返されてきたに違いないのです。

 もっとも、冷静に考えれば、甲子園で開催される阪神タイガーズの野球でも、魔物があるのかと言われれば、そうでもないわけですから、きっと、甲子園に魔物がいるのではなく、高校野球にそれがいるというのが正しい表現なのでしょう。


 一日四試合、それを待つ選手たちは、炎天下の中、球場の近くで待機をしなくてはなりません。

 応援に行った私たちでさえ、炎天下の中、前の試合が終わるまで、強烈な日差しの中で立たされ通しだったのです。

 前の試合が延長戦になれば、選手たちの待ち時間はさらに増えます。

 それに、あの球場の内野は、土のグランドです。

 いかに、グラウンド整備員が完璧な仕事をしても、一日に何試合もあれば、当然、土はほじくられ、でこぼこになり、イレギュラーなバウンドが起きてしまうというわけです。

 つまり、球場のコンデションは否応なしに悪化していくということです。


 そうした諸々のことが選手たちに作用して、あの九回の劇的なドラマがなされるのです。


 それに何より、甲子園の大会は、負ければ終わりという切羽詰まった状況下の中に置かれていることを選手たちはもちろん観客である私たちも知っています。

 次がないのです。

 たった一回きりの、まるで、源平合戦か、日本海海戦か、真珠湾攻撃か、そして、ミッドウエイ海戦か、そんな類の命をかけた戦いであるのです。


 だから、やる方も、見る方も、真剣そのもの、単なるスポーツではなく、そこに、そこはかなとない人間のドラマを見て取ることができるのです。


 十代の青年たちが額に汗して、真剣に、戦いに臨むその姿を、女子アナの実況で聞くなんぞ、今年は何もかも新鮮でいいと、そんなことを思って、ハンドルを握って、出先から戻ったのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虐待とトマト 中川 弘 @nkgwhiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ