~Epilogue~2019年5月11日

 NHKホールを過ぎた辺りから混雑がひどい。『タイフェスティバル2019』という横断幕の下をシンハビールやパッタイの皿を持った人の列がノロノロと進んでいる。


「もう帰ろうよ~」


 5歳の娘が不満げな声を漏らす。昼過ぎにはAKB48のバンコク版『BNK48』のスペシャルライブがイベント広場を賑わす。


「わかった、帰ろう」


 娘を抱きかかえると出口に向かった。

 代々木公園の各国フェスは、あまりにも有名になりすぎたため少し足が遠のいているが、炊きあがったジャスミンライスやココナッツカレーの香りは今でも好きだ。


 バンコクは、エマが亡くなるまで何度か通った。

 先日、「のバックパッカーの聖地カオサンロード」というネット記事に思わず眉が吊り上がった。一応今でもいくつかのゲストハウスは頑張っているようだが、多くはブティックやクラブに変わり、カオサンロードは今やバンコク全体から見ても割高なエリアになったらしい。

 どうせもう行くこともない街だ。しかし思い出の鱗片が探せなくなるのはやはり寂しい。



 マレーシアの谷村新司とミホリンの続編はあっけなかった。

 歳の差26歳。マラッカ海峡に浮かぶ小島を占拠するという愛の強行突破は裏目に出た。変態息子に激怒した父親が差し向けたのは、地上げ屋でも警察でもなく、一通の手紙だった。


<――キサマとは絶縁する。日本にでも好きなところへ行け>


 喜んだのは谷村新司だけだった。資産家の息子という肩書を失った彼は、ミホリン49歳にとってただの浅黒いハゲにすぎなかった。ほどなくミホリンは蒸発。こうしてこの高視聴率ドラマは幕を閉じた。

 ショックで死んだと思っていたが、数年後<今は台湾にいる>とメールを寄こしてきた。今度の相手は55歳。相変わらず叶わないバラードであった。



 陳さんのお母さんが脳腫瘍で亡くなったのは2003年秋のことだった。

 葬儀に間に合わなかったがその年の暮れに一人香港に飛んだ。訪ねた時、ロー師匠はベランダの植木に水をやっていた。


「――弟子を見送るとは辛いもんじゃ。ところで八卦掌は続けておるか?」

「そういえばあの時にお世話になったカナダ人たちは地元でカンフー道場を開いたそうです」


 それを聞いたご老体はこぶしを握り締めて震えはじめた。


「なんじゃと!?あの程度で人に教えられると思っておるのか!香港に来たら殴ってやる!」


 トロントにほど近いハミルトンにできたカンフー道場は、今は中華料理屋に変わっている。アランは周囲の反対を押し切って<長拳の達人>とめでたくゴールインしたが、彼岸のカンフー道場は流行らなかったらしい。そんな彼を助けたのはリッチモンドで遊んでいたディランだった。カネを出し合って道場を改築し、カナダに乗り込んできた妻の親類たちを使って中華料理屋を始めた。


「そういえばディランのヤツ。嫁の従妹といつの間にかいい感じになってた!」


 そのディランから結婚式への招待状が届いたのは1年後の春だったが、転職が決まったばかりで休暇が取れずお祝いだけ送っておいた。

 その後ハネムーンで訪れた香港で10年越しに師匠の再会を果たしたはずだが、彼らがどんな目にあったか聞いていない。



 涙に始まり涙に終わる張宇ジャンユーとの交流は今も続いている。


「そういえばこの前崇文門近くのショッピングセンターで小さな娘さんの手を引いている尹琳インリンを見かけたぞ。君がほったらかしにしたからこういうことになったんだ!」


 身に覚えのない叱責に首を振った。


<――あなたは于春麗ユーチュンリーのことが好きなのね。そして彼女もあなたのことが大好き。付き合っちゃえば?>


 あの夏、プレゼントを投げつけながら放った尹琳インリンの予言は、その後壮絶な交錯をしていくことになる。



 ソウル・シンキョク道場の高弟だった二人の女性は、その後対象的な人生を歩んだ。ウニョンは今銀山温泉で若女将を努めている。旦那さんとは日本領事館後援の物産展で知り合った。


「――そういえば先月弟からメールが来て、あのパク・ヒョンヒが国税庁のエリートと離婚したって」


 あの暴力能面女が甲斐甲斐しく男に尽くしている姿など全く想像できない。が、耐えて、耐えて、限界を超えてしまったのだろう。長らくタンスの奥にしまっていた黒帯を締めると、影すら見えない足刀をそのメガネにブチ込んだ。泡を吹いてブッ倒れた哀れな男が目に浮かんだ。



「――ねえ、死んじゃったらもう会えないの?」


 娘が胸の前に抱えていたのは『ママがおばけになっちゃった!(のぶみ著)』という絵本だった。

 交通事故で死んでしまった「ママ」が、4歳の「かんたろう」の前におばけになって現れる。かんたろうを夜の散歩に連れ出した「おばけママ」が、かんたろうに諭す。


<人はいつかかならず死ぬの。生きていたときにこうすればよかった、ああすればよかった、って思う人がおばけになっちゃうんだよ>


 38万部のベストセラーとは知らず図書館から借りてきたらしいが、5歳の娘にはちょっと難しかったようだ。娘は変な顔をして、「でもパパもママも死なないよね?」と繰り返した。その小さな頭を撫でて背中を抱きしめる。



 「アイツ」は、おばけになった今も<どうせアタシのことなんか誰も理解できない>とすねているのだろうか――。


 後年、最後のバンコクとなった日の夕方、俺はチャオプラヤ川に浮かぶボートに揺られていた。

 エマが散骨された泥色の川を思い出す。涙が、一筋流れた。

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ノンストップ・アクション1,2~バックパッカー青春放浪記~ マジシャン・アスカジョー @tsubaki555

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