漂蕩

深川夏眠

漂蕩(ひょうとう)


 都築香菜子は子供らの帰りを待ちながら、老母と二人、お茶を飲み、見るともなしにテレビを眺めていた。

「ピンポーン」

 玄関のチャイム。家にはインターホンがなく、呼び鈴が鳴ったらドアを開けに行くしかなかった。

「どちら様?」

 扉には明り取りのガラス部分があり、午後の日差しを受けた人の影が滲んでいた。訪問者は躊躇するように一呼吸置いて、

「ごめんくださいませ。わたくし、巡礼の者でございますが……」

 老いて嗄れた女性の声だった。母より年配だろうか。

「お宅様の前を通りかかりましたら、気になることがございまして……」

 押し売りではなさそうだ。いや、本当に大丈夫か。この杖を買ってくれ……なんて話になりはすまいか。香菜子は母を顧みた。母も不審げに眉をひそめていたが、捨て置く気にもなれないらしい。小さく頷いている。

「お待たせしました」

 香菜子は戸を開けた。白衣びゃくえに菅笠を被った、典型的な行脚中のお遍路さんが立っていた。四国とは事情が違い、この辺りでは滅多にお目にかからないが、遠からぬ場所に霊場があるのは知っていた。潮風に導かれて道を逸れたのかもしれない。

 巡礼者は敷居を跨がぬまま一礼して、

「不躾ですが、ご親族の方で、どなたか海難事故で亡くなられた方はいらっしゃいませんか」

 訝る香菜子の後ろから、母がのそっと顔を出し、

「主人の父親が昔、確か、船で……」

 香菜子は顔も知らない、名前も咄嗟に思い出せない祖父の話だ。

「初耳。そんなの聞いてなかった」

「言わなかったもの。あんたが生まれる前だし、あたしだって普段は忘れてるし」

「……やはり」

「それが何か」

 巡礼者は伏せていたおもてをを上げて、

「大変寒がっていらっしゃいます。その……奥のお部屋が仏間とお見受けしますが、お仏壇の方から、わたくしに向かって冷気が流れてまいりましたので、お察し申しました」

「はぁ」

「海の真ん中で船が沈んでしまって、ご遺体はお帰りにならなかったのですね?」

「そう聞いております」

「お墓にはからの骨壺をお納めになった……」

「身内が以前、そんな風に言っておりました」

 香菜子は黙って、やり取りに耳を傾けていたが、ハタと思いついて居間に取って返し、心付けを用意した。

「その方の魂は今も浮かんだり沈んだりしながら海を漂っていて、それでずっと寒いのだそうです。お宅様、皆さんが喉を傷めて風邪を召されやすい問題と、無関係とは思われません」

 香菜子はギョッとした。自分自身も娘たちも姉や姪までも、血縁のほとんどは喉が弱く、始終いがらっぽさに悩まされている。叔父は喉頭癌の手術を受けた。しかし、初対面の巡礼者が、そんなことを知るはずはない。

「どうすればいいでしょう」

「ご位牌は、お仏壇に……」

「あります」

「毎朝、お白湯さゆを差し上げてください。少しはお気が休まられると存じます」

「わかりました、そうします」

「突然お邪魔して、失礼いたしました」

「いいえ。ご親切に、ありがとうございます」

 香菜子は割って入って、

「あの、些少ですが……」

 ポチ袋を差し出すと、巡礼者は滅相もないという風に突き出した両手を振ったが、ややあって受け取り、深々と頭を下げ、去っていった。

「……霊感ってヤツかなぁ」

「さあ。ところでアンタいくら包んだの」

「ほんのちょっと。お気持ち程度」

「ふぅん」

「お茶、淹れ直すわ。見知らぬ祖父じいさんの分もね」

「仏壇にゃ白湯でいいんだって」

「ケチねぇ」

「フフフ」

 沸かした湯を急須に注ぎ、躍る茶葉を見ながら、祖父は何歳いくつで亡くなったのかと考えた。母がここに嫁ぐ前なら、まだ充分若かったはずだ。浮かんだり沈んだりという巡礼者の言葉から、香菜子は青年版オフィーリアを想像し、少しばかり胸を高鳴らす自分を不謹慎だと思った。



                 【了】


◆ 初出:note(2015年)退会済


*縦書き版は

 Romancer『掌編 -Short Short Stories-』にて無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116877&post_type=rmcposts

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漂蕩 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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