パティスリーのんしゃらん

深川夏眠

パティスリーのんしゃらん


  1.〈un〉


「いらっしゃいませ。ようこそ《パティスリー》へ」

 毎度毎度、よくもそんなふざけた名前を平然と口にできるものだ。だが、彼女たちは至って真面目に、職業的な笑顔で接客しているに過ぎない。

 軽快なミュゼットが流れる午後四時。ティータイムには少し遅い。ビルの谷間、パティオに面したカウンター席へ。ガラス越しに通り過ぎる若い女の半数は、一瞬ギョッとした顔付きになり、すぐ表情を拭って去っていく。いつものことで慣れっこだが、いかつい男が一人でケーキ屋に入って何が悪い。文句があるなら言ってみろ。返答次第では、いくらでも殴り飛ばす用意がある。

「藤原さん、いらっしゃいませ」

 和服に白いフリルエプロンを纏ったマダムが注文を取りにきた。いつもは奧に控えて、手が足りないときだけお出ましになるオーナー夫人だが、自分に気づいてわざわざ顔を出してくれたらしい。メニューと水のグラスを置きながらクスクス笑って、

「そのサングラスがんじゃございませんの。外されたらよろしいのに。せっかく、おかわいらしいつぶらな眼をしておいでなんだから」

 名前と素顔を明かす羽目になったのは大失態だった。ここに忘れ物をしたせいで本名を知られ、別の日には睫毛に埃でもついたのか、コンタクトレンズの調子が悪くなり、サングラスを外してジタバタと醜態を晒してしまった。幸い、どちらも茉莉まりお嬢さんには知られていない。いや、バレたら恐ろしい罵声を浴びせられるだろう。想像するだけで身の毛がよだつ。

「スフレとアイスティー、ストレートで」

「かしこまりました。藤原さん、その組み合わせがお気に入りでいらっしゃるのね」

 いつも一言余計なマダム。緊張を強いられる場面が多くて喉がカラカラになりがちだから、アイスティーで潤したいのだ。ケーキを買って帰る客がこちらを一瞥して、異様なものを目撃した風な反応を示す。煩わしい。

 嫌なら来なければいい。しかし、わかっちゃいるがやめられない。この店のメニューには——いや、多分、店自体に、たおやかな毒が含まれていて、既にその成分に犯されているのだ。これは自分とお嬢さんの関係に似ていなくもない……そう思うと、嬉しいような恥ずかしいような、 胃がキリキリ痛んで冷や汗が滲むような感覚に襲われて、悶絶しそうになる。

「お待たせいたしました」

 この店のスフレは頻繁に様変わりする。今日はカカオの香気漂うチョコレート・スフレ。ぽっかりと盛り上がった生地にスプーンを刺す。ミックスベリーの酸味が心地好い。一旦凍らせてあるのか、赤いコンフィチュールは温かいスフレの中でも冷たさを保っていて、見事なショーフロワだ。段々思考が麻痺し始める。目を閉じて歓喜の吐息を漏らしたいところだが、グッと堪えた。

「ご贔屓にしてくださるから、サービスですわ」

「……えっ。あ、すみません」

 熱い茶杯チャーベイを勧めてくれた。馴染み深い香りがする。

「ジャスミンティー。緑茶でなくて、紅茶ですの。少々珍しいでしょう」

「いただきます」

 ありがたいが、気まずい。注視されると、いろいろボロを出してしまいそうだ。

「藤原さんは随分とスフレがお好きなんですのね」

「テイクアウトできませんから、ここでいただくしか……」

「確かに。しぼんでしまいますもの」

「ええ」

「藤原さんはとても丁寧に召し上がる方だから、作る甲斐がありますわ。細大漏らさず——徹頭徹尾——何て言ったらいいのかしら、とにかく、私どものお菓子を大切に扱ってくださってるのが、よくわかります。一皿に盛り込まれた味を全部、僅かでも逃さないように神経を研ぎ澄ましてらして……」

「そんな大層なことじゃないですよ」

 美味いものはウマイ、そうでないものはダメというだけの、単純な話だ。

「いいえ、なかなかピッタリ来る言葉が見つかりませんけど、きっと——繊細な感受性と貪欲な探究心の権化、なんですわね。あら。長々と失礼しました。オホホホ」

 マダムは電話に出るため、慌ただしく戻っていった。改めて茶杯チャーベイを取る。芳香も手伝ってか、揺れる水面みなもにチラチラと、お嬢さんの美しい顔が映る……というのは、もちろん目の錯覚だが、そんなを思い出して背筋が寒くなった。ままよ。一息に呷る。今夜、お嬢さんが自分のもとをを訪れるだろうかという期待とおそれが交々こもごも喉に染み渡った。

 今までにも何度か、夜中にヒョイとお嬢さんがベッドに潜り込んできたことがある。最初はショックできもが縮んだ。だが、彼女はドギマギあたふたする自分を面白がってケラケラ笑った。子守唄も昔話も無用、黙って腕を貸せとの仰せ。仔猫のように頬を擦り寄せ、やっぱり藤原の腕枕が一番だな——などと、少年めかした口調でのたまった。うるさい寝かせろと叱声が飛ぶのはわかっていたから、ありがたき幸せという言葉を生唾と一緒に呑み込んだ。彼女はあっという間にスヤスヤと安らかな寝息を立て始めた。うっかりパジャマの胸元をはだけていたから、彼女のウェーヴした長い髪の先に皮膚をくすぐられ続けて、一睡もできなかった……。

 旦那さまに知れたらクビでは済まない。冗談抜きで打ち首獄門は必至——だけれども、そうなったら、お嬢さんはサロメのように自分の生首にキスしてくれるだろうか。あの光る、ぽってりした唇で……。

 ——いかん。こんな考えに酔って身震いするとは。いよいよ頭がイカレてきたのか、それともやっぱりスフレの毒に当たったのか。きれいに平らげてしまったぞ。そうだ、時間は。ああ、そろそろお迎えに上がらねば。色とりどりのマカロンも買って行こう。好みがうるさいお嬢さんも、この店の菓子には一目置いているのだ。


 お嬢さんは中等部の図書委員だ。今日は委員会の用事があるからと、こんな頃合いのお迎えになった。正門の近くに停車していると、ポップアップ絵本から飛び出したかのごとく、パッと彼女の姿が目に入った。少々おかんむりのご様子。白い額に眉根を寄せて、助手席へ滑り込み、

「あのクソ野郎、ふざけやがって」

 ジョン・テニエルが描いたアリス・リデルが、日本人の女子中学生に転成したとおぼし召せ。そんな愛らしい顔からは想像もつかない汚い言葉を吐き出して、

「予定変更だよ藤原。ターゲットは前にも言ったアイツ」

 きれいに手入れした爪の先を反らすように、フロントガラスの向こうを人差し指で示す。やや背の高い女生徒が一人、去っていった。南無なむ三宝さんぽう。実はそろそろ命令されそうだと覚悟していた。気が進まない。本当は、こんなことはやりたくない……が、お嬢さんの望みとあらば、やむを得ない。前もって伝えたとおり計画を実行に移せと、三下さんしたどもに連絡する。不本意ながら現場監督を務めねばならない。パティスリーのんしゃらんの小さな手提げ袋を渡して車を降りようとすると、

「一応だからさ、わかってるだろうけど、武士のなさけってヤツをよろしく頼むぜ」

「は?」

「鈍いな、おまえ。ブチのめして放置するにしてもとかはやめといてやれって意味だよ」

「……承知しました」

 したのリーダーに、くれぐれもスカートを捲れ上がらせないよう指示を出し、少し離れて見守った。気の毒に、どんな言動でお嬢さんの逆鱗に触れたのか——ともあれ、相手が悪かったと思って諦めてもらうしかない。

 鮮やかな連携プレーでヤマを片付けた若造どもに報酬を握らせ、口止めして車に戻った。お嬢さんは幼児のように無心に、カラフルなマカロンをモシャモシャ食べていた。

「終わりました」

 だが、お嬢さんはチッと舌打ちして、

「お茶ぐらい用意しとけよ」

「申し訳ありません」

 どんな恐ろしい文句が続くかと身構えた。が、意外にも、彼女はにんまり笑って、

「まあいいや。上手いことやってくれたからな。礼を言うぜ。Jeジュ・ vousヴ・ remercieルメルシー!」

「……Jevous enprieジュヴザンプリ

 返事を終えないうち、頬に接吻された。彼女のリップグロスが吸着していた焼き菓子の細片が、ザラッと皮膚を擦った。硬直した自分を面白がって、ケラケラ笑うお嬢さん……。バックミラーに映った薄いキスマークは、アーモンドパウダーを鏤めてラメのように光っていた。目の前で拭っては怒りを買うだろうし、かと言って、このまま帰宅しても大問題になる。途方に暮れながら車を走らせた。泣きたいのか飛び上がって喜びたいのか、わからない。頭が沸騰して、どうにかなりそうだった。



  2.〈deux〉


 お嬢さんにとって目障りな相手を痛めつけるのと、本来の主人、つまり直接の雇い主の指令に従うのと、どちらが大変か。前者は基本的に赤子の手を捻るようなものだが、何もそこまでしなくても……とか、かわいそうに……といった同情や、手を下す自分の大人気おとなげなさ、卑劣さに対する吐き気が湧いてきて、辛い。一方、後者は職務の一部なので淡々と遂行できるし、対峙するのはどうせ自分以上に腐った連中なのだからと、割り切ってしまえるから楽だ。しかし、冷静でいられるのは、その場だけ。結果の重大さは桁違いで——。

 一仕事終えた後は心の調整が必要だ。もちろん後者の場合。割り切ろうとしても残ってしまう剰余を噛み砕くのだ。ついでに言うと、後からジワジワ襲ってくる罪悪感と恐怖感を薄めるための一服が欠かせない……と思って車を走らせ、いつもの駐車場に停めたはいいが、パティスリーのんしゃらんはとっくに店仕舞いしている時分だった。

「……あれ?」

 様子が違った。パイプシャッターの隙間が蜂蜜色の光を放射している。覗こうとすると、ウフフフフと女の声がした——と思う間に、マダムがいつもの出で立ちで小走りに近寄ってきた。この訳知り顔は一体何だ。

「いらっしゃいませ、藤原さん。もう閉店しましたけど、特別に」

 電動式のシャッターが開いた。呪文も唱えていないのに、簡単に中へ入れてしまった。薄暗い店内に点々と間接照明。オフィスビルのパティオに面したカウンター席だけが白々と明るかった。お嬢さんが半身を捩って、ぶっきらぼうに、

「お疲れ、藤原」

「どういうことですか」

「別に。お茶したいってマダムに言ったら入れてくれた」

「……」

 若干、苦いものが込み上げてきた。お嬢さんはここの焼き菓子を気に入っているのだし、イートインを所望されてもおかしくはない。むしろ、今まで一度も連れて行けと命じられなかったのが不思議なくらいだった。いや、だから油断していたのだ。彼女がまるでカップルのデートのようなお膳立てをするなどとは。そのことに虚を衝かれてうろたえつつ喜んでいる己に腹が立つ。いやいや、自分の特等席だと信じていた、邸の関係者と切り離されたプライベートなブースぐらいに思っていた、一人の時間を満喫できるはずの場所に先回りして踏み込まれたのが愉快でないから……。

「座れよ」

「……はい」

 マダムはにこやかに、

「アイスティーをどうぞ。今、パイをお持ちしますわね」

 お嬢さんはビルの谷間の宵闇をぼんやり眺めながら、ストローを咥え、アールグレイを吸い上げた。もう、自分なぞ目に入っていない。

「お待たせしました」

 見慣れぬ温かい菓子が供された。四角い二枚のフィユタージュで具材を挟み、皿の余白をアングレーズ・ソースで装飾してあるのは同じだが、中身が違った。お嬢さんの分はイチゴやキウイなどをカスタードクリームと混ぜたもの。で、自分に出されたパイは、なぜか小豆白玉サンドになっていた。和洋折衷、大いに結構。しかも、フィリングはひんやりして、パイやソースと好対照を成している。小倉餡とクレーム・アングレーズのマリアージュも悪くない。

 それにしても、罪の意識を紛らわしたい、紅茶で洗い流したいと思って来たのに、お嬢さんと並んで座らされ、しかも無言。おまえは今日どんなひどい真似を仕出かしたか、どうやって他人の血を絞り出したのか、白状しろと圧力を掛けられている気がした。

 苦しい、そして切ない。じっと横顔を見つめていると、ナイフとフォークを淑やかに操っていたお嬢さんが手を止め、こちらへ目を向けた。ナプキンを掴んだ指を、自分の顎の蝶番ちょうつがいの辺りへ泳がせて、黙ったままゴシゴシ擦った。摩擦の刺激と熱が痛かった。彼女は用済みのナプキンをポイとテーブルに放った。ほんの少し、血の痕がついていた。

「……すいません」

 お嬢さんはもう、無関心な目色でプイと元の姿勢に戻った。何を考えているのか、わからない。気持ちを寄り添わせようにも、取り付く島がなかった。今に始まったことではないし、そもそも彼女の内面を理解しようなどと大それた考えを持つべきではないのだ。上下のフィユタージュは決して重なり合わず、ナイフを入れてもフィリングの弾力に押し戻されて、カサカサと崩れるばかりだった。



  3.〈trois〉


 今日は大仕事の前にポッカリ暇ができた。自分が宛がわれているいつもの車は離れた場所に停め、現場へは歩いて行けと指示された。事後はタイミングを見計らって迎えが来るという約束だった。こっぴどく反撃されたら……誰かに目撃され、通報されたら……そんな不安に眩暈を覚える。最悪の事態を想定して、お嬢さん宛に遺書でもしたためておこうかと思ったが、やめた。時間の無駄だ。

「ようこそ《パティスリーのんしゃらん》へ」

 毎度毎度、よくも……いや、よそう。悪事に加担する男が一人でケーキ屋のカウンター席に座って何が悪い。

「いらっしゃいませ」

 マダムが水のグラスを置いた。が、メニューを寄越さない。

「今日は是非、藤原さんに新作をご賞味いただきたいと思いまして」

「はあ」

 任せろというつもりか、ドリンクの注文も訊かない。呑気なミュゼットに耳を傾けていると、

「グラタン・オ・フリュイでございます」

 豪華だ。そして、これもまたテイクアウトは出来ない皿盛りデザートである。

「シュクル・フィレを崩して、一緒にお召し上がりください。只今お茶をお持ちします」

 壊すのがもったいないほどの、細い飴細工がキラキラ光っている。美しいが、絹を引き裂く悲鳴と共に逆立った少女の金髪のようでもある。まあ、よかろう。いざ——と、居住まいを正してスプーンを当てた。パリパリと小気味よい音を立てて崩壊する黄金の尖塔。焼き目を付けたサヴァイヨンの下には鮮やかなフルーツとアイスクリームが潜んでいて、甘味と酸味もさることながら、口の中で表面の熱さと内側の冷たさが重なり合って、快感にゾックリ鳥肌が立った。

「パティスリーのんしゃらん最新の冷熱ひやあつメニューですわ。いかがでしょう?」

「……ええ、ああ、はい」

 感動と舌の痺れで返事も覚束なかった。大一番の前に、こんなに動揺していいものだろうか。 しかし、マダムはこちらの想いなど知らぬげに——いや、何もかも見透かした上でそらとぼけているのかもしれない。いつものように唇を手で隠してホホホと笑い、

「アイスティーです。どうぞ、ごゆっくり」

 気持ちを静めようとストローを含んだ。だが、マダムのお勧めは、先日茶杯チャーベイで飲ませてくれた、心を掻き乱す茉莉花ジャスミンフレーバーの紅茶だった。



           pâtisserie nonchalant【FIN】



◆ 初出:旧個人ホームページ(現存せず)


*縦書き版はRomancerにて無料でお読みいただけます。

https://romancer.voyager.co.jp/?p=121816&post_type=rmcposts

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