煙草

 忙しない学業から離れてつかの間の休息を終えた私の頭には、はなばなしい成功のイメエジしかなかった。流動的で互いに神経を鋭く先らせていた環境から離れ他者の存在をしばし忘れていた私には、よんどころないことであった。しかし、そういう懶惰な暮しをつづけて、同年代の者たちに当然のごとく備わっている鋭感が鈍ることも仕方のないことであった。

 東京の学友に呼ばれ久方ぶりに訪れた際、学業から逃避した私は半ば蔑まれながらもこころよく出迎えられた。それでも、この年頃の青年が励んでいる勉学から離れた後ろめたさは影のように慕われつづけていた。無論帰国してから堕落のような生活を続けていた私にも、罪悪感だとか後悔だとか、人並に起こりそうな憂鬱の萌芽がめばえはじめていた。友人たちを前に肥大した私の劣等感は、会話の端々の無邪気な罵倒に直面してもなお道化に徹することで、実に情けのない逃げ場を獲得していた。

 私を含めて最終日までに東京に集ったのは四名で、皆が中学の頃の友人である。はなはだしい体格の成長が見られ、ことに松井という男が容貌魁偉の美青年に成長しており、何でも彼は多数の女性と不純なたわむれに耽つていた。ここでも私のコムプレックスは余すことなく発揮され、自らの容貌を呪いつつ何れこの奴は挫折を経験するであろうと当たりそうもない未来を占っていた。久方ぶりにあって、お前の顔は土塀のように真っ平らだと小馬鹿にされ、お前だって色男を装つている野猿じゃねえか、と配賦に毒づきつつも、そうかい、そうかい、へへ、と卑しい笑い方をした。

 松井の他に、豊後から訪れた寺田とか、同じ東京から遅れてやってきた国村という男がいた。寺田は縦にも横にも肥つた我々に対し、学業のストレスでひどく痩せ細つており体調がすぐれないとしきりに呟いていた。癇癪持ちで、周囲の空気を読むのがうまい男である。国村というのは虚心担懐な江戸っ子に近い気風があり、迂遠な風刺や鋭い警句を得意としていた。二人にしても、かつてほどの好意を寄せることができず、むしろ半端に育ってしまった私の精神がかすかな反感を覚えていた。元元悪童らしい者達で、ささいな理由から他人を擯斥することを一つのたしなみのように扱っていた彼らだから、習慣のごとく暴言が飛びかっていたが、それに対し私はまた「へへ、へへ」と無意味な笑いを繰り返す他になかった。

 しばらく外を漫遊した後、松井が酒を買って飲もうと言いだし、皆が賛成して近隣の雑貨から二、三の酒を買い求めた。次に、松井は煙草を嗜もうと言い出した。こちらはあまり宜しい反応ではなかった。酒はともかく、煙草は不健全の象徴のように感ぜられて、気が進まなかった。しかし母が生来の煙草好きでひどい時には一日にワン・カートンも吸ってしまう人だったから、心中で自分が吸うことに関する嫌悪は兎も角、友人を咎めやうという気にはならなかった。

 家に着き、まず思い切りの良い国村が発泡酒を音が鳴りそうなほど勢い良く飲んだ。これには私も感嘆した。眉をしかめながら「コウラの方がおいしい」と言って、発泡酒を机の隅に置いた。以降床に就くまで、誰もこの発泡酒には手をつけなかった。次に、慎重な寺田が檸檬の汁で割ったウイルキンソンを一口飲んだ。彼は国村に倣って「俺も、コウラの方が好きだ」などと嫌らしく笑いながら机の上に置いた。しかし、その後も寺田はちびちびと酒を飲み、挙句に飲酒を勧めた松井より多量を呑んで酩酊した。不自然に痩せ衰えたことが仇となって、朝まで胃が痛ひだの、頭が割れるだのと喚いていた。この二人を差し置いて松井は「俺は後で」と言って誤魔化した。松井が断ったせいか、私も不思議と加わる気にはなれず、「俺も、後で」といい、寺田から「ちえつ、いい気になりやがって」と小言を言われた。

 夕餉を終えて真夜中になり、布団に潜りつついつものような猥談がはじまった。一人だけ女性とまるきり縁のない私は閉口したが、女を知らずともそこに程近い寺田と国村の二人は、松井の女性遍歴とそこから生まれる女性論に感興をそそられたようであった。縁がないと言いながらも、何れはきっと、と無駄に期待を抱いていた私も、なし崩し的にその話題へ混ざる運びとなった。時折布団の中からもどかしさに体を動かすような、ごそごそ(※)という音が聞こへた。

「女の胸は、どれくらい柔らかいんだい」

「想像力の乏しいやつめ。せっかく松井先生がここにいられるというに、お前はそんなつまらんことしか聞けないのか」

「だって、胸だよ。尻とは訳が違う」

「まあ、女性経験のない寺田だって、胸と尻の差異くらい理解しているよな。そういじめるなよ、国村」

「だって、つまんねえんだもの」

 乳白色のシェードから零れる朧な光に象られた国村は、短く刈り上げた頭を揺らしながらぶつきらぼうに言った。国村は、何かとにつけつまらないと評する悪癖があった。

「で、なんだつけ、胸の柔らかさ。う、うん、これは、なんとも言い難い。珠玉とも言うべき、いや珠玉は硬いのだが、饅頭の皮のようにすべすべ吸い付いて、お麸のように中身はやらかく、仰向けに寝るとお椀が伏せたような形になるんだ」

「どうにも松井の比喩は興奮しなくっていけねえや。おい、寺田。例えてみろ」

 国村の要求に、寺田は嬉しさを怺え切れぬ様子で吟じるがごとく表しはじめた。

「女性の胸の柔らかさは、何物にも例え難きものであります」

「それじゃ一休宗純だ。もっと事細かに頼むよ」

「そう希ふのであれば喜んでお答えいたしましょう。我々の荒事に慣れてしまった無骨な手には、触れるだけで傷をつけてしまいそうにもろく華やかな存在であります。薄紅の乳頭から、月暈のごとく縁取られる乳輪、なだからな丘を想起させるほどにゆるやかに降りていき、次第に稜線は傾いで、胸につくころはほとんど直角であります。一つ触れてみればたわたに揺れ動き、押し込んでみれば椀に対する水がごとく変幻に形を変えていきます」

「なんだなんだ、お前は。化物の話をしているのか」

「駄目だよ、国村。寺田は絵にしか描けぬような立派なものを想像している。おい、島田、お前ならできるだろう」

「ああ、できるとも。尻のように柔らかく丸い」

 国村が唇の周囲をにつと曲げてみせた。今のは良かった、と告げているつもりであろう。

「それにしても、松井、お前はどうやって、女をそう幾人も引っ掛けられる」

「コツがあるのだ」

 松井は右目をパチリと瞬かせて、布団から体を起こした。蹴球を学校でしている彼の体格は、窓辺からのほのかな月明かりのみが光源の室内でも、ある種異様な大きさをもって存在していた。中国の人相学で言うところの、懸胆鼻、新月眉であり、絢乱たる生活と莫大な富とを享受する社会的な強者の面と、張り詰めた薄氷のごとく脆くも崩れやすい繊細な麗しさを備え、眉と鼻という部分的な面の間にもはなはだしい濃淡を生み出している。その中央に開かれた竜眼は刀の先端のような鋭さを持ち、眉間に至るまで程良く強張って、見るものへ美しいような、恐ろしいような印象を与えている。実際この男は精神的にも肉体的にも恐ろしい部分があり、通常人間に備わっているような共感能力だとか気遣いの心だとか、自らの強さを阻む余計なものが欠落していた。代わりに羨望ばかりか悋気まで集めそうな生まれついた強者の花を、体のあちこちに咲かせていた。天稟と言うべき眉目秀麗な男は、また類まれなる頭脳を有していた。健全なる肉体に宿りししたたかな知性は、眼に輝き、指先に集い、体の動作一つ一つ(※)に並外れた強さの優美を帯びていた。

 私は彼が女を誘う術を縷述している間、ここにいる皆が松井に戦はずして負けているのだと考え続けていた。私はもう論外にしても、女性には中中縁のある国村や、昔から頭脳において秀でていた寺田でさえも、彼の前にはなんら変哲のない弱者に思われた。

 斯く言う私も、該博深淵を装つているものの、少ない書籍を読んで獲得した浅薄な知識をさもしたり顔で振りかざし衒うのだから、劣等を感じぬ訳はなかった。何を失したわけでもないのに、英哲な真の識者を前にすると、己でさえ気付かぬ振りをしていた自らの劣りを嫌悪しないわけには行かなかった。

 松井が一と通り猥談を終えた頃、先の酒盛りや宴に疲れたと見えて、まず国村が眠りについた。続いて寺田もしばらくはボオドレエルの秋の歌を詠み続けていたものの、次第に声量が衰えていき、朗らかな秋の歌は寝息に変じた。残ったのは私と松井だけであった。

「おい」

 皆して眠るであらうから私も眠ろうと思い布団を頤まで掛けた時、松井が小声で呼びかけた。松井は私に眼で合図をすると、布団から抜け出し、煙草とウイルキンソンを手に持って、露台に出て行った。私は冷蔵庫からコオラの缶を拝借してから、彼に続いた。

 露台から眺める夜は静けさがうるさいように感じられた。人々の寝息が直に鼓膜を擽るような気がして、あまり心地よくはなかった。夏の盛りであるから水が張っているかのように大気は蒸し、絶え間なく降っていた小雨の露が鉢植えから伸びる蚊帳吊草を辷り垂れ落ちて、松井の足首から踵まで流れていった。松井は、きよとんとした様子で、うっ、と言った。

「大丈夫かい。ここは随分濡れているが」

「いいのだ。座布団がある」

 彼は無造作に麻でできた分厚い座布団を露体の床へ敷き、どこからか持ってきた小さな木机を置いた。私が座ると、彼はいかにも楽しそうに空の杯へウイルキンソンの液体をなみなみ(※)と注いだ。たちまちにアルコール独特の不透明さの中へ、冷たい氷が霞まれていった。

「君、煙草は行ける口かい」

 彼は人差し指と中指をヒョイと何かを差し挟むような形にして口元へと運んだ。私はうぬと口ごもってまともに応答しなかった。煙草は、臭いばかりで嫌いであった。

 気まずい思いでコオラをちびちび口の中に含んでいる間、彼は私の様子を気に留めることもなく杯に満ちた液体を一口飲んでから、慣れた手つきで煙草を咥えると、舶来品の燐寸を擦つて火をつけた。

「随分、気障じゃないか。今のご時世に燐寸かい」

「ライターは苦手だ。火打のものは、ともすると指を焼きかねないから」

 彼がすっとそこで軽く呼吸をすると、細長い煙草の先端が赤色灯のように明滅し、口の間隙から白い煙が空中に螺旋を描いてするすると昇つていった。吸うたび、吐くたびに唇の周囲にわだかまった煙は靄のように漂いながらも口と外とを行き来した。時折彼がふうつとしたたかに息を吐くと、透きとおつた矢が突き抜けていくように、煙は左右へ分かれていった。

「仕合せだ」

 彼はそう呟いた。

 その一言は、拳銃の撃鉄のように、人為的な攻撃性が私の中に顕れる契機となった。我々の年代というのは戒渋なもので、本能的に青春の永劫性を理解し、あるものは憧憬という理由をつけて不純な世界に脚を踏み入れ、またあるものは真面目を装ひ大人が嗜む種々の品々、あるいはそれらの快楽を擬似的に享受するものたちへ物凄い憎悪を抱いた。私は数ある憎悪を抱く若者の中でもことに激しく、その恨みの強さは一と通りでなかった。彼の仕合せという発言は、心の中で歪に超えていた、世間に疎まれる若者の虚像に反することで勝ち得た優越を、一時的とはいへ破壊してしまっていた。思わず、声を張り上げかけてしまったが、先程まで抱いていた私の敗北感とはなはだの劣等感は感情的に喋ることを容認せず、従って吐き出された雑言は、当人である私ですら驚愕するほどに冷たく、理性的な口調であった。

「煙草のような毒物を吸って快楽を感じうることを仕合せとは、どうにも解せないね。僕には君がかっこうをつけるばかりに、どんどん毒されていくように思われるよ。ましてや酒と一緒に用いるならば、その危険性もひとしおだ。いい加減、そういう戯れはやめることだ」

 田舎者の特徴である、純朴にも近い正直さと、自己の価値観以外を徹底して認めぬ怖ろしい排他性が発露された。松井は一瞬戸惑い、それでも煙をぷかぷかふかしつつ、たびたび酒を口元へ運んでいた。しかし、半分も燃え尽きぬのに彼は煙草を灰皿へ捻り、酒も飲み干した一杯を最後に、我々が帰るまで一滴とて飲もうとしなかった。

 電車に乗って窓外の佳景を眺望しながらも、私の頭には彼の寂しいような、苦しいような表情がちょうど煙草の煙のように曖昧な形で浮き沈みしていた。彼が住んでいる富豪の集う一等地の住宅街を離れ、次第にけわしい山々や渺茫たる海原が旋風のように、私の後ろへ走り去っていった。電車が山の麓へ近づくと、萌黄色の毛氈に覆われた山へ、日盛りの光芒が柱のように傾いでいた。晴空まで幾筋も絡まれる白い御髪のような光を追うと、八重棚雲から破裂したように陽が溢れ、皓々たる烈日が覗かれている。新造の船のように眩い景色は、眼に心地よい刺激を与える美景であるとともに、重罪を犯してしまった私を苛んでいるかのような、どこかけわしい色が備わっていた。

 電車の長い旅を終えてとうとう家についた頃には、すっかり暮れてしまっていた。六畳間の畳の上へ仰向けに寝転がって、黒シミが浮き出ている天井を暫し眺めていた。窓の縁の向こうへ速やかに隠れていったプラットフオオムの往来、野山を遮つて唐突に現れいづる柱、そこだけ水垢離取ったようにあきらかな彼の寂寞……彼への気遣いや罪悪感は、私の心を押しつぶしていった。窓から射し込む樺色の光が、私の腹部を集中的に炙りつづけた。

 今となっては、なぜ私があのように正義を気取ったかは分からぬ。劣等の末の自己防衛であったかもしれぬし、本当に煙草を倦厭しただけやもしれぬ。どれほど緻密な予測を立てようとも、実際的な事実に変じた今では、ただの推論に過ぎぬ。しかし、他の二人を差し置いて私だけを呼び煙草を差し出した彼を拒んだあの現象が、長く大海に隔たれてしまったための親しくあった間柄の変化を象徴していたことだけは、まぎれもない真実であろう。そして私はそれを想起するたび、久遠に思われたかっての黄金の日日を、恋い焦がれるかのように切なく感ずるのである。

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夏門丈六 掌編集 夏門丈六 @72kadojyo6

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