草笛と煙草
「どの草がよく鳴るかな」
少年のささやかな掌によって、よく吟味された一枚の草がゆっくりと巻かれた。麦笛であった。麦の芯を軽く巻いて吹くと、ピャアという甲高い音がなる。少年はその音を、じかに聞いたことがなかった。祖父が揺籃の頃の様子を話すとき、おどろくほど繊細な緻密さを以て語られる河川敷だの空き地だのの風景のなかに、麦笛の音という小さな粒が混じっていて、少年の祖父が繰り返す「ピャアと鳴るんだよ、ピャアと――」という言葉を常日頃頭のなかで、稚児が見知らぬ玩具を弄ぶように、すみずみまで疑った。本当にピャアと鳴るのだろうか。もし鳴らぬなら、どうなるのだろうか。吹奏という吹奏を、少年は知らなかった。無知だった。無知という小さな徳は、少年の脳裏に、無限の想像を生み出した。
少し遠く、少年が麦をあさっていた畦道の北東から、擦り切れたコートを来た男が歩いていた。彼の実家はこの付近にあって、つい一昨日に父が鬼籍に入り、今葬儀を終えてしばし思い出の確かなところを尋ね歩いていた。そぞろに歩いていると、いちいち目に入る景色の微妙な荒さに、男は自らの想像がこれほど不確かで、よけいな美を挟んでしまう自身の野暮な知性にずいぶんと驚いた。男には無知という徳はない。しかし、老いという仕合せがあった。自分の過去を彷徨い歩いて、そのつど自身の老いをたしかめて噛みしめる、地道な幸福があった。
少年を麦笛探しに押し出したのは、また別の少年との戦いにあった。昔からひ弱な体つきをしていたからよく虐められ、ことに別の少年から叩かれたり砂をかけられたりして、苦い悔しさを味わうことも多々あった。だが、彼の祖父が一週間ほど前に肺を患って都会の大きな病院に行ってからは、いつの日か自分をしいたげる者と戦って、勝利と自由を獲得しなければならぬことを覚悟しようとしていた。それはいいが、少年には勝算も、あるいは狡猾な策もない。はじめのうちは勇敢だが、その無謀に気づくに連れて勇んだ心どころか、生きる気力さえ萎んでいく。ほとほと弱った少年は、いつもは見つかっていじめられると嫌だからと言い訳をして、積極的に避けていた麦畑の広がる畦道を、麦笛を吹きたいという思いの一つに懸けて、ふたたび精神を勢いづけようと考えたのである。いとけない努力である。
小さな子供が万斛の勇気を身につけて、人生最大の難事に立ち向かおうとしている最中、肉親の死を経験してしまった男はと言えば、ただうつろな気持に犯されて、避けきれぬ面倒な事柄を避けることさえしなくなっていた。男もまた、しいたげられる側であった。彼は肉体こそ平凡たるものだが、人格にやや難があって、軽い吃音のゆえに同年と馴染めない薄くらい青春をすごしていた。知性だけは中々侮れぬが、それもつまらない自尊心のために歪に肥えて、彼は子供のままに社会に出ることとなった。いつか、どこかで大人が己の性根を叩き直してくれようと期待しながら。そして彼は直面したのである。この世には、多くの子供が存在し、老いという仕合せにしがみついてなんとか働いているということを。めんどうくさかった。働くこと、食うこと、寝ること、生きることが面倒だった。ゆいいつの楽しみとも言えるのが煙草であったが、健康に気遣って楽しめぬような小心なところがあった。生きているということが老いることに他ならない。男は不仕合せを仕合せで補うことしかできない、この上のない悲しみの中で生きている。
少年の躊躇いは、戦いばかりではない、麦笛を吹くことにさえも気の迷いが生じていた。少年は自身の幻想が崩れることを恐れてしまっている。無知という徳は保たれていても、愚かという力が失われていた。慎重の味を覚えはじめていた少年の心には、いくつもの、もろく崩れ去った夢の欠片が浮かんでいた。想像よりずっと劣った音色を聞いて失望する景色。必死になって息を吹いても、ピともならぬ悲しみの景色。麦笛を吹いても、勇気などわかぬという景色――いつの日か彼の頭に渦巻いていた夢のかおりと威徳は衰え、希望を蔑み現実を尊ぶ青年の心が芽生えはじめていた。
ふと男は、今日はもう煙草を四本も吸ったことを思い出した。一日三本以上は吸わぬと自身を制していた男も、久方の故郷で味わう、辛いような懐古のために、煙草を多く求めてしまった。彼の視界には、子供しかいない。あえてそうしているのかはわからぬが、男は子供しか捉えていなかった。掌に草を握って、唇を近づけたり遠ざけたりしている彼と、ひとりきりで背を曲げて、とぼとぼと夕暮れに沈んだ地面を踏んでいた自身の幼少を重ねていたのである。ああ、もしもあの時――とどかぬ願いが増えるたび、やっぱり煙草が喫みたくなった。懐に入れていたケヱスから細長いそれを抜き出して、咥えた。
二人は吸って、それから吐かねばならなかった。叫びたい気持、漏れ出しそうな苦吟の声、皆一様に吸ってしまって、それから肺の中で音やら煙やらに変換し、ゆっくり吐かねばならなかった。少年は暫し迷った後、麦笛に唇をつける、男は時代遅れの燐寸で煙草の尖端を燃やす……。
ピャア、チャッ、ボッ、ピャア。笛から甲高い音が飛び出し、男の煙草は赤色灯のように明滅して、笛の音と競うように風籟がわたり、男の唇の周りにゆったりした煙がただよった。
ああ、なぜ息を吸って吐くばかりの簡単な動作が、これほどまで違ってしまうのか。少年はニ、三度鳴らしてから、祖父のことも、それから虐めのことも忘れて、夢中になって鳴らし続けた。男は五本目の煙草の味をしばらく楽しんでから、後のことも健康のこともどこかへ押しやって、少し遠くから聞える草笛に耳をそばだてた。
しかし、この二つの所作の本質はかくも違うというのに、優劣だの賢愚だの、世間の凡庸な価値観による格差は生じていない。二人とも、呼吸の妙を心から愉しんでいる。少年は潤んだ瞳を輝かせて笛を鳴らし続け、男は一ときの仕合せを口元で炙りながら――。
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