絹の雨

 こんな絹の振り袖が、六円という、一ヶ月ここで暮らしていける銭になるというのはいかにも新鮮な歓喜である。或いは、たった一ヶ月ほどの安住のためには、いささか大きすぎる代償とさえ言える。しかしその一ヶ月のうちにみっちり詰め込まれた一日のつどには、食があって、眠りがあって、それから笑いや涙などがあって、たったの一ヶ月のようにはまったく思われない生活の激流が実存している。しかしそれは、後に思い返すほどに、わずかな一月である。

 頼れる親戚が居ないような孤独な身の上でない幸子と景子が、蒸発した両親の名残にこだわって、意味のない延命処置を施すには明確なわけがある。この家には、まだ幸子と景子とが露とも知らない社会との連結部がある。例えば、母が居た頃には考えもしなかった、客間に置いてあるなにごころない菓子類。これには、客人を饗す外交の狙いがいくらかあるために、社会に展かれた薄い窓のように景色を切り取って見せていた。いつも見過ごしていた生活の片隅に、広い世界の欠片がたくさん落ちていることは、たった二部屋の狭い家中を鮮やかにしていた。だから、十四と十一の二人がここでは大人である。

 三歳の差でも、まだお金があった時分、女学校に通うような娘とばかり付き合っている幸子と、貧困の苦境のなかに生れ、遊びという遊びも知らず、学びという学びも知らない景子とはふかい溝が横たわっているが、それでも良好な関係でいられるのは、ひとえに、この家があったからである。互いが互いの心中を察せない二人にも、家は静かにその役割を果たし、娘たちの生活を閉じ込めて心を通わせていた。幸子の話が、外ならば嫌らしい自慢、哀れらしい過去への追憶に感じられても、低い硝子机を挟んで客まで話すぶんには、聡慧なものの含蓄に富んだ話として、景子の胸に受け入れられる。社会の欠片から成り立つこの家も当然、小さな社会の一角である。社会に於ける不条理などは娘たちを惑わすには足らない小さな悪性腫瘍であり、その不条理のなかの一縷の喜びが、雑草のうちの華である。

「絹の雨って知ってるかしら? 絹って、この前売ったお着物の材料のことよ。」

「それが、ざあざあ降ってくるの。」

「そうよ。山からの雨と違って、すごく量が多くて、白くて柔らかいから、絹の雨って呼ぶのよ。」

 幸子の知識は生半だった。盆地なので雨量の少く、主に地形性の微雨が辺りを濡らすけれども、ごくまれの対流性降雨が夏季に降り注いだとき白く見える。いわゆる、夕立である。夕立自体は別段珍しくないが、あまり明るすぎるころだと白くは見えないし、だいたい、絹の雨を知るにいたってからは昼下がりの降雨ばかりだった。姉妹にはその不条理も、家という窓を通すと景観である。いつか見たいねえ、とひどく年を取った言葉で、景子は幸子の失笑をさそった。

 家は無限の時間性を保証しないこと、この摂理について、賢い幸子も、賢くない景子も、家という言葉を置き換えればなんにでも当てはめられることと理解していた。無常の価値観は金銭から学んでいた。この社会を維持するためには一ヶ月あたり五円を費やさなければならない。もう家には一円ほどしかない。この家を出て、親戚の家に移り住むための交通費を除けば、ちょうど一ヶ月謙虚に暮らしていけるほどの金が残っていることはさいわいだった。幸子はそれまでになるべくこの家に生活の痕跡が残らぬよう、たった一銭にもならぬ粗末なものでも、今使っているわけでなければすべて売り払ったり、近所に譲ったりした。段々と空疎になっていく家には、共同体の終焉、世界の崩壊の、巧緻な実験体という側面が暴かれた。結局家は、空になるというところまで、あまさず社会を示している。そこにいる人間、そこにいた人間自体は滅びるわけではないことも、果たして社会らしい。若くして滅びる感覚を覚えた幸子と景子には、もうこの世に恐怖などないように思われた。

 長押にかけられた洋服は全て売り払われ、手元には三着の気に入りの服だけが残った。もうそろそろ、ここを出ていく時だろうと思えば、その心持ちには、縄を掛けられたように滑稽な謹厳さが張り詰めた。大家にはずいぶん丁寧に礼をしたけれども、家賃を払うというだけのことでなんとか居させたばかりであり、とっくの昔に得体の知れない姉妹の性格を嫌っていたので、せっかくの菓子折りも届けられないまま、門前払いされた。しかし、大家が姉妹たちから受け取った五円で新しい振り袖を買った話を女中から偶然聞き、、二人はけらけら笑った。社会の廻りは恰も還流である。その中には、姉妹のようにばかに達観した小魚がいれば、ふしぎな廻りとも気付かずにいる意地悪い大家のごときたなごがいるだろう。それでも川が魚数匹の近い廻りなど気にもとめずに、しかし確実に関わって、うごめいている。姉妹の喜びはまたひとつ増えた。次の廻りには一体どんな笑いごとが待っているか、楽観の希望が根付いた。


 それから、二日後のことである。もうすぐ家を出るから、本当は愛着もなくなる家が瓦解した。元々老朽しており、大家が姉妹の居住を疎んで管理を怠り、腐り掛けていた梁が折れて屋根が降ってきたのである。姉妹は運良く外へ出ていて助かったし、行李もほとんどは一角にまとめられたから難なく拾われたが、姉妹の胸中に一抹の寂しさが根ざし、二人の目を潤した。明治からの家らしかった。小屋のような粗雑な建築は大家の祖父の造物らしかった。大家はとうとう姉妹を、疫病神とののしった。二人は知り合いの安否だけすべて確かめてから、一日早い旅へ乗り出した。

 一日早く親戚の家に帰ると知られたらどんな顔をされるか、久遠に楽観していられそうだった姉妹は、今まで感じたこともない恐怖と後ろめたさに震えた。前々から早く帰ってこいと催促され、迎えまでよこされたほど暖かくしてくれる親戚だのに、一日の早着など許さぬわけがない。だが、非合理の恐怖が離れることはなかった。

 夏の夕方でも、晩夏となると昏かった。中空の雲からの日射はなおさかんであり、斜めに劃った格好で、斜陽に面するものを、馬の背を分けたように赤く染めた。まぶしくはないが自然瞼に力が入って、姉妹は妙な表情をし、所在なさげに会話をした。

「景子、もし着いたら、お姉ちゃんが今から教えたとおりに謝るようになさい。怒られたら、いやよ。」

「あたしだって、お姉ちゃん、いやよ。怒られるのが好きな人なんていないわ。」

「でも今までは進んで怒られたかった気がする。どうしてかしら。」

「今お空を飛んでるの?」

「なに。」

「いま、きっと、お空を飛んでるのよ。ずっとふわふわして歩き疲れてる。あやまりかたもわからない。」

「わがままね。それでも行かなきゃ駄目よ。電車は初めてでしょう、きっと面白いわ。」

 そう言うなり、幸子は駅へ向かう畦道をずんずん進んだ。ここから歩けば馬車が通る町があり、それに乗れば駅まではすぐである。きっとすぐである。今まではなんともない時間の重みがずいぶんと背中に伸し掛かっていながら、ひたすら前ばかりを向いて、幸子は自分に言い聞かせた。ところが、ふいの景子の言葉である。

「あ、雨。」

 分厚い雲を央にして、斜めに白い水滴をおびただしく降らす雨が、振り向いた幸子の眼に、逆光のように輝いた。景子はもう足を止めた。今しがたまで住んでいた街に激しく降りすさんでいた雨だが、ふしぎに、姉妹はまったくくの快晴の袂にいた。透徹な輝きをふくんだ白い雨は、細い絹がひらめくようである。姉妹と絹の雨とのあいだはくっきりと分かれている。喜ぶふうもなく姉妹はいちどきに前を向き直し、さりとて各々違った表情で前進しだした。

 景子は、自分がいなくともずっと続くだろうという顔で、涼しく前を向いて歩く。幸子は、いたってつまらないという顔で過剰に顎を背け、威勢良く歩く。そのとき、夕陽の前にそばだつ山と山との溝を埋めていた雲が、気まぐれに光の道をひらき姉妹の眼をさえぎった。ばかりでなく、絹の雨は赫奕たる夕照を受け、先までけぶるようだった白は花が咲くように赤く映りだし、透き通った紅色の障壁をそこへ築いた。けれども、前だけを向くよう健気に努めていた少女らは、染色された絹など気付かないで静かに去っていく―― やがて、雨は静かに止む。

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