雪女

 むかしむかしのあるところ、白雪を踏みしめ野山をかき分け、盆のように地面に落ちかかるわずかな円い日光を求めた、薄弱な肉体の少年がいて、その成長とともに、ようやくいとけない希望を忘れはじめておりました。山肌に広げられた白い毛氈もうせんを飾るような、色彩の衰えたアカシデや折れかけた枝、橿鳥かけすの屍、地面に伏せる蒲公英たんぽぽ………寒々しい雪町の、そこかしこに香り立つ死から、少年は希望を拾い集め、それをみのにして暮らしていました。少年に、父はもうおりません。母はもうおりません。姉がおります。鼻先が煤け赤らんだ、姉が一人おります。

 野山に建てられた素朴な木造の家は、かわごろもに身を包み細長い猟銃を携えた父がこしらえたもので、母が病気で亡くなるまで、父はその家のことを「城」と呼んでおりました。しかし、母が亡くなってからは麓に買い求めた物珍しい品物を持ち帰って子供らを喜ばせることはなく、ただ闇雲に獣を狩っては、自身が畜生も同然の格好をして、たまさか宵月が棚引く雲霞うんかを伴って空に浮かぶと、孤独に苛まれた狼が一方ならぬ寂莫と憤怒とを乗せて、四方の森々山々へ嘯くかのように、人間を捨てた咆哮で泣き叫びました。ある時、純粋な心で、姉弟が家を出て、父のためにいのこを狩って持ち帰りましたが、既に、家は伽藍堂になっておりました。かつては貧しいながらも寒さを凌ぐために身を寄せ合って、絶望を退けるために笑いあっていた空間は、今や落葉して裸になった樹木より遥かに蕭条しょうじょうたる様相を呈し、二人の心に確かな晦闇くらやみを造りました。

 しかし、自らの隣には、まだ息づいた温かい肉体を抱えて必死に生きんとする家族が存在する、その事実だけが、二人の助けとなって、強かに生きられる効となりました。彼らは街へ降りて、今更世襲の冷淡な視線のもとに己の清らかな肉体を晒すよりかは、父が城と呼んで守り続けた空虚な家庭の象徴を、必死に守り抜くことを選びました。少年は、それ以上を望みませんでした。姉と暮らすこと、城で暮らすことの他に、この世に何の娯楽があって、喜びがあって、仕合せがあったでしょうか。少年は少年である以上、不変の仕合せに身を置く特権が授けられておりましたから、姉とともに、久遠に思われる健康な生を享受することを良しとしたのです。また姉は、年齢と不相応な程に、立派な精神を有しておりました。弱きを庇護し強きにならんとする保護者の皆が持っている鉾のような勇敢さ、盾のような優しさを以て、五尺にも満たぬ矮躯に満ちた慈愛を、弟に注ぎ続けました。

 ですが、何の苦を知ることもなく愛を与る者は、ときに、殊勝な心が鈍って、自身の更なる仕合せのために何の気もなく、人を傷つけるような真似をします。その時が訪れたのは、少年が、青年との狭間に置かれた頃でした。それは、希望を忘れた頃と時を同じくして発露した、無邪気な行いでした。何の見通しも立たぬ希望を蔑み、どれほど不都合でも現実であれば手放しに尊ぼうとする、青年の心の萌芽でありました。

 冬の山でも殊更に寒く、しかも折の悪いことに、冬眠した熊を狩るために姉を伴って出かけた時分に、何の前触れもなく吹雪いて来ました。山の中で暮らし蓄えた知識と感性によって、空模様を占って天候を予測することさえままならぬほどの、まったく予兆のない突然の吹雪でありました。少年は道中にはぐれてしまった姉を探して、おうい姉さんや、おうい姉さんや、と枯れそうなほどに叫びました。吹雪こそ徐々に落ち着いてきましたが、姉の姿はどこにも見えず、そっくり中身を抜かれてしまったように手足の感覚がなくなりはじめ、いよいよ彼が焦りのために、少年らしい涙に咽ぼうとした時です、姉を心配してやまない少年の瞳に、そこだけ雪を避けているかのように奇妙に明らかな明かりが映りました。つくづくと見ますと、それは、「城」と同じように山に建てられた木造の家のようでありました。菱形に歪んだ窓枠に嵌め込まれた硝子を透かして、中の様子がぼんやりと窺われるようでありましたが、霞と影とが踊るような、おぼやかな色彩の移ろいばかりが、少年の瞳に飛び込みました。

 少年はそこに近づこうとするとき、ふいに、その家の斜め後ろの方に、地面に降り積もった雪から、細く白い足が生えていることに気が付きました。少年は、速やかにそれを、姉の足だ、と察しました。

 急いで近づこうとした矢先に、先程の家の明かりがぱっと消え、そこに気を取られたわずかな間に、少年と家との間に、見慣れぬ格好をした少女が、雪のように白い肌を晒しながら、切れ長な龍眼を少年に向けて佇んでおりました。少年はと言えば、すぐ先に姉が倒れていると言うのに、少女の人を蔑んで仕方がないという怪しげな眼差しと、ほのかに漂う快い薫りに魅了され、次第に心臓が昂り、得体の知れない少女に釘付けになっておりました。少女の格好は、恰度少女のささやかな掌のように、美しく花開いた沈丁花ちんちょうげをあしらった小袖を着ていて、銀杏返しに結った、一本一本が清水に現れたの如く清い髪に、柔らかな色の花飾りをつけております。

「おいで、おいで」

 袖に唇を隠して笑うその素振りに、少年の心臓は殊更強く脈打ち始めました。それは、姉と二人きりで暮らしてきた少年が味わったことのない、獣のように荒々しく、駿馬しゅんめのように放埒で、喉元から熱く湯だった血液が迫り上げてくるような感覚でした。それから、腹部の方に篭り始めた熱が、次第にその形状を得て隆起しそうな感覚がしました。

「かわいそうに、寒かったろうねえ。温めてあげるから、おいで」

 三歩ほど、馬鹿馬鹿しいほどに大股で近寄って、ふと少年は鼻腔に流れ込む薫りが一等強まったことに気が付きました。そして、改めてその薫りの妖艶なこと明妙なことに驚きました。少年が味わったことのない、舌の上で軽やかに溶けて、しかもつぶさな甘みで舌を微かに濡らすかのように、甘美な少女の薫りは少年の夢と飢えとを刺激しました。山の麓から数千里と離れた華々しい都の、享楽と欲望に溺れた人々の囁き、呻き、極楽の声、背徳と熱情とを尊ぶ世俗の歓び、彼がまるで知らなかった万斛ばんこくの淫らな夢が、一度きに肺の中へ流れ込んで行きます。ますます、少女の美しさに惚れ惚れとして、既に少年の眼には姉の姿は映っておりませんでした。少女の瞳の奥には幾千もの男を虐げ、その苦吟の声音で欲望を肥やし、霞のような帯を引く雜裾垂ざっきょびそう服と、絢爛に装飾された誓杯せいはいに満ち満ちる甘い酒を愉しみながら、世の中の命という命がすべて潰える終世の時まで、永く君臨する、生まれついた勝利の美がありました。

「おいで、おいで、私の体は温かい。この寒い雪を凌いで体の奥に染み渡るような、温かい体だよ。私の舌は柔かい。豕、熊、虎、豚、猫、龍、滴る血を啜り骨の随まで獲物をいただくいかなる強い生物の蓄えた肉よりも、柔らかく、甘い舌だよ。私の肉体を随まで味わい尽くして、征服の歓びに浸ることを覚えたなら、その者はもう私を求めてやまない、またき肌、甘き舌、温き体、白き腹、まるき踵を………さあ、おいで。おいで――」

 少女の懐へ、辛抱のならなくなった少年が飛び込もうとする、その時でありました。山の木々が突如としてざわめき、小鳥が少年と少女の邂逅を阻むかのごとく群れて流れていき、空はぴかりと晴れて、少女の後方に築かれた城がじょじょに霞まれて行きます。少年が驚いて立ち止まると、彼の前に、両手を広げて少年を抱きしめるようにも見え、また少女の美しい虐遇ぎゃくぐうから少年を守ろうとするようにも見える、母の姿が、ほんの一瞬ではありましたが、たしかに立ち上がったのです。

 はっと気がつくと、少年の頭は拭われたように明朗とし、先程まで少女や家があった方を見向きもせず、一目散に姉に駆け寄って扶けました。姉は気を失ってはおりましたが、体を震わせながら、まだ確かに生きているようでした。少年は何とか姉を担ごうとしたその時、自分の背中を支えようとする手を………かつての父と似ているような無骨な手を感じました。おかげで、自分より大きな姉を担ぎながら、少年はよろけることもなく城を目当に真直ぐ歩むことができました。やがて、少年の献身の効もあって、姉は生き延びることが出来ました。

 それから二人は小さな村へ住処を移すようになるまで、姉と協力をしながら懸命に生き続けました。しかし、少年は吹雪をひどく恐れるようになりました。一瞬でもあの幻惑に魅入ってしまった己の浅ましさを恥じるとともに、ともすれば、父母が凌いでくれたあの魔性を求めて、再び歩みだそうとする己の足を、恐れたからでもありました。

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