宮沢賢治で百合

ボンタ

宮沢賢治で百合

 ある日の暮れの出来事です。


 <五行不明> 空はもうすっかり暗くなり、巨きながらんどうを静かに響かせているのですが、月があんまりにも明るいので、星や銀河はひとつも見当たりません。

「おおい、ええと、あの二人は何と言ったかな」

「ラダネとラパタです」

「よし、そのように呼びかけろ。しかしもう四十五分も経ってしまった」

「だめでしょう」

「だめだろうか」

「きっとそうでしょう」

 警察署長は気まずそうに言いました。すると二人を助けようと集まった町の人はみんな黙ってしまったのでした。

 私はしばらく黒くごうごうと流れる川に目を落としていましたが、やはり諦めをつけて、ささやき声を交わす人込みへと戻っていきました。

 するとどうしたことか、そのとき私の意識や認識は、一人の男性に引き寄せられたのです。交流電燈の青白い光を背に受けてなお黒い、コートをきっちり纏った人です。たしかこの町の学校で農学を教えていた先生です。

 その先生もこちらを見やりました。すると瓶の底から炭酸瓦斯の沸くように、私の内にあるひとつの物語が思い出されたのでした。それは実にこんなお話です。



1.


 ラダネという少女の家は別段貧乏というわけではありませんでした。むしろ周りの人たちと比べたら少し裕福すぎるくらいでした。学校などに行くと自分の生まれや持ちものの優れていることが、なんだか無性に恥ずかしくなってしまうような、申し訳ないような気分になり、そうして、そう考えてしまう自分をまた恥ずにはいられませんでした。

 (ああ、自分なんて生まれなければよかったのに) などともしばしば考えました。が、その度にものの機敏に優れた妹のネリがいろいろと心配してくれるので、やはりその考えを恥ずかしがってしまうのでした。

 ある日、二人はほうぼうの道端で拾い集めてきたどんぐりをみんな臼で挽いてその粉を得ることにしました。ラダネが力を込めてバアを回し、ネリは時々水などをかけてやるのです。

「あたしもやりたい」と愛しい妹が言うので、ラダネは腕まくりを戻して、彼女に臼の前を開けてやりました。

 ネリがラダネのまねをしてまた腕をまくり、いよいよ仕事をしようという時。

「あっ」

 窓から一匹の蜂が入ってきて臼の間に入りました。

「やめて、ネリ」

 しかし制止も間に合わず、蜂は堅い石と石の隙間に引きずり込まれてしまいました。ネリはようやくの臼係に夢中でしたので、制止に気づくのがいささか遅れたのです。

「なんてことを、なんてことを」

 ぶるぶる震えながらラダネは言いました。

「でもお姉ちゃん、蜂だよ、蜂が百匹もただ死んだんならかわいそうだけど、たった一匹なんだよ」

「それがどうしたの」

 ついにラダネは怒って、玄関先から飛び出してしまいました。両の手に六千グレンほどの粉を大事に掬って、それだけの格好で、ただやみくもに走り出してしまったのでした。



2.

 ラダネはぐんぐん走っていました。しかししばらくするともう疲れてきて、駆け足の速度に、そしていつのまにか歩行の速度で前へ進んでいました。でも、それらの瞬間速度を全部足して倍にしても、太陽の落下には追っ付かないようです。あるとき、ラダネは自分が住む町の範囲をすっかり出てしまって、夕暮れの深い山の中にいることに気づきました。

 今からでも遅くないので思い引き返そうとしましたが、そのたびにいじらしいY字路が現れました。ここを通ってきたのならば、果たして引き返しても帰り着けるかわかりません。それにきつく当たってしまったネリにもどう顔を向けたらいいのかわからないのです。本当に途方に暮れてしまいました。

 すると藪から話しかける声があります。

「そこのお嬢さん」

「はい」

「何やら困っておるようですね」

 それは狐でした。それだけでなく、こぎれいな鞄を前足に下げ、きっちりネクタイなんかを締めた狐です。

「狐なんかが何かわたしに御用ですか」

「いえ、あなたこそが私になにかご用事があるのではないですか」

「それはそうです。帰りの道を教えて欲しいのですが。それにしてもあなたは名探偵ではありませんか」

「私を名探偵だと見抜けたあなたもまた名探偵ですな。その通りで私は隣町の探偵事務所をやっているものです」

「では聞きますがどちらへ帰れば家ですか」

「教えて差し上げる代わりにその掌のものをいただきたい」

 ラダネはどきりとしました。両手に湛えたこの粉は、哀れな蜂を挽き込んだうえ、ネリから奪って持ってきてしまったものだからです。

「このどんぐりの粉ですか、しかしこれは灰汁が強くて食べれませんし、かわいそうに蜂のかけらが混ざってしまっています」

 狐は一瞬身構えた様子でしたが、すぐに、なあんだそんなことかと言って笑いました。

「いえ、まったく構いません。私ら動物は森の工場で、粉からわるいものをみんな取ってしまう製法を確立させましたし、蜂に関して言えば私たち普通に食べるのです」

「蜂を食べるのですか」

「棘を抜いて揚げて食べるのです。またはリキュラに漬けて飲むのです。ですからこれも多少は構いません」

「そうですか」

 ラダネは実を言うとすこしほっとした気分になりました。蜂の命が本当の無駄にならずに済んだからです。けれども自分たちだけでは本当に無駄にする計画だったことに気づいて、再び元の暗澹を感じました。狐はそこまではわからないようでした。

「確かに受け取りました。してどちらへお住まいですか」

「丁度イギリス海岸町のマイナス一番に家があります」

 狐はぎくりと聞こえてきそうなくらいに背を伸ばして驚きました。

「イギリス海岸町のマイナス一番地! そんな土地は聞いたことがない」

「でもあなたは名探偵ではなかったのですか」

 狐は急にまた藪に隠れてしましました。それからおびえた声をあげました

「本当は名探偵などではないのです。私はモーリアのしがない会社勤めです。けれどもどんぐり粉を焼き菓子の具に欲しいから、このように嘘をついたのです。モーリアの街なら行く先にありますから、それでどうか許してください」

 ラダネはもうくたくたに疲れていましたし、様々な方角に負い目もあるので、仕方なくその助言に従うことにしました。もう空には青白い星がぱちぱちとはじけてまたたき始めています。


3.

 ラダネはモーリアの街にしばらく泊まって、あらためて家へ帰る道を探すことにしました。博物館にキュストという親切な人がいたため、そこの小さな宿舎に寝床をもらえることになって安心したものですが、博物局の十八等官の人も十七等官の人も十六等官も、誰もイギリス海岸町という場所を知りませんでした。あとはラダネより少し下くらいのラパタという少女がいて、ラダネは無性に可愛らしく思ったり、また喧嘩別れした妹ネリを重ね見て苦々しくなったりしたのですが、ラパタも当然のようにイギリス海岸町を知りませんでした。

 それを確認してラダネが落ち込むたび、ラパタは必ず横から励ましてくれるのです。「ラダネは遠いところから来たのかもしれないけど、あたしの方が声もよく通るし、足もはやいんだから、ね、きっと故郷の人たちに知らせてあげられるよ。だからこれは競争だね」

 ラダネが名前の近さ以上に、心の近さを感じたのも、無理はないかもしれません。


4.

 そんな日々がどれほど続いたか、わかりません。三日や五日ばかりだったかもしれませんし、あるいは一年くらいあったかもしれません。しかしどちらも銀河や星雲の規模からしたら一瞬です。

 二人はある雨の日、博物館内を掃除していました。標本の間を行ったり来たりしてほこりを払うのですが、ラパタはなににつけても競争が好きな性質を持っているので、どんな不気味なホルマリン瓶でも、するするとさすってしまい、そしてラダネに満足げな顔を見せるのです。ラダネはそれを可愛らしく思いながらも、おっかなびっくり丁寧に、後からほこりを払っていくのでした。

 そんな中で、ラダネは棚の隅に干からびた蠍が死んでいるのを見つけました。蠍というのはいつもそれなりに大きな生き物ですが、この蠍はまだ子供で、それにすっかり水分が抜けてほんとうに小さくなっていました。だから誰にも気づかれなかったのかもしれません。

(それにしても、なんでこんなところで死んでいたんだろ)

 日の光がいやだったとか、食べ物をかくまっていたとか、いくつか理屈をつけてみても、これという事はわかりません。しかし、考えるのをやめるわけにはいかないようでした。どこかあの蜂の死に際が、地層を縦に食い破って、足元のすぐそこまで石炭脈を作っているようでした。

 ラダネはラパタに、思い切って訪ねてみることにしました。

「ラダネ、それはこの蠍の坊やしか知らないことだね」

 ラダネは妙に納得できました。彼女が言うと、物事が一気に簡単に考えられる気がしました。けれどもすこし変だなとも思いました。

 なぜならラパタは生き物が死ぬということが、まだよくわかっていなかったからでした。様々な人々と、同じくらいに生きていない標本に囲まれて育ったからかもしれません。ラダネは思わず、無邪気に走り去ったラパタの座っていた場所を触りました。大きなアンモナイトの化石立像は、ストーブを遠くから浴びたみたいに温く、ラダネは小さくため息を漏らしました。



5.

 これはそれから数日後のことです。博物館の小さな宿舎へ、いつかの狐がやってきました。ただ事でない様子です。

「あんたのラパタが川に落っこちた! お、おれ、私のせいだ!」

「一体どういうことですか!」

「俺はその………私はその、ラパタさんにいつものようにイギリス海岸町の位置を聞かれたので、じゃあ大ぶりのどんぐりをとってきてくれたら引き換えに教えようと言ったんです。そしたらそこまでしなくて良いのに、どんぐりを採るためむりやり橋のない川を渡ろうとして………。ええ私は必死に止めたんです」


 その場所に駆け付けると、ラパタは幾日前かの雨も加わった激流に流されつつも、どうにか岩に引っ掛かって、必死で耐えてくれてくれているようでした。しかしその片手は真っ赤に腫れていて、もう片方はにぎりしめたまま、岩さえつかんでいません。

「ラパタ! いま行くから!」

 ラダネは流れの速さをざっと計算して、ラパタの少し上流から飛び込みました。その音すら、ごうごうごうと流れる川の響きに負けています。

 水や木の枝や石にめちゃくちゃにもまれながらも、ようやくラダネはラパタの掌をつかみました。

 二人の手が合わさります。

「あっ」

 流れに丸っこいものが流されていきました。

「どんぐりが!」

 ラパタはこの茶色い小さい塊たちが、イギリス海岸町への大事な鍵だと、まだ信じ込んでいるようでした。だから両手で岩をつかもうとしなかったのでした。

「どんぐりはもういいんだよ、ラパタ、どんぐりも、イギリス海岸なんてのももういいの。いいんだよ」


 ラダネは本当に心からそう思いました。

 流れはどんどん強くなり、やがて水面が穏やかになるころには、そこには何もありませんでした。






6.

 ここまで思い出したところで、ふと、果たして自分はなぜこれを知っているんだろうと考えました。誰も知りえないような場面場面を、どうしてこのように思い出せるのか、どうしても理論が付きません。いや、何故だか、どこかの女の子が、日記をつけている私のもとに素早く駆け込んできて、この出来事を知らせてくれたからこそ、この現場へ来たような気がしてきます。答え合わせをしたくてふとあの農学の先生を眼で探しましたが、なぜだかどこにも見当たりませんでした。

 イギリス海岸町の夜は更け、石だらけの河原から人だかりが消えようとしています。ほんとうのイギリス海岸は川の岸辺なのでした。

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