翠の竜頭

安良巻祐介

 

 午後、紋章学の講義を受けている途中でうとうとして、硝子の向こうで降りしきる雨を感じながら、教員の言葉をごく断片的に聴き流していた。

 ……記された文字には、螺旋性がある……渦を巻きながら、中心へ向かおうとする……黄金の円形……真実の口……ねじまき行為の可視化……老神像の皺に見られる規則性……アラベスクやペイズリーのモチーフ……

 ふと気付いて見ると、どういう意図のものか、教員はホワイト・ボードに奇妙な絵を描いていた。

 それは、細長い体をした蛇のようなもので、ゆるい弧を描きながら、真ん中へ巻いている。

 先端には、ひげのある小さな顔がついていた。目鼻に耳もある、髪の毛もある。しかし、小さいせいか、表情と言うものは読み取れない。ただ、くっついているだけ、といった感じだ。

 これは何ですか、と改めて尋ねようとした瞬間、チャイムが鳴った。教員はさっさとボードの絵を消して出て行ってしまった。

 次々と学生たちが外へ流れ出し、見る間に部屋の中は僕一人になった。僕も一足遅れて外へ出る。

 外は霧雨になっていた。

 中庭を透かして、大学図書館がぼんやりとかすんでいる。折りたたみ傘をさして、そちらへ向かって歩いて行った。

 通常授業のない連休中と言うこともあってか、図書館内に人は少なく、がらんとしていた。

 カウンターの司書が、眠たそうな顔で、時計をゆっくりと締め直しているのを眺めつつ、階段を上って行く。

 特にあてがあるわけではない。何となく、文庫のある二階へ入った。

 部屋の奥、壁際の方、I文庫の並んでいる棚の前へ行く。

 僕はこの文庫の、色で分けられた背が好きだ。

 赤、青、緑、黄。簡単な矩形、明確な色調が、かえってその奥に潜む言葉の幾層もの重なり、雑多さを想起させてくれる。

 書棚特有の、乾いたような匂いを鼻腔へ入れながら、僕は、それらの背を、眺めるともなく眺めまわしていた。

 その時、妙な事に気付いた。

「緑」の棚の端の方に一冊、色合いの微妙に違う背の本があったのだ。

 透き通った、薄い、緑というよりは、翠に近い色合いになっている。

 よほど古いものだろうか。そう思いながら抜き出すと、驚いた。

 本の表、タイトル部分に入っているのは、普通のものとは明確に色の違う、綺麗な翠緑色であったからだ。

 それどころか、僕の目を奪ったのには、その翠の部分が、硝子のように、透けている。

 タイトルの文字列はというと、幾らかの厚みを持って、その翠の硝子色の中に埋まっている。水羊羹に入れた蜻蛉玉とんぼだまのように。

 その、透けている部分の厚みが、どう見ても本文に食いこんでいるように思われるのだが、不思議な事に、その分だけページの中身が見えるということもない。

 代わりに、その奥には、薄い鍵盤のような白い列が並んでいる。そして、鍵盤の周りに、細かな文字、和文に欧文、約物などが、向きも位置もばらばらに、散らかっているのだ。

 僕は熱心にのぞき込みながら、やがて、目を見開いた。

 翠色の中を、鍵盤の上を、文字群の間を――何かが蠢いている。

 しゅるしゅると渦を描いて、くるくると弧を描いて、螺旋運動を繰り返して。

 それは、一見すると、時計種のぜんまいの機構か、昆虫のからだに棲み付くクサリムシのたぐいかに見えた。

 しかし、僕は見た。

 蠢くその細長いものの尖端に、人の顔がついているのを。

 目鼻があり、長い髭を生やし、口元には謎めいた微笑を浮かべている、その顔は、僕の手の中で、翠の本の中を動き回りながら、中心深くへと潜り込んで行こうとしているように思われた。…


 ふと気が付くと、I文庫の棚を離れて、一階の寄贈図書の合間に立っていた。

 慌てて階段を上がり、元の場所へ行ってみたが、そこにはいつも通りのI文庫が、いつも通りの色合いを連ねて、並んでいるばかりであった。

 しまった、逃げられた…直感的に、そう感じた。あの、竜のような何かの棲んでいた本は、既にここにはないのだと悟った。

 瞼の裏に、あの翠色が染み付いていた。硝子のように透き通った、あの不可思議な翠の色が……


 上記の図書館での一件は、いわゆる比喩表現というものであり、本当の体験ではない(僕の大学にはそのような図書館はなかった)。

 けれども僕は、確かに上のような感覚をして、以来、その本に取りつかれている。あの、特別製のI文庫に。紋章の龍がとぐろを巻いた、あの本に。霊液に浸した脳髄標本のような、あの綺麗な翠の色に。

 何度も夢に見ては、探し続けている。

 そして、どこか夢想的な、ふらふらとした人間になってしまったのである。

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翠の竜頭 安良巻祐介 @aramaki88

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