後編
休日、僕はかりていた映画を返すためレンタルショップへ行った。ちょうど楽しみにしていた新作がレンタルできるようになっていた。残り一本しかなく、かりられたのはラッキーだった。
帰り道、街の図書館の前を通りかかった。ふとトウコが夢中になっている本を読んでみようと思った。こっちの世界の彼女と仲良くなるきっかけになるかもしれない。
受付にある端末で本がある場所を検索した。書架にたどり着くと、あのシリーズの本がずらりと並んでいた。ただトウコの部屋にあった巻は見あたらなかった。こっちの世界の彼女がかりているのかもしれない。
僕は本に手を伸ばした。すると隣からすっと伸びてくる手があった。振り返るとそれは猫のような瞳が印象的な女の子だった。
トウコだ。僕は思わずいつもの口調で話しかけてしまうのを踏みとどまった。こっちの世界のトウコとは初対面なのだ。これは大きなチャンスだ。僕は記憶を検索し、ゆっくりと話しかける。
「君もこの本が好きなのかい?」
トウコは少し驚いた表情を見せ、顔を赤らめながらうなずいた。僕はシリーズの最初の巻を手に取り、彼女は続きの巻を手に取った。僕は今気づいたみたいに言う。
「間違っていたら申し訳ないのだけど、君って同じ学校の子じゃないかな?」
僕は簡単に自己紹介をした。学年とクラスを言うと、彼女は再び驚いた。
「全然気づかなかった。教室が離れているからかな」
「僕がたまたま記憶に残っていただけだよ」
本をかりる手続きをし、僕たちは出口に向かってなんとなく一緒に歩いた。図書館を出ると、彼女は振り返った。
「また学校で会えるかもね」
「もしくは図書館で」
僕は笑って答えた。彼女は小さく笑い、小走りに僕から離れていった。僕は彼女の姿が小さくなるのをしばらく眺めていた。
家に戻ると、僕はふすまをノックした。
「何か用?」
トウコは部屋に寝転がっていた。手には本が握られていたため、足でふすまを開けたようだ。僕は頭をかかえた。さっき出会った女の子の正体がこれだ。
「君が話してくれた本を図書館でかりたよ」
彼女は体を起こし、「へえ」と感想を述べた。ぶっきらぼうではあるが、その表情の中には喜びの感情が隠されていた。彼女が手にしている本を見ると、こっちの世界の彼女がかりたものと同じであった。世界は分岐しているが、それぞれ同じように進んでいるらしい。
並行世界のトウコが本を読み終えたタイミングで図書館に行くと、こっちの世界のトウコに会うことができた。何度か会っているうちに、僕は顔見知りから友達へと昇格した。僕は彼女の気を引くため、はまっている小説の魅力についてよく話した。
「私もその通りだと思う」
僕の言葉に彼女は驚いた。並行世界のトウコの受け売りではあったが、僕もすっかりこのシリーズを好きになっていた。
「デートで行きたい場所ってあるかい?」
そろそろこっちの世界のトウコをデートに誘ってみようと思い、並行世界のトウコに意見を求めた。
「とりあえず、ここのカフェでランチを食べて――」
彼女はおすすめのデートプランについて話した。こっちの世界の自分が誘われるとは思いもしないだろう。
「なんだが甘いものを食べてばかりじゃないか?」
「いや、ここは外せない」
プランはなんとかまとまった。トウコに礼を言うと、交換条件を求めてきた。
「前に話してくれた映画を見せてくれない?」
彼女は僕の話に興味を持ち、新作をかりようとしたがすべて貸出中だったそうだ。僕は部屋にあるプレーヤーとテレビをふすまへ近づけた。部屋の電気を消し、映画を再生した。彼女は僕の背中越しに映画を眺めていた。まるで小さな映画館でデートしているようだった。
僕はプラン通りにデートを実行した。こっちの世界のトウコは喜んでいるようだったが、食べる量は控えめだった。並行世界のトウコだったら、お腹が痛くなるまで食べていたことだろう。
その後も並行世界のトウコにアドバイスを求め何度かデートを続けた。
「私たちすごく気が合いそうね」
彼女はデートの度に言った。本人の希望通りなのだから当たり前のことだった。僕たちの仲は着実に深まっていったが、テストでカンニングをしているような複雑な気持ちになった。
今回のデートでは古本屋をめぐった。好きなシリーズをなるべく安く手に入れようと、街中を駆け回った。すべてを見つけることはできなかったが、結構な数をそろえることができた。
『重たい荷物があれば、家の近くまで持つように』
並行世界のトウコの言葉が頭の中に響いた。僕は本を両手にかかえ、彼女を家まで送ることにした。
「実はちょうど家の建て替えをしててね。今住んでいるところは仮住まいなの。狭くて小さなアパートに家族ですし詰めだから疲れたわ」
「いつ建て替えが終わるんだい?」
「もう完成したみたい。週末引っ越す予定」
彼女は嬉しそうに笑った。並行世界のトウコとは違うやわらかい表情だった。
きっと並行世界のトウコの引っ越し時期も同じだろう。仮住まいに引っ越してから四ヶ月が経とうとしていた。それは並行世界のトウコとの別れを意味していた。
アパートの前につくと、トウコは礼を言って本を受け取った。そのまま帰ろうとすると、彼女に呼び止められた。
「シュンは付き合っている人はいるの?」
「いないよ」
僕は首をふった。彼女は緊張した声で言う。
「それなら、私と付き合ってくれないかな?」
どこか予感していた言葉だった。とても嬉しいはずが、僕の口からは自分でも予想外の言葉が溢れる。
「ありがとう。少しだけ考えさせてくれないかな」
彼女のことは好きだったが、僕の心のどこかが先へ進むのをためらっていた。彼女は僕の言葉にとても驚いていた。その場で良い返事をくれるものと予想していたのだろう。
「突然だったものね。ゆっくり考えてくれていいよ」
彼女は力なく笑った。僕は黙ってうなずくことしかできなかった。
「ついに家が完成したわよ。週末に引っ越しするから」
家に戻ると母は嬉しそうに言った。
引っ越すことを並行世界のトウコへ話すと、「実は私も」と答えた。
「ようやくこの不思議な生活も終わりだ」
僕は無理に明るく言った。だがそれは思った以上に暗い言葉となって辺りに響いた。彼女が弱い笑みを浮かべて言う。
「並行世界がつながっているのは、お互いの世界にほとんど違いがないからなんだろうね。でもこの先色んな違いが出てくる。そしてまったく別の世界になってしまい、並行世界への扉は消えてなくなる」
彼女は世界の境界をなでるように手のひらを動かした。
最初は仮住まいの場所だけだった違いが、今ではどんどん増えている。こっちの世界で僕はトウコと知り合いになり、トウコは僕のことを好きになっていた。並行世界の僕とトウコの関係とは大きく異なっているだろう。
「並行世界がこんな簡単にできるなら、私たちの間に起こったことはめずらしくないのかもね。身近にある扉をそっと開けると、不思議な世界に出会うことができる」
彼女は言葉を区切り、小さく息を吸った。
「でも完全に分岐してしまうと、並行世界とつながっていた記憶は失われるんじゃないかな。友達と思い出を話していると、記憶の食い違いに驚くことはない? もし単なる勘違いではなくて、並行世界で友達と会って聞いた話が記憶の片隅に残っている――そうだとしたらおもしろいね」
僕は彼女の妄想を笑うことはできなかった。世界の命運をかけた戦いではなく、賃貸契約の順番だけで世界は分岐したのだ。今まで忘れているだけで何度も分岐していたのかもしれない。僕が抱いているこの気持ちも消えてしまうのだろうか。
「小説は忘れず全巻読むように」
「君こそ映画の新作は忘れずチェックしなよ」
僕たちはしばらく笑いあった。
「さてと」
彼女は背伸びをし、猫のような瞳でするどく僕を睨む。
「引っ越しの準備で部屋に荷物を広げるから、しばらくふすまを開けないでね」
「いつもちらかってるくせに」
僕は肩をすくめて言った。
「そこ、うるさいわよ」
トウコは勢いよくふすまを閉じた。世界の向こう側から「さようなら」と聞こえた気がした。
その日からトウコが荷造りする音が夜遅くまで響いていた。ふすまを開けなかったため話す機会はなかったが、まだ並行世界とつながっていることに少し安心していた。こっちの世界のトウコからの告白の返事はまだしていなかった。並行世界のトウコへの思いを解決しないことには、僕はどこへ行くこともできない。
引っ越し当日、仮住まいから荷物がどんどん運ばれていった。空っぽになった自分の部屋を見渡すと、ここで起こったことは全て幻だったのではないかと思った。僕はふすまをノックした。
「トウコ、いるかい?」
しばらく待ったが、返事はなかった。僕はふすまをゆっくりと開けた。そこにはこちらと同じ空っぽの部屋があるだけだった。僕は隣の部屋へと手を伸ばした。手は部屋の境界を越えることはできなかった。不思議な世界への扉はまだ開いたままだ。だがトウコはもうそこにはいなかった。
「君のことが好きだ」
僕は誰もいない部屋に向かって言った。
「最初はなんて口の悪い女の子だ、とびっくりした。だけど話しているうちに不思議な心地よさを感じるようになっていった。そういう楽しい記憶の積み重ねが好きという気持ちに変わったんだと思う」
僕はこれまでトウコと話した内容を思い出そうとしたが、具体的に思い出すことができなかった。記憶に残らないようなくだらない話しかしなかったのだろう。楽しかったという思いだけが心に強く残っていた。
「だがこの恋は時間や場所に制限がありすぎた。家の建て替えが終われば引っ越さなければいけないし、毎日会えるけど君とどこかへ出かけることもできない。だから僕はこっちの世界の君と仲良くなろうと思った。君のアドバイスは本当に参考になったよ。こっちの世界の君はとても喜んでくれた。本人がアドバイスしているから当然か」
僕は小さく笑った。
「だがこっちの世界の君と仲が深まるにつれて、僕は自分の気持ちが分からなくなった。おしとやかな君も決して悪くない。だが僕が好きになった女の子は、時にはクッションを投げつけてくるような口の悪い子なんだ」
僕は「さようなら」とつぶやき、ふすまに手をかけた。
すると、突然目の前にトウコが現れた。
「うわ!」
僕は思わず尻もちをついた。
「まったく、何やってるのよ」
彼女は顔を赤らめながら言った。
「なんでいるんだよ」
「いたら悪い? ノックの音が聞こえたからふすまの陰に隠れてたのよ」
境界を越えられない僕にとって完全に死角だった。もし顔をのぞきこめていたら、彼女が隠れていることにすぐ気づいただろう。
「驚かそうとしばらく待っていたら、変な話がはじまったから出るに出れなくなったじゃない」
彼女は再びふすまの陰に隠れた。
「何隠れてるんだよ」
「顔を見ると恥ずかしいから」
トウコは小さくつぶやく。
「私も好きよ」
彼女が部屋を出ていく音が聞こえた。僕は隣の部屋へと手を伸ばした。すると今度は何なく境界を越えた。僕はゆっくりと隣の部屋に入り、中を見渡した。そこにはもう誰もいなかった。
僕は仮住まいを後にし、建て替えられた家に向かった。新しい僕の部屋にはクローゼットがそなえつけられていた。念のためノックをしてから開けてみたが、どこにもつながっていなかった。
僕は部屋の真ん中で仰向けになり、並行世界のトウコのことを考えた。
『完全に分岐してしまうと、並行世界とつながっていた記憶は失われる』
彼女は言っていたが、記憶はまだ残っていた。やはり彼女の妄想だったのだろうか。あのときは忘れてしまうのが怖かったが、今は忘れられないことが怖かった。
瞬間、頭の中に不思議な記憶が流れ込んできた。
『あなたもこの映画が好きなの?』
ある日のレンタルショップ。楽しみにしていた新作がレンタルできるようになっていた。残りの一本を手に取ろうとしたとき、トウコとはじめて出会った。
『ねえ、今度映画を見に行かない?』
僕がレンタルショップに行くと、よくトウコと出会った。何度か会っているうちに、彼女からデートに誘われた。その映画は僕が見たいと思ってたものだった。すごく気の合う女の子がいるものだ、と僕は驚いた。
『ありがとう。少しだけ考えさせてくれない』
何度目かのデートの帰り道、僕はトウコへ告白した。その場で良い返事をくれるものと予想していたが、保留されてとても落ち込んだ。
どれも僕が経験していない記憶だった。これは並行世界の僕の記憶だ。僕と同じように、並行世界でトウコは僕との仲を深めていたのだ。
「隠れてこんなことをしていたとはね」
僕は思わず苦笑した。でもなぜ急に並行世界の記憶が流れ込んで来たのだろうか。
「もしかして――」と僕の頭にある可能性が浮かんだ。
こっちの世界でトウコは僕に告白し、並行世界で僕はトウコへ告白した。それぞれの世界で一方通行の告白になっていた。だが先ほど僕とトウコが自分の気持ちを話したことで、どちらの世界でもお互いが告白したことになった。
そしてどちらの世界でも、僕たちは仮住まいを出て新しい家に引っ越した。
「――こっちの世界と並行世界の状況は完全に一致している」
並行世界への扉が消えてしまったのは、お互いの世界が完全に分岐してしまったからだと考えていた。だが実際に起こったのは世界の統合だったのだ。流れ込んできた記憶がそれを証明している。
四ヶ月前、彼女の後をつけたときに立ち寄った解体中の家。そこに彼女がいるはずだ。僕は家を飛び出し、懸命に走った。
トウコの家へ近づくと、家の前に人影が見えた。それは猫のような瞳が印象的な女の子だった。
「遅い!」
「結構、頑張って走ってきたんだけど」
僕は息を切らし、ひざに手をついた。彼女は僕をするどく睨んでいた。この表情、口の悪さは間違いなく並行世界のトウコだった。
「でも来てくれてありがとう」
トウコが嬉しそうに笑った。こっちの世界のトウコが見せるやわらかい表情だった。二人のトウコが僕の目の前に存在していた。
「ねえ、一つ確認しておきたいんだけど」
「なんだい?」
記憶というのはとても曖昧だ。友達と思い出を話していると、記憶が食い違っていることに驚く。お互い真実だと言ってゆずらないが、どちらかが間違っているのだろう。
『並行世界の友達に聞いた話が、思い出となって記憶の片隅に残っている』
トウコは言っていた。だが僕は少し違うと思う。記憶の食い違いが起こるのは、並行世界と統合された結果なのかもしれない。
「シュンから告白し、私が受け入れたってことでよいのよね?」
「違うよ。君から告白し、僕が受け入れたんだよ」
この先、分岐していたことを忘れ、また僕と彼女の間で世界が分かれることがあるだろう。デートの行先といったつまらない理由で起こるかもしれないし、進学先や就職先といった重要な理由で起こるかもしれない。だがこの気持ちを忘れなければ、僕と彼女の未来は必ず交わるはずだ。
「まあいいわ」
彼女は再び微笑み、僕に向かってそっと手を伸ばした。
僕も彼女に向かって手を伸ばす。するとお互いの手のひらがぴたりと重なり、僕たちの間に境界が存在しないことを知る。
並行世界のルームメイト 篠也マシン @sasayamashin
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