アメリカの彼女のことなんて、もう忘れた

海みのり

『アメリカの彼女のことなんて、もう忘れた』





「こんなに切っちゃって、大丈夫?」


「はい、大丈夫です。なんならもっと切ってください。」


鏡の中には今までとは完全に違う私がいた。望んだ通りだ。ベリーショート。耳まで出ている。


中学一年生の頃からお世話になっている馴染みの美容師さんは、私の中で何かの変化があったことに気付いてはいるが、あえて聞いてはこなかった。


そういうところがいい。


「もうすぐ受験だね。志望校は決まったの?」


「まだ、志望校はあやふやなんです。だから、勉強があまりはかどらなくて・・・。」


でも今日からはかどりそうだ、と私は内心思っていた。


「はい、出来たよ。気になるところは無い?」


「ないです。ばっちり!」


美容師さんは椅子をくるっと回した。床一面が切手髪の毛で真っ黒になっていた。


 「ありがとうございました。すごく、気に入りました。」


 「それは良かった。またね。」


 美容室を出て家までの帰路につく。


9月の雨上がり。


雨が汚れを全て流していった後だから、空気はとてもきれいだった。


まるで私の心のようだ、と思った。


私の様々な感情が入り混じっていた、切られた髪の毛はもう今頃、美容室の片隅に片づけられている。


後は捨てられて、きれいさっぱり無くなってしまう。私の心もまるでそんな気分だった。









 「海ちゃんのことが好きです。僕と付き合ってくれませんか。」



私はたぶん真っ赤になっていた。自分からは見えないけれども。


知(とも)の言葉は何となく予想はしていたけれども、自分でも想定した以上の大きな反応が私の身に起こった。


全身の血液が全力で流れ始めた。


そして、泣きたいような、笑いたいような、何とも言い表せられない感情に襲われた。


そして、私の心臓は、胸の周りの狭い骨の間のスペースでは足りないと、すぐにもそこから飛び出しそうだった。


いや、回りくどい言いまわしはもう止めにしよう。


すなわち、私は嬉しかったのだ。


知の言葉がとても嬉しかった。


今まで生きてきた十七年の中で、味わったことのない種類の嬉しさだった。



なんだか、自分の弱いところも、汚いところも、ずるいところも、そして、正直なところも、素直なところも、実は可愛らしいところも、その全てを認められた気がした。


その、全ての私を構成する要素を含めた私のことを、まぎれもないこの私のことを、知は好きと言っているのだ。


そんなことって、あるのだろうか。


そんなに素晴らしいことって…。





 しかし、しばらく知の言葉の余韻に浸った後、私は真面目に考えなければならないある問題に直面していることに気が付いた。


それは、「なんという返事をするか」問題だ。


先ほどはかなり詩的な表現で自分の感情を表現したが、こういう事実がある。それは、「私はそれほど知のことを異性として好きなわけではない」ということである。


私はまだ十七歳の女の子だ。私が漠然と憧れているのは、知ではなく、隣のクラスのある男子。


その男子はちょっと古い言い方をすると「みんなのアイドル」的存在だ。


イケメンで、バスケ部のエースで、勉強もできる。


爽やかな笑顔の彼だ。


しかし、あまり話したことはない。


一方で知はというと、勉強はできて、優しくて真面目なことは知っている。でも、大人しくて目立つタイプではないし、教室の端の方で優しく静かに微笑みながらみんなを見守っているようなタイプだ。


そんな知のことを好きな女子もいるみたいだけど、私は違った。


したがって、私は「なんという返事をするか」問題に直面したのだ。





高校二年生の全ての授業を終えた私たちは、大学受験までもう一年を切った私たちは、自習のために春休みの学校に集まっていた。


一緒に勉強をしていたみんなはもう帰ってしまった。


知も先に帰っていた。私は数学の問題で、どうしても答えが分からないものがあり、しばらく居残って考えていた。


それでも答えは出ず、いい加減あきらめて駅へと向かった。


雪は大分融け、アスファルトが見える部分が増えていた。


長い長い冬も、やっと終わる気配を見せていた。


知は私のことを待っていた。まだ寒い駅の中で。


「海ちゃん、ちょっと話していかない?」


私たちは駅の近くを流れる川の河川敷をなんとなく歩いた。


まだ雪は残っているけれど、ランニングをするランナー達にとって、それは少しも問題が無いようだった。


何気ない会話。受験のこととか、ちょっとした家族の話とか


。知は少しはにかみながら、でもいつも通り淡々と話した。


たまにユーモアを交えながら。


そして、周りに人があまりいなくなった時、知を取り巻く空気の色が変わった。


私でも気づくくらい劇的に、急に。


こんな真剣な、何かを覚悟しているような雰囲気の知を私は初めて見た。


そして、飛び出したさっきの言葉・・・。


「僕と付き合ってくれませんか。」


我を取り戻した私は知の発した言葉に何と答えればよいのか、知の真剣すぎる眼差しを浴びながら、あくまでも心の中だけで必死に考えていた。


保留にするのは良くない、とどこかで読んだことを思い出した。


相手に失礼だから。


その場で答えを出すことがお互いのためだと、私も納得していた。


それでは、なんと答えようか。


私は知のことを嫌いな訳ではない。


勉強ができて、努力家で、まじめな知のことを一種の尊敬の念を持っていつも見ていた。


でも、異性として意識したことはあまりなかった。


私たちを近づけた、共通の趣味は音楽鑑賞。


とは言っても、知の方が音楽をよく知っていて、いつも私の知らないアーティストを教えてくれた。


洋楽の人とか。


そして、私の方がそのアーティストをより好きになることが頻繁にあった。


音楽の話で盛り上がりながら、学校から途中まで一緒に帰ることも最近はよくあった。


しかし、まさか知に告白されるとは。


知が私のことを嫌いではないことは感じていた。


私も知のことをそう思っていたから。


しかし、私は漠然と隣のクラスのバスケ部のことが好きなくらいで、猛烈に好きな人は今いなかった。


しかし、もしも知の告白を断って、今までのように知と音楽の話ができなくなることは寂しかった。


生活の中から知がいなくなってしまうということは想像が出来なかった。





知の告白からここまで考えるのに、約3秒。そして、私はこう答えた。



「私で良ければ、お願いします。」



これは私にとって、人生最高の、いや、人生最悪の決断だった。たぶん。今のところ。






 こうして私たちは晴れて彼氏彼女になった。


お互い、初めての恋人。十七歳。


知はとても優しかった。とんでもなく優しかった。


私たちは毎日学校から一緒に帰った。


付き合う前と同じように、他愛もない話をしながら。


そして、知に教えてもらいながら、一緒に勉強も頑張った。


おかげで私のテストのクラス順位は、知と付き合ってから半年で二十番も上がった。


元の私の成績は聞かないでね。


知は相変わらずクラストップだったけれども。


放課後、学校に居残って勉強をし、駅で少し話してから別れ、家に帰っても寝るまでメッセージの交換をした。


朝起きてメッセージのやり取りを再開。


それが私たちの生活だった。


付き合ってみると、知は本当にいい奴だった。


最初、付き合うことに少し乗り気ではなかったはずの私の中で、気づけば知は全ての中心になっていた。


一人で居るときも、知を思い出して動悸が激しくなったり、にやけたり、もう、言うならば完全に完全なる恋をしていた。


知に恋をしていた。いや、恋なんて言葉では足りない。


私たちはまだ半分子供だけれども、これが唯一のものだと確信していた。


そして、今まで味わったことのなかった種類の幸福を、身をもって感じた。


親から受ける安心感や、分かり合える友人から得られる密度の濃い時間、それらのどれとも異なった、愛される喜びとでも言うのだろうか。


こんなに幸せなことがあっていいのか疑う程だった。


自分なりに今まで経験してきた、辛かったことや悲しかったこと、それらの全てが知と出会ったことで報われた気がした。






 昔を思い出すと、いろいろなことがあった。



付き合い始めて一ヶ月目。


新しい学年になっても私たちの仲は意外にも変わらなかった。


すぐに別れてしまうかも、と最初は少し心配していたけれども。


というのも、この時期私はだんだんと知のやさしさに触れ、惹かれていき、知に対してこう思い始めていた。


Maybe I like you.(たぶんあなたのことが好き)。





付き合い始めて二ヶ月目。


新しい学年にも慣れてきた五月。


春の陽気がやっと北国にも訪れた。


春の訪れと同時に、長い閉ざされた冬から解放された私たちはある日、河川敷を散歩していた。


ランニングのランナー達を阻む雪はもうなくなった。


彼らは自由に、思いのままのフォームで、どこまでも走っていった。


そんな時、知の左手が私の右手に少し触れた気がした。


気が付くか気が付かないかの境目のような感触だった。


それから一秒くらいの間をおいて、今度はしっかりと知の手が私の手を握った。


私たちは、あの颯爽と駆け抜けるランナー達のように、また一つ、新たな自由と喜びを手に入れた。




付き合って三ヶ月目。


私の中にはもう知しかいなかった。


六月は人を幸せにする気がした。


派手さはないが、どこか人を包み込む。


慰め、優しく労わる。


それが私の中の六月だ。


まるで知のようだと思った。


そういえば、知は六月生まれだ。


だからか。


I don’t deserve you.(私はあなたに値しません)。


英語の受験対策用参考書の一部に書かれていたフレーズ。


先生の話ではあまり受験では重要そうではなかったけれども、このフレーズの意味を知ったとき、一人の人物しか思いつかなかった。


I don’t deserve you. (私はあなたに値しません)。


今の私の気持ちだ。





付き合って四ヶ月目の7月。


私の知に対する気持ちは、相変わらずだった。


こんなに一人の人に対して、強烈に好きな気持ちを持ち続ける才能があったなんて、全く知らなかった。


一番覚えているのは、二人で夏祭りに出かけたこと。


小学生の頃ぶりに私は浴衣を着た。


インターネットで浴衣を着る方法を調べて、自分でなんとか着られた。


学校の近くの大きな公園での夏祭りは、人でごった返していた。


町で一番大きな夏祭りだ。


年に一度のイベントに、遠くから来ている人たちもたくさんいた。


私たちは出店が両脇に並ぶ道を人にもまれながらなんとか歩いた。


その時、人ごみの間に私は、クレープの屋台を見つけた。


「ねえ知、クレープの屋台に行きたい!」


私は知にそう言って、握っていた知の手をクレープの屋台の方向に引っ張った。


その時だった。


少し距離が出来た私たちの間に、人の波がものすごい勢いで割り込んできた。


私たちの繋いだ手は、その力に耐えきれなかった。


そして、私たちの繋いだ手は、離れた。





 付き合って五カ月目の8月。


北国と呼ばれるこの場所にも、それなりに暑い夏は来る。


受験生である私たちにとっては、いわゆる、「勝負の夏」だった。


自然と私たちも、勉強に熱を入れるようになった。


そして、知への気持ちは、全く冷める気配を見せなかったけれども、ある日、知からこんな提案があった。


「しばらくは勉強を頑張ろう。今のこの時期は、人生を左右する時期だから。後悔する結果にはしたくないから。受験が終わったら、またいくらでも一緒にいられるよ。」


私は納得した。

私にとっても大事な時期だけれども、成績優秀でかなりレベルの高い大学を目指している知にとっては尚更だろう。


ただ、私の中には当然、寂しい気持ちもあった。


知と会う時間が減ることに我慢出来るかは分からなかった。


でも、やってみなくちゃ。


知の足を引っ張る彼女にはなりたくない。


ちょっと、いい彼女ぶったような気持ちと、強がりの気持ちと、両方だった。


それと、純粋に知を応援したい気持ちと。


それから私たちのメッセージの交換頻度は減り、休みの日に会う回数も減らした。


相変わらず、知はとても優しかった。


穏やかに優しかった。


でも、なんとなく感じるようになった。


知はきっと、誰にでも平等に優しいのだ。


私への特別な情熱、あの告白してきた時の、鬼気迫るような知の真剣なまなざしの奥にある情熱は、今はもう感じられなかった。





付き合って半年の9月になった。


私は放課後、学校に居残って勉強をしていた。


数学の問題で分からないところがあったため、友人たちと知が帰った後も、一人残っていた。


諦めて帰ることにする。駅までの道、ぼんやりと歩いた。


冬になりかけの秋は、なんとなく人を寂しい気分にさせると思った。





知は私のことを待っていた。もう寒い駅の中で。


「海ちゃん、ちょっと話していかない?」





私たちは駅の近くを流れる川の河川敷をなんとなく歩いた。


まるであの日のように。


しばらく無言で歩いた後、知が口を開いた。



「ねえ、海ちゃん。海ちゃんに言わなきゃいけないことがあるんだ。色々考えてみたんだ、最近。それで、海ちゃんとの関係は、もう終わりにしたい、と思ったんだ。本当にごめんね、僕から告白して付き合ったのに。本当にごめん。」



知は少し震えながら、それでもいつも通り淡々と話した。


知の言葉からは、もう全てを決断した後の潔さと決意が感じられた。


もう、無理なのだ、と悟った。


私は知のことが大好きだ。


それでも、もう絶対に無理なのだということを、知のその言葉を聞いて私は知っていた。


「実はね、“あの子”が帰ってきたんだ。日本に。それで…」


「わかったよ。今までありがとう。」


私は知の言葉をさえぎって言った。


知は何か続きを言おうとして、体がこちらに傾いたのはかろうじて分かったのだけれども、その時にはもう私は走り出していた。


河川敷を走っているただのランナーの風を装いたかったけれども、それはとんでもなく無理な話だった。


第一に、私はセーラー服を着ていたし、そして何よりも、生まれてから今までで、一番泣いていたから。







私は美容室で髪を切って、歩いて家へ帰るところだ。


秋の薄ぼんやりとした日差しの中、なんとなく力が出なかった。


あれから一晩、私は胸のちょっと下のほうがずっと重かった。


そして、目がどこにあるのか分からなくなるくらい腫れるまで泣いたから、美容室に出かける前、冷やすのが大変だった。






私は知っていた。


知の言う“あの子”のこと。


知にたくさんの音楽を教えた“あの子”。



知と私が付き合う前、まだお互いに何も特別な感情を持っていなかったとき、ふいにその話を聞いたことがあった。


「知はなんでこんなにたくさん、いい曲を知っているの?」


私はなんとなく疑問に思ったことを、なんとなく知に質問した。


「僕にはね、友達がいたんだ。彼女、音楽に詳しいんだけど、親の仕事の都合で4年前にアメリカに行っちゃってね、大学もそっちで行くって言ってるから、もう戻らないと思うよ。」


「へー。知、もしかしてその子のこと好きだったの?」


私は知が女の子の話をすること自体珍しいと思い、興味半分、茶化す気持ち半分で聞いた。


「まあね、そうなのかもね。その子が日本にいた頃は、まだ自分自身が未熟だったから気づいてなかったけど、そうかもね。」


知は真面目に答えた。


私は驚いた。


知がこんなことを言うなんて。


そして、茶化して聞いたはずなのに、思わぬ真面目な返答に、なんと返せばいいか分からなくなった。


そして、普段は真面目なふりして、ちゃんと恋してるんだ、と思った。


その会話は私にとって強烈な印象を残していた。


真面目なクラスの知君にもちゃんと好きな人、いるんだな。私も誰か探そう…。





もちろん、付き合い始めた後も、知のこの言葉はずっと覚えていた。


むしろ、付き合い始めた途端、その子の話を全くしなくなった知に少しの不安も感じていた。


でもね、彼女、アメリカだしね。


そう自分に言い聞かせていた。あえて自分からそこに触れていく勇気はないし、その必要もないと思っていた。


そして、一瞬一瞬の知が私に本気なのは、十分に感じていたから。


しかし、今となっては、こう考えてしまう。


知から教えてもらった沢山の音楽。


きっと、彼女が知に教えたのだろう。


私は一体、何だったのか。






午前中に学校に行ったとき、男子たちがこっそりと話していた。


教室の外に、まだ私がいることを知らないで。


知と海がついに別れた、夏祭りの頃に、知の幼馴染が帰国することが決まって、ずっと悩んでたけど、昨日、幼馴染、帰ってきたらしい。


放課後、空港まで迎えに行ったんだって。


海、ちょっと可哀想だね。






私は、可哀想みたいだ。


終わった。私の恋。


昨日の夜、知に振られてから一生分泣いて、もう出ないと思っていた涙がまた流れた。


どこにこんな量の涙が残っていたのか不思議だ。


どこまでも泣くことが出来た。


廊下の窓に映る私は、もうみんなに見せられた顔ではなかった。



午後の授業はサボって、とりあえず家に帰ろう。






そうして、家では氷で顔をガンガン冷し、私はある場所へ向かった。


そこは、今の私を文字通り変えてくれる場所。


いつも、何かの節目で必ず訪れる、特別な場所。


髪は女の命とまで言われるほど、私たちにとって大きな意味を持つ。


だから、髪を切ってしまうことは、女性にとって非常に大きな決断を意味する。


髪を切ることは、昔から私をあらゆる意味で守ってきた。


私にとって、髪を切ることは、古い自分との決別だった。


そして、一種の自己防衛だった。


だから、私は昔から時折、急に髪型を変えて周囲を大いに驚かせてきた。


きっと、明日の私にみんなはまた驚かされる。


きっと、今までで一番。






新しくなった私は、家までの道を戻っていった。


改めて、ゆっくり辺りを見渡してみると、そこには昨日から何も変わっていない、郊外の住宅地の街並みがあった。


急に不思議になった。


何も変わっていないじゃないか、昨日から。


この町は何も変わっていない。ただ、唯一変わったものがあるとしたら、それは間違いなく私の心だ。


私の心は、変わっていないものを、まるで変ったかのように見せる、レンズの中のゆがみのような物をいつの間にか持ってしまった。


そして、出来てしまったゆがみを元の通りに戻すために、大きな力をかけてもまた、新たな傷が増えるだけで、完全には元に戻らない。


私は知と知り合う前の海には戻らないだろう。


でも、それでいいのだ。


私の、まっさらだった心のレンズはもう元には戻らない。


でも、それも悪くないのかもしれない。


それが大人になるってことなのかもしれない。私は知と付き合うという“最高の決断”をした。


そのおかげで、ひとつ、大人になれたのだから。





9月の雨上がり。


雨が汚れを全て流していった後だから、空気はとてもきれいだった。


まるで私の心のようだ、と思った。


私の様々な感情が入り混じっていた、切られた髪の毛はもう今頃、美容室の片隅に片づけられている。


後は捨てられて、きれいさっぱり無くなってしまう。



私の心もまるでそんな気分だった。


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