シミ
折川秀太
シミ
「ピピピピッピピピピッピピピピッ」
目ざまし時計の音で高野麻衣は目を覚ました。
昨日泣きじゃくっていたせいか目は腫れぼったく、まぶたは重いように感じ、ベッドのシーツは涙でぐっしょりと濡れ、シミができていた。天井に向けていた視線を横に移すと、ベッドの端にぐしゃぐしゃになった一枚の紙があった。
「はぁ~」
その紙を見た瞬間、小さいため息が漏れた。
麻衣は去年の夏に松澤章という男と出会った。きっかけは大学の図書室でコンタクトレンズを落としてしまい、探していた時に見つけてくれたのが章だった。
「すみません。このコンタクトレンズってあなたのですか?」
「あっ、ありがとうございます!それ私のだと思います!でもあの、どうして私がコンタクトレンズを探していたのがわかったんですか?」
「そりゃ見ればわかりますよ笑。ドラマとかでコンタクトレンズを探してる時みたいなオドオドした感じだったので笑。」そういうと章は、麻衣がコンタクトレンズを探していた時の様子を再現してみせた。
「嘘!?そんな感じだったんですか?」
「そんなんでしたよ笑」
「恥ずかしいところを見られちゃいましたね笑。でも、本当に見つけてくれてありがとうございました。」
「いえいえ。でも、見つけたお礼ってことでこの後時間空いてたらどっかでお茶でもしませんか?」
突然の誘いに驚いたものの、麻衣は章の態度や服装などから悪い人というイメージがしなかったため、その誘いを受けた。
大学の近くにある喫茶店に入り、お互いにアイスコーヒーを飲みながら色々な話をした。それは時間を忘れさせるくらい楽しいひと時だった。お互い大学の同期だということ、趣味が共通して映画だということ、猫より犬派だということなど、様々なことで気が合い、2人はすぐに打ち解けた。
喫茶店には3時ごろ入ったが気がつけば太陽は夕日へと姿を変え、時刻は6時半を回っていた。麻衣は7時からバイトがあったため、これ以上いることはできなかったが話し足りないと思い、その場で連絡先を交換しバイトから帰ってきた後に深夜の2時頃まで電話で映画の話で盛り上がった。
そんな2人であったために交際が開始するまでそこまで時間はかからず、夏休みに入る前には付き合いだしていた。
不思議だと思うくらいお互いに気が合い、月日が経つのが夏休みのように早く感じ、章と会うたびに幸せになれていた麻衣だが、少なからず不満も抱いていた。
極度のインドアという理由で外に出てデートをするのは1ヶ月に2、3回程度だったし、写真写りが悪いからと写真を撮られるのも拒んだ。しかし、それらの不満は麻衣が章に対する感情のほんの一部であり、優しく気遣いができるところや、落ち込んでいる時は一発ギャグを披露して笑顔にさせてくれたり、ある映画を一緒に観た時には自分のことのように笑ったり泣いたりする章の姿を見て、不満といえどさほど気にはならなかった。
しかし、章の麻衣に対する態度は徐々に変わっていった。
ほとんど家デートであったため、楽しみにしていた外出のデートは前まで月に2、3回あったが月に1回あるかないかになり、そもそもデートをするのさえも用事があると言われ回数が減っていった。更に前までは、連絡すれば必ず10分以内に帰ってきた返信も、長い日で1日返ってこない日さえあった。デートをしていてもどこか、心ここに在らずといった感じであった章に麻衣は徐々に不満を募らせていき、喧嘩をすることも増えていった。
最初はただの倦怠期かと思っていたが、誰かとよく連絡を取るようになったり、章の家でデートをするのを嫌がったりするのを感じて、麻衣は章が浮気をしているのではないかと疑うようになっていった。
一昨日、章が外出する用事があると言った日に内緒で章の家に行った。章の家に行くのは実に1ヶ月ぶりだった。合鍵を使って中に入ると家には誰もおらず、しんと静まり返っていた。
洗面所、キッチン、リビングと見て回ったが特に何かが変わっている様子はなかった。
しかし、寝室のドアを開けた瞬間、麻衣は目を疑った。
ベッドのシーツはぐしゃぐしゃにシワが入っており、床には女性ものの黒い下着が落ちていた。ベッドの方へと近づくと鼻をつんざくような甘いムスクの香りがした。麻衣は膝から崩れ落ち、目頭が熱くなっていくのを感じた。
その日の夜、章から明日大事な話があるから家に来てとメールが届いた。
「新しく好きな人ができたから分かれてほしい。」開口一番に章は言った。章の家に着いてから1分も経っていなかった。
「浮気してたの?」と返すと
「うん。麻衣にはもう飽きたんだ。」とテーブルの正面に座った章は麻衣の目から視線をそらずに言った。
「…そう。」麻衣はそう言うと目をそらした。
どのくらい時間が経っただろう。10分くらい無言が続いたような気がしたが、実際は10秒くらいだったかもしれない。重たい空気の中、ゆっくりと視線を章に合わせて言った。
「最低。あんたなんか大嫌い。もう一生会わないで。」
静かにそう言うと席を立ち、玄関に向かいドアを開け、外に出た。ドアが閉まるのと同時にコップから水が溢れるように、麻衣の目からは涙が溢れ出してきた。
「ガチャ」ドアが閉まる音を確認した後、章は深くため息をついた。「意外とあっさりしてたな。」そう言うと寝室に向かった。
ドアを開け、「気づいてくれたみたいだね」と言って、昨日のために買った女性ものの下着を拾い上げベッドの上に置いた。次にベッドと床の間の空間におもむろに手を入れた。「こっちは気づいてないよね」そう言って「日記⑥」と書かれたノートを取り出し、パラパラとめくった。
"6月26日、今日は良い事と悪い事があった。良い事は、素敵な女性と出会ったこと。彼女には一目惚れだったし、話してみると人のことが気遣える、思った通りの素敵な人だった。悪い事は、定期検診に行ったら、後1年の命だと言われた。"
"7月11日、麻衣と付き合うことになった。この世界にやり残したことはもうないと思ってたけど、未練ができそうなくらい毎日が楽しい。でも、ずっと一緒にいられるわけじゃないから俺と別れた後に麻衣が悲しまずに、俺の面影が残らないないようにしよう。例えば形が残らないように写真を撮らないようにしたり、家でデートしてなるべく思い出を残さないようにしよう。"
"8月30日、麻衣と出会ってから毎日が本当に楽しい。彼女の笑顔をずっと見ていたい。"
"11月2日、今日は麻衣の誕生日だ。ちょっと高いレストランでの食事と入浴剤がプレゼントだったけど、喜んでくれて本当に良かった。"
"1月1日、今年で俺は死ぬ。そう考えると怖くなるけど、今は麻衣がいてくれるからへっちゃらだ。
"3月9日、そろそろ麻衣と距離を置き始めよう。悲しいけど2人のためだ。
''4月4日、苦しい。麻衣が近くにいるのに近づけない、触れたいのに触れられない。早く別れたいのに、別れなくない。本当に苦しい…"
"5月26日、病院に行ったら明日から入院だと言われた。準備はできてるし、明日こそ麻衣に別れを告げよう。"
パラパラと読んでいた手を止め、流れていた涙を強引に拭った。
「ごめん麻衣、あとありがとう。本当に…」
そう呟くと、涙はより一層勢いを増して流れた。
「ピピピピピピピピピピ」
昨日までにあったことを振り返っている間に気がつけば目からは涙が流れていた。
ベッドから少し体を起こし、アラームの音が早く、大きくなっていた目覚まし時計を止めた。そして、ぐしゃぐしゃになった紙を持ち上げて広げた。
"4月30日、麻衣にはありがとうとごめんと愛してると伝えたい。でも、今の俺にはそれができない。死にたくない。もし、麻衣とこれからもずっと一緒にいれたらどんなに良いだろうか…。
生まれ変わったら麻衣に会いに行こう。会いに行って言いたかったこと、したかったことを全部しよう。そして、今度は麻衣が俺にしてくれたみたいに麻衣のことを幸せにしよう。"
「バカァ、バカァ…。」消え入りそうな声で言った。大粒の涙を流し、肩を大きく震わせて泣いた。
涙で出来たシーツのシミはさらに大きさを増していた。
シミ 折川秀太 @not_shrinkingman
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