絶滅動植物図鑑 ~花の贄外伝~

文月(ふづき)詩織

絶滅動植物図鑑

 世界を恐怖によって支配した王国が、百年前に滅亡した。


 王国の支配者であった分断の王は息絶える寸前、世界に呪いを残した。


 呪いによって神の加護は薄れ、植物は姿を消した。


 人を襲う怪物が世を満たし、文明は後退した。


 生態系は崩壊し、肉食獣と怪物が跋扈ばっこする荒野が世界を覆った。


 その世界において、人間が安全な暮らしを維持する数少ない街の一つ、聖都カテドラル。


 人々はただ一種の穀物にすがり、虫を育てて利用し、比較的豊かに暮らしていた。


 人々を守り導くことをむねとする聖教会が本拠地を置いていることも、カテドラルの豊かさの要因である。


 その街の一角に、巨大な書庫があった。



 *****



 さながら本の迷宮だった。


 聖教会を組織した偉大な人々が総力を挙げて焚書ふんしょの運命から救い集めた、旧時代の叡智えいちの結晶たち。


 書庫は異様なまでに広く、あらゆる場所を書棚としているが、それでもなお本が収まり切っていない。この世に一冊しかないかもしれない貴重な本が、通路の端に無造作に平積みにされていた。


 奇跡の力・嘆願術によって書庫の本は保護されているが、それが解っていてもなお、フューレンプレアは不安になった。


 殆どの植物が絶滅しておよそ百年。今や紙は貴重品だ。


 マイという穀物の茎から採れる繊維を使えば、紙を作ることはできる。しかしマイの利用法は幅広い。燃料に布の原料、虫の餌、背嚢はいのう……。


 一方で、マイはカテドラルでしか育たないために生産量は多くない。紙の生産に回る分はほとんどない。


 貴重な紙に印字された知恵と知識の持つ価値は、いかなる宝石にも勝る。フューレンプレアは積み上げられた本の表紙を優しく撫でた。


 家族を失ったフューレンプレアを拾い育てた法王が彼女に与えたものの一つが、この書庫に自由に出入りする権利だった。


 フューレンプレアは足しげく書庫に通い、古い時代に記された様々な知識を読み漁った。すで閲覧えつらんが許可された本は見覚えている。こうなるとかえって次に読む本を選びかねた。


 中身のことは知らないのに表紙だけを見慣れて、知った気になってしまっている。


「本を探しているのかね?」


 不意に背後から声をかけられて、フューレンプレアは跳び上がった。


「法王様……」


 驚くフューレンプレアに、法王は優しく微笑みかけた。若々しい外見に不似合いな老成した笑顔だった。フューレンプレアは驚きと緊張を懸命に解きほぐし、ぎこちなく頷く。


「ええ。その……どのような本が役に立つのか、わからなくて。」


「役に立たねばダメかね?」


 法王は首を傾げた。


「は、はい。いえ、勿論、役に立たない読書体験などあるはずもないのですが、やはり実践的な知識と知恵を早々に身に付けねばならないと思うのです。」


「そう緊張するものではないよ。読書に正解などないのだからね。」


 法王は手を掲げた。すると、彼の手元に一冊の分厚い本が現れた。


「法王さま、そちらは?」


 法王はちらりと本に視線を落とすと、無造作にフューレンプレアに差し出した。


南方火山帯なんぽうかざんたい周辺の動植物』


 それが本のタイトルだった。


「図鑑、ですか?」


「そうだよ。」


 法王は頷いた。


「その、南方火山帯というのはどこのことでしょう…?」


「とても遠いところだ。」


 法王はどこか懐かしそうにそう言った。


 フューレンプレアは慎重に本をめくる。


 装丁はしっかりしているが、著者名がどこにも書かれていない。


「私の姉が書き記したのを私がまとめたのだ。姉の許可が取れたら著者名を書くはずだったが――」


 法王は寂しそうにそう言った。フューレンプレアは法王を見上げる。


「お姉さまは――」


 法王は静かに首を横に振った。フューレンプレアはずしりと重いその図鑑に視線を注ぐ。


「あらゆる生物に愛を注ぐ人だった。個人の研究を基にしたものだから多少の不正確さはあるだろうが、今となっては当時の生態を伝える貴重な資料だ。実践的の真逆を行くようなものだが、目を通してみなさい。」


「は、はい。」


 フューレンプレアは本を大切に胸に抱えた。


 よく知る人の思いが詰まったその本は、ほかの本よりも重いように思われた。



 *****



 林立りんりつする本の柱が途切れた場所に、小さな木製の机がある。


 艶やかな机に走る年輪は、どんな細工よりも美しい。手で触れれば、石の机にはない不思議な温もりが伝わってくる。


 木の机で紙の本を読む。こんな贅沢が、この時代にあるだろうか。


 フューレンプレアは本を傷めないように慎重にページをめくった。


【ゴライアスサイレーン】-----

 天見台てんみだいのカルデラ湖に生息する両生類。

 成体の平均的な全長は七〇Cほど。

 稀に百五〇Cを超える個体も存在する。

 幼体成熟であり、陸に上がることはない。えらは生涯消えず、四肢の退化が著しい。

 春先、雄は雌よりも早く冬眠から目覚め、カルデラ湖の浅部せんぶにある水草密集地に潜む。この際、一部ヘビの仲間に見られるコンバットダンスのような行動が観察できる。争いを優位に進めた雄が優先的に雌に近付くが、負けた雄が付近に潜み産卵直後の卵に射精する様子も確認されている。

 グレーターサイレーンに比してえらが発達しておらず、飼育の際には空気供給に気を配るべきである。

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 フューレンプレアは目を白黒させた。


 法王は何らかの意図を持ってフューレンプレアにこの本を手渡したに違いない。それを正確に読み解かねばならないが、一ページ目にして困難を感じた。


 不愛想な文章だ。ひどく億劫そうに淡々と観察の記録が綴られている。それは著者自身に向けたメモのようであり、しかしその割に読む人を意識しているようでもある。


 説明文の隣には、ゴライアスサイレーンの絵が掲載されていた。


 今にも動き出しそうな、リアルな絵だ。


 黒光りする皮膚をした、細長い生物だった。説明書きの通り四肢は退化し、痕跡程度のものになっている。大きく広がったえらが耳のように見えて、少し可愛らしい。


 ページをめくると、同じような生き物の挿絵が目に入った。


 ただし皮膚は白く、えらは血液そのもののように赤い。またゴライアスサイレーンよりも目が小さく描かれていた。


【グレーターサイレーン】-----

 一般に食用飼育されている両生類。

 ゴライアスサイレーンと類似点が多いものの、著しい大型化・えらの発達・目の退化等を理由に別種として認識されてきた。

 しかしながら、交配実験を試みたところ、いずれの組み合わせにおいても受精卵の発生率に有意差ゆういさは認められなかった(次ページ参照)。

 また、二代目雑種、三代目雑種共に生殖能力の減退は確認されなかった。

 このことから、グレーターサイレーンはゴライアスサイレーンの異名同種いみょうどうしゅであると考えられる。

 色素の減少、目の退化、えらの発達は地下の飼育施設に適応した結果であろう。

 飼育下においては水の温度と餌の量を調整することにより任意に成長スピードを変化させることが可能。

 肉は淡白な味わい。

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 フューレンプレアは何度も何度もページを読み返し、首を傾げた。


「いみょうどうしゅ?」


 聞きなれない言葉だ。


「それまで違う種類だと思われてきた生物が実は同種だった、ということだよ。」


 法王の声が降って来た。フューレンプレアは慌てて姿勢を正す。法王はくすくす笑って、フューレンプレアの向かいの席に腰掛けた。


「法王様、どうなさったのですか?」


「いや、執務の時間が空いたものでね。」


 法王は優しい視線を図鑑に注いで呟いた。


 思えばこの図鑑は、法王にとって懐かしいものなのだ。それを眺めながらぽつぽつと話をしたいという欲求は、何ら不思議なものではないように思われる。


 真剣に話を聞かなければ。フューレンプレアは緩んだ意識を切り替えて、やや前のめりの姿勢になった。


「同種、なのですか? この二つが?」


 フューレンプレアはなんとか論旨ろんしを理解しようと、二つの種の挿絵を何度も何度も見比べる。確かに似ているが、同じ種とは思えなかった。


「そもそも種とは何だと思う?」


「え? ええっと……」


 法王の問いに、フューレンプレアは考え込んだ。


 例えば、甘味として大人気のコウテイミツアリと、人々に極上の繊維を届けるシルクスパイダーは別種だ。見た目も違うし生態も違う。


 だが、コウテイミツアリとよく似たジャコウミツアリは、コウテイミツアリと何が違うのだろう。二つの種は見た目も生態もそっくりだ。味と生息地域が違うのみである。


「池を想像してごらん。」


 法王が不意に奇妙なことを言った。


「独立した沢山の池が、無限の平野に広がっている。距離の離れた池と池は、水が混じることはない。一方で距離が近い池は何かの拍子で水が混ざってしまうことがある。だが、たとえ水が跳ねて池と池との間に小さな水たまりを作ったとしても、新たな池とはならない。やがて乾いて消えるだけだ。」


 法王は何故か懐かしそうに目を細めた。


「血統として独立した生物群を、我々は種と呼んでいるのだ。」


「そ、そうだったんですね……。」


 フューレンプレアは頬を赤らめた。そんなことすら知らなかったなんて。


「だが、交わらないと言ってもその理由は様々だ。住んでいる地域が違うから交わらない場合もあれば、時期や行動の違いによって繁殖に及ばないこともある。生殖器の形状によって交われないこともある。交尾まで成功した上で受精がうまくいかないこともあれば、育った二代目が不稔ふねんになることもある。ゴライアスサイレーンとグレーターサイレーンは繁殖期が微妙にずれていたので、一緒に飼ってもまず繁殖はしなかった。」


「え?それじゃ、お姉さまはどうやって――」


「次のページに詳しい方法が記されている。簡潔に言えば、雌雄それぞれから卵と精子を抜き取って人為的に受精させたのだ。」


 法王は苦笑してそう言った。フューレンプレアは頬がひくつくのを苦労して抑え込んだ。


「人為的に受精させれば何の障害もなく世代が続くから同種だ、と姉は主張したわけだ。だが、一切の人為を排除したならこの二つは明らかに別種だ。……基準を変えるだけで、結論は真逆になる。」


 フューレンプレアの眉根に意図しない溝が刻まれる。


「納得できないかね?」


 法王はどこか楽しそうにフューレンプレアに問いかけた。


「真実は一つだと、私は思うのです……。結論が二つできるなら、どちらかの基準が誤っているはずです。」


 フューレンプレアは正直に答えた。ふむ、と法王は首を傾げる。


「私はね、プレア。この世界には真理とも言うべき法則があることを知っている。およそ物事は真理から流れ出るものであって、世の凡人たちは流れに従うものだ。その先で無数の真実に行き合う。」


 法王は渋い顔をした。


「時折、真実を縄のように束ね、それを手繰って流れをさかのぼり、真理に手を伸ばす者が現れる。姉もそうした人だった。ただ知りたいという欲求を叶えんがために常人には有り得ないエネルギーをもって流れを遡ることのできる、そんな人種だ。」


 法王の言葉に、フューレンプレアは固唾を呑んだ。


「だが、お前はそうではない。」


「え?」


 フューレンプレアは拍子抜けして声を漏らした。


「お前は率先して流れに従うタイプだよ。」


 フューレンプレアはいささかの失望を覚えた。流れに乗るものよりも流れに逆らうものに法王が好印象を抱いているのは、見るに明らかだったので。


「だから私は探求部たんきゅうぶに迎え入れていただけなかったのですか?」


 法王が自ら管轄する聖教会の研究部署。それが探求部である。法王は多くの才ある者を見出し、そこに迎え入れて来た。フューレンプレアは迎えられなかった。


「そうだ。だがそれを恥じることはない。大半の遡上者そじょうしゃは流れを妨害するばかりで何らの益ももたらさないものだ。流れに従って泳ぐ者が、人の世を構成するのだよ。」


 フューレンプレアは首を傾げる。


 法王は探求部を常に守って来た。一見して役に立たないような研究にすらあたう限りの支援をしている。直接的に役に立たない彼らは何かと白い目で見られがちだが、彼らの味方であるとばかり思っていた法王がそのようなことを口にするとは……。


「遡上者たちはそれぞれの場所からそれぞれの道筋を見つけて真理に向けて泳ぐのだ。そして時にそれぞれの道が繋がり、思いもよらない効果を発揮して、凄まじい推進力となることがある。多様であることは力なのだ。」


「そう……そうですね!」


 フューレンプレアは目を輝かせた。


「それぞれがそれぞれの立場から同じものを見て持てるものを総動員すれば、大きなことも成し遂げられます。そういうことですよね!」


 法王は少し困ったような顔をした。ざらりとしたものが肌を這った。何かを間違えたのではないかという不安が、じわじわと迫り上がる。


 フューレンプレアは居心地が悪くなって、図鑑に逃げ場を求めた。


 もつれる指先でめくろうとしたページが危なげな音を立てる。フューレンプレアは気を落ち着けて、慎重にページをめくる。


 ページの向こうに表れたのは、沢山のサンショウウオだった。


【南方火山帯有尾目群】-----

 南方火山帯周辺には三十六種の有尾目が確認されている。

 有尾目は特徴として移動能力の低いものが多く、このため同種内においても地理的隔離が容易に成立し得る。

 本動物群においても、生息地域や外見の相違によって安易に別種とし、あるいは同種と判定している例が散見される。

 当該三十六種について交配実験を行い、種の分類を再整理する必要を説く。

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 そう記しつつ、その後には三十六種のサンショウウオそれぞれの特徴を記したページが延々と続く。変態後にも肺が形成されず、皮膚呼吸のみで生きるネゴバサンショウウオの記載を見た時には、フューレンプレアは声を上げて驚いた。


 有尾目の項はそこで終わりだった。次に現れたのは、つるつるとしたひも状の生物だった。


「ミミズ?」


 フューレンプレアが首を傾げると、法王が吹き出した。フューレンプレアは頬を膨らませて振り返る。


「何が可笑しいのですか!」


「いや、何も。挿絵を見てみなさい、フューレンプレア。それはミミズではない。動物分類学的に両生綱は三目に分かれる。有尾目ゆうびもく無尾目むびもく無足目むそくもく。それぞれサンショウウオ、カエル、アシナシイモリの仲間だ。それはアシナシイモリだよ。」


「はあ……。」


 フューレンプレアはミミズにしか見えない絵に向き合った。


【モグリアシナシイモリ】-----

 南方火山帯周辺に生息するアシナシイモリの仲間。

 全長は最大で一〇Cほど。

 土中に生息するため、生態は謎に包まれている。

 南方火山帯周辺のみ生息密度が異様に高い。

 ただし全てが同種であるかどうか疑問が残る。

 シロアリを好んで捕食しているようで、腐食した倒木の周辺によく見られる。

 飼育下においてはビッグローチの一齢幼虫を与えると良い。

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「ほら、ミミズには環帯かんたいがあるが、このアシナシイモリにはないだろう? これで簡単に見分けが付く。」


 法王は懐かしそうに目を細めた。


 無足目の項はそこで終わり、次は無尾目、つまりはカエルだ。


 カエルのページもまた豊富だった。カエルの鳴き声の表現が独特で、フューレンプレアはくすくす笑った。


 著者を直に知る法王の解説の下で読むうちに、フューレンプレアは不思議な心地になっていた。


 まるで著者である女性と対話しているような、そんな気分である。


 著者の女性は少し恥ずかしそうに視線を逸らして、ぶっきらぼうに彼女の中の知識を披露してくれるのだ。


 ページはやがて爬虫類へと移動した。


 ここで何かが変わった、とフューレンプレアは感じた。文章量とそこに込められた熱量が、明らかに増大している。その熱に充てられて、フューレンプレアも熱心に文章を読みふけった。


「あ、オオアシです!」


 自分も知っている動物の登場に、フューレンプレアははしゃいで法王を振り返った。


 オオアシは騎乗用に飼育される大きなトカゲである。巨大な後脚あとあしで俊敏に大地を駆ける。雑食性で、マイでも獣肉でも飼育することができる。


「ニホンアシトカゲだ。南方火山帯で飼育されていた騎乗用爬虫類だ。このトカゲをより騎乗しやすいように品種改良したのがオオアシだよ。今となっては原種は滅んでしまったがね。」


 滅んでしまった、という言葉に、フューレンプレアは打ちのめされる。


 そうだった。ここに記された生物の殆どが、すでに絶滅しているのだ。


 彼女の捧げた熱は受け皿と共に時のおりとなって消えてしまった。


 ページをめくる。


 メメナシオオトカゲ。ニグルマヤモリ。フヨウトカゲモドキ。コウラナシゾウガメ。ヒカバリ。


 この種も、この種も。


 無数の池が干上がった。二度と戻ることはない。


 枯れ池の群れの中に一人、図鑑を記した少女が佇んでいる。


 ページをめくる。ページをめくる。


 今はいない生物たちの絵姿。世界が取りこぼした者たちのリスト。


 最後の数ページで、フューレンプレアの手が止まった。


 南方火山帯周辺の草木の分布を示した絵だった。


 鮮烈な緑色。色彩の世界。


 瑞々みずみずしい風景を飾る色に、フューレンプレアの憧憬しょうけいが強烈に刺激された。


【南方火山帯周辺の植生しょくせい】-----

 火山帯特有の地熱に加え、通常の植物の生育を阻害する物質が土壌に含まれているらしく、周辺では世界的な普通種が殆ど見られない。逆に、通常の植生であれば普通種によって淘汰とうたされる植物が多く生育している。

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 フューレンプレアはページをめくる。一種一種の植物が紹介されている。


【ムシゴロシ】-----

 西部の湿地帯に生育する食虫植物。

 壺状に変化した葉の内部に溶解液を溜め込んでおり、落ちた虫を消化する。

 この葉の内部でルリドクガエルの幼生が育つことが知られている。

 消化液の精製に相応のエネルギーを要するようであり、多量の虫を捕らえすぎるとエネルギー収支が崩壊して枯死する。

 湿地に不足する養分を虫で補っていると思われ、栽培する際には虫を捕食させる必要はない。

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 ページをめくる。


【ハハノクサ】-----

 中央平原に群生する一年草。

 春になると一斉に白い花を咲かせる。

 花が終わると非常に小さな種が詰まった袋を形成し、これを弾けさせて種を周辺に飛ばす。

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 ページをめくる。


【イワノシタ】-----

 東稜地域に見られる多年草。

 森林限界よりも上で多く目撃される。

 火山岩の隙間に根を張り、夏に紫色の花を咲かせる。

 栄養・温度・水分のいずれも不足する過酷な環境に何らかの形で適応したものと思われるが、詳細不明。

 現在のところ、栽培に成功した例はない。

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 ページをめくる。


【ババメクリ】-----

 南方火山帯周辺で見られるコケ植物。

 爬虫類の糞に着生する。

 このため、爬虫類飼育施設周辺で普通に見られるが、それ以外の場所で発見するのは珍しい。

 爬虫類の糞に産卵する甲虫こうちゅう、ガレキフンコロコロの生息との関連性が疑われる。

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 多くのページで主役以外の生物名が登場していることに、フューレンプレアは気が付いた。


 現存する生物の図鑑を作ったなら、主役の生物とヒトとの関わりしか記すことができないだろう。本当ならそうではないのだ。フューレンプレアは痛感した。


 生物は他の生物と密接に絡み合って生きていたのだ。解こうにも解けない関係性がそこにはあった。それに比して現存する生物たちの関係性の、なんと単調で薄いことか。


「きれい……」


 白い花を描いた挿絵に、フューレンプレアは嘆息たんそくを漏らした。


 色が眼球に焼き付くようだ。まぶたの裏側が急速に熱を持つ。


 これほどの愛と情熱が注がれたものが、世界からぽっかり抜け落ちてしまった。


 残されたのはただき出しの土と、化け物だけ。


 分断の王は理解していたのだろうか。自分の呪いがどれほどのものを踏みにじることになるのかを。


 こんなことを認めて良いはずがない。許されてよいはずがない。


「私、この図鑑に記されたような世界を取り戻したいです……!」


「そこに示されているのはかなり限定的な環境の生物なのだが……」


 法王は苦笑した。


「しかし、お前がそう言ってくれるのを嬉しく思う。」


 法王は繊細な手をそっとフューレンプレアの頭に置いた。ほんの数年前まで当然だったこの行為が、今では少し気恥ずかしく思われた。


「もう一度世界を蘇らせよう。」


 うたうように法王は言った。


「多様で豊かな世界を取り戻そう……」


 法王の声に滲むのは決意よりもはるかに切迫した、狂おしい感情だった。


「お前はいつかきっと、その目で花を見るだろう。」


 法王はフューレンプレアの頭から手を離す。フューレンプレアは心地よい感触をほんの僅かに惜しんだ。


「その図鑑はしばらく預けよう。己の取り戻そうとするものを、目に焼き付けておきなさい。」



 *****



 自室に戻ったフューレンプレアは、鉄格子の嵌った小さな窓から外を見た。


 正教会の本部の裏側にある部屋に、カテドラルの街の賑わいは届かない。


 乾き切った空気の中に広がる、色のない街。怪物たちを寄せ付けないための防壁が視界を遮って、その向こう側は見えなかった。


 フューレンプレアはベッドに腰掛けて、もう一度図鑑を開いた。


 緑と他の色とが織り成す色彩を恍惚と眺め、柔らかな手触りと豊潤な香りに想像を膨らませる。


「きっと花を見る……」


 フューレンプレアは法王の言葉を口の中で転がした。甘くて切ない味がした。


 彼女は無邪気な憧れを胸に灯して、何度も繰り返し、ページをめくった。

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