第3話 かはたれときのあいつ


 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ


 試験に出すには、格好の和歌でありました。

 「誰そ彼」しかり、「な〜そ」しかり、「九月」しかりと、古文の基本を質問するに足る、万葉集に収められた和歌なのです。


 あれは誰?

 などと私に言ってくれるな

 ながつきの露に濡れて私はあなたを待っているのですから


 この時代は、文字通り、「たそがれ」は、薄暗くて顔がよくわからない、だから、あれは誰と言う意味で用いられていますが、いま少し、時代が下りますと、それが夕暮れ時の薄暗さを示す意味を持って、「黄昏」へと変貌を遂げるのですから、言葉というのは愉快なものです。


 私が不思議に思うのは、朝方のまだ夜があけきらない頃合いを、黄昏に対して、「かはたれどき」と言ったことです。


 「かはたれどき」は、『誰そ彼』に対して『彼は誰』がその源となっています。

 

 何故、不思議かと言いますと、誰が一体、『誰そ彼』を夕に、『彼は誰』を朝にしたかということであるのです。

 

 反対であってもいいではないか。


 そんな疑念を持ちつつ、学生時代、国学院大学出身の非常勤講師で、大きな出席簿で、やたら、生徒の横っ面をはたく教師に問うたことがありました。


 別に、先生を困らそうとしたわけではないのです。

 純粋に、疑問として、そこにあったからなのです。


 反対であれば、その後、これらの言葉が持つニュアンスも大きく異なっていたに違いないと、そう思ったのです。


 人生の黄昏時なんて言葉も、きっと、かはたれどきの慎ましやかな生活なんて表現になっていたに違いあるまいと思ったからです。

 しかし、その先生、まだ大学院に通っている方でしたから、しかめっ面をして、調べておこうと言って、それっきりになってしまったのです。


 しかし、いつも思うのですが、日本語というのは、実に情感の中で編み出された言葉の数々に満ちていると思っているのです。


 『とんびの黒い石』という作品をものするために、熊野地方のことを調べているときに、「一本だたら」という妖怪の話を知りました。

 一本足の一つ目の妖怪です。


 土地の人はその妖怪が出るからと、山には一切入らなかったと言います。

 

 熊野は、太平洋からの海風を受け止める千メートル級の山々が折り重なる地帯です。容易に人は入ることはできない急峻な崖がそこには屹立しているところでもあります。


 だから、人は、容易に入れないその山を神聖なものとして崇めたのです。


 よそ者が入ってこないように、そのような妖怪の話を伝承し、自らもそこにはいらないようにして、崇め祀ったのです。

 だから、今に至るまで原生の森が残り、科学技術の旺盛なる時代にあっても、その神秘を宿しているに違いないのです。


 人は、意味の明らかならざる事態に遭遇すると、そこに、近寄りがたい異形を創造し、畏敬の念を持たせるのです。

 だから、一本だたらもその種の畏敬の念を持つ異形の物体に違いないのです。


 たとえ、雷に撃たれた大木が、その幹を裂かれ、燃え上がり、長の年月の中でそこに樹肌を白くして、すくっと立っている様をいにしえの人が一本だたらと見誤ったとしても、それはそれでロマンチズムがあると考えたりもできるのです。


 まさに白骨化した樹木のしかばねがそこに立ち、枝の名残を目鼻に見立てることができるのも人の感性のありようなのです。

 はて、だとしたら、『誰そ彼』と『彼は誰』は一体、どんな理由で夕と朝に別れたのかしらって、不思議に思っても、自然のことなのです。


 早朝、まだ、夜のあけきらない中で、仕事をしています。

 遠くに、新聞配達のバイクの音が聞こえてきます。かはたれと問うまでもありません。あれは確かに新聞配達の青年が、大学に通う資金を得んがために働いているのだと。


 そんなことを思っていると、湿気を含んだ朝方の空気をかすかに震わして、何者かが我が書斎の向こうに見える暖炉の前に、そして、バルコニーに続く大きなガラス扉の前に佇んでいるのが見えるのです。


 出たな!


 そう思うと、彼らはすっと消えていくのです。


 私と同じような体験を、きっと、いにしえびとも体験をしたに違いない、ってそんなことを思うのです。


 夕暮れには、人が訪ねてきて、朝方には、得体の知れない何ものかが訪ねてくるのです。


 だから、あいつは一体何者だって、そんな風に言ったと思っているのです。

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濡れた足跡 中川 弘 @nkgwhiro

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