第2話 人間の心を縛るあれとこれ


  思想とか、宗教心というのは、それを信奉している人にとっては、この上なく心地よいものですが、そうではない人にとっては、不愉快なことも多々あるものだと、そんな気がするのです。


 ある日曜日、ちょっとした用事があって、つくばセンターに出かけました。


 いや、あまりに暑く、ロードバイクでつくばのアグリロードを走ると頭が焼けるのです。

 それに、私のヘルメットの下にかぶっている帽子、随分と使い古してしまいました。汗をかき、その度に洗うので、相当にいかれちまって、それで、モンベルの店にいって、適当なサイクルキャップを探そうと出かけたのです。 


 そしたら、聞き慣れない仏教の団体が出張っていて、歩く私に付いてきて、声をかけるのです。


 『信仰しないと家族に不幸が出ます』って。


 そりゃ、偉いこっちゃ。

 では、早速、信仰しよう、ついては、ご教示を。


 ……なんてことになるはずもありません。


 むしろ、こいつ、何を言ってやがる、これは脅しではないかと、大抵の人は反発をするはずです。


 しかし、信仰者は、そんな人の心を忖度する気持ちなどまったくありませんから、己の信仰に従って、それを誰彼関係なく、言葉をかけるのです。


 声をかけてきた方を振り返りますと、結構なお年をした女性の方です。

 鍬をもって、畑に居てもいいくらいの姿格好をしています。

 

 家族に不幸が起こるって、それは脅しだと、正対して言葉を吐けば、それはまた相手の思う壺です。


 こういう時は、黙して語らず、速やかにその場を去るというのが、最善の方法ということを、私は長い人生の中での経験で体得していますから、ちらっと、その方を見て、歩幅を最大限にして、モンベルの店に向かったのです。


 店の中で、あれやこれを見ながら、宗教心と並んで、思想というのも厄介なものだと、そんなことを考えていました。


 若き日に、社会主義に憧れ、正義心を高揚させるのは、若者の特権であり、同時に、愛国心をもって、我が国でいえば、日の丸に涙するなんていうのも、これまた、若き人々の当然の姿であると思います。


 いっときの高揚のなせるわざではありますが、ノンポリシーのほんわか人生より、素晴らしいのではないかと思っているのです。


 しかし、いくつになっても、思想に拘泥しすぎると、少々困ったことになります。宗教心に駆られて、家族が不幸になります的な、お節介な言い分を吐くようになってしまうからです。


 体制を変えなくてはいけない、さもないと、この国は大変なことになると、政治活動に、いや、テロ行為などという、とんでもないことに関わってしまうことにもなってしまうのです。


 道端で、自分たちの主義主張を語るだけならいいのですが、その主義主張のために、相手を威嚇したりするようになれば一大事です。


 最近は、それを国家が行なっています。


 主義、主張はあってしかるべきではありますが、国家間のそれらの対立はいかんせん困りものです。


 何が困りものかといえば、それが国家の名でなされるがゆえに、その国家に属する国民はどうすることもできないからです。

 国民というのは、自国のありようを愛していますから、故郷が好きですから、まるで、湯沸かし器のように、瞬間的に、沸点に達して、見境いなく、相手を罵倒しだします。


 挙句に、相手国の大統領や首相の顔写真を燃やしたり、国旗を焼いたりするのですから、嫌になります。


 そんなことを思うと、最近の時代様相というのは実に危ぶまれます。

 

 そんなことが、香港でも、台湾海峡でも、それに竹島付近でも、そして、尖閣周辺でも、国家による主義主張が強硬な形で展開されているからです。

 おまけに、ホルムズでも騒動が起こっています。


 政治の世界では、私が、歩幅を大きくして、あの鍬の似合う仏教徒から離れたようには行きません。

 だから、政治家には、思想や信条に縛られるばかりではなく、もっと、高みにある、最も大切な一点で判断をし、対応してほしいと願っているのです。


 この夏、コリアの光州で水泳大会が行われていました。


 あそこで、一人の中国人選手がトラブルを起こしました。

 薬物疑惑のある選手です。


 オーストラリアなどは、疑惑のある選手を大会には参加させませんでしたが、中国は参加させたのです。


 国家が国家であれば、その国民も国民であると、私などは思ってしまいます。


 だから、オーストラリアの選手は、表彰台にあがらなかったり、握手を拒否したりしたのです。


 そうした最中、日本の水泳選手で、がん治療に専念して、大会を欠席した選手に対して、表彰式で、金銀銅の三選手が、その手のひらに、Never Give Upとしたためて、気持ちを表しました。


 中国の問題を起こす選手とは違って、なんとすがすがしい振る舞いであろうかと、心が救われる思いを持ったのです。


 そんなことを思うと、宗教心だとか、思想や信条など、高潔なものと思っているものが、実は、なんの役にも立たないくだらないものだと思えてくるのです。

 それより、単純明快に、相手を思いやることがいかに大切かと、そちらの方がよほど大切だとそんなことを思うのです。

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