濡れた足跡
中川 弘
第1話 濡れた足跡
暑い夏を迎えますと、私はいつも、あの時の出来事を、そっと思い出すのです。
あれは磯崎漁港の突堤での出来事でした。
夜食を持って、一晩中、突堤で釣りをしていた時のことでした。
一晩中していたからといって、そうそう釣れるものではありませんが、そこにいれば、明け方のあの一瞬に立ち会うことができるのです。
それももっとも良い場所を得て、私は、竿をふって、丸々と太った大きなアジを釣り上げるのです。
漁師ではありませんから、そこそこ釣れば、横でがんばっている方に、こちらでどうぞと場所を譲ります。
なにせ、釣りには、ころあいというものはあるもので、アジの群れは、ほどなく、突堤の付近からいなくなってしまうのですから、持てるものはそれが場所でも譲らなくてはなりません。
銚子などに行きますと、一人で、何本も竿を出して、一帯を独占する輩がいます。
ああいうのは、釣り師の風上にも置けない連中だと思っているのです。
人には渡さない、この港の魚は、皆、俺のもんだと欲の塊のような人間に、釣師などと高尚な言葉はもったいないと思っているのです。
その夜も、あすの朝のアジ狙いで、私はなにげに竿をたれていました。
折しも、目の前の阿字ヶ浦の浜辺では恒例の花火大会が開かれていました。
死者を弔う花火が、夏の夜空に盛大に打ち上がります。
私は、思いもかけず、特等席での花火見物と、相成りました。
ただし、幾分、花火の光と音がちくはぐするのは、これは致し方ありません。
その花火もおわり、あたりは静寂に支配されます。
周りを見渡しますと、若い男女が一本の竿を手にして、仲良く釣りをしています。その向こうには、私と同じに明け方のアジ狙いの釣り人が静かにうずくまっています。
ふと、何やら背筋がぞくっとする、そんな気配を感じました。
「釣れますか」
釣りをしていると、いつも、そんな言葉をかけられます。
声をかける方も、それしか言いようがないのでしょう。
女の声がした方を振り返って、そこそこですと、私は言おうとしたのです。
しかし、そこには誰もいませんでした。
あのアベックの片割れの女かとそっちの方に目をやると、女は男の肩に頭を乗せて甘えているようです。
おやっ、不思議なことがあるものだと、ふと、突堤の白いコンクリートの上に、濡れた足跡のあることに、わたし、気がついてしまったのです。
わたしはまもなく訪れるであろうアジの群れを待たずに、釣り道具を片付け、突堤をそっと後にしたのです。
気のせいではないのです。
たしかに、背筋が「ゾクッ」とするあの気配を私は感じ取って、そして、あの声を聞いたのです。
夜の海に突き出した突堤には、たしかに、異界からの気配が満ちているのです。
先だって、あまりに暑い夕暮れ時の、まもなく、あたりが暗くなるちょっと前に、外に出て、散歩をし、一汗をかいてから、そして、シャワーを浴びてさっぱりしようと思い立ちました。
クーラーのかかった部屋にいれば快適ですが、身体が鈍っていけません。
身体を動かし汗をかきたいと欲したのです。
近所の住宅街の小道を歩んでいきます。
どの家も、締め切って、クーラーで保護された空間に安住をしているようです。
時折、吹き付ける風が、いく分涼しい空気の流れを汗ばむ肌に吹きつけてきます。
それにつられるように、わたしは、住宅街の小道を抜けて、裏道へと入って行ったのです。
もうあたりはどっぷりと暮れています。
わたしは、iPhoneのスポットライトがあるし、それにまだ西の空にわずかに赤みが残っているからと、住宅街の小道から、裏道へと歩を進めて行ったのです。
気配が瞬時に変化したことを、私は察知しました。
あの磯崎の突堤で感じた背筋を「ゾクッ」とさせるあの感じをはっきりと受け取ったのです。
無数の視線が、私を見つめています……
あの草の間、あの稲のはざま、もろこしの林立する畑から、私は視線を感じ取ったのです。
この日、私のつっかけてきたのはビーサンでした。
そのパタパタする音が、私の背後で、まるで何者が追ってくる、そんな感じを私はうけたのです。
もちろん、振り返っても、そこにはだれも……
ところが、その夜は、いたのです。
こんばんはって、声をかけてきます。
仕事が遅くなって、こんな時間にやっとワンちゃんの散歩なんですって、年のころは、二十代後半、いや、三十代になっているかしら、その二の腕の白い肌が薄暗闇の中でほんのりと輝いていました。
そして、わんちゃんに引っ張られながら、私を追い越して、黒いとばりの向こうに消え行ったのです。
声をかけてくれたのは確かに人間だったと、私の安堵は、しかし、一挙に、あの磯崎の突堤での出来事に通じ、背筋は凍ったのでした。
落花生を栽培する農家の方が、以前に語ったことを思い出したのです。
この辺りは、夜にきちゃならねぇ。
人間が来てろくなことはありゃしねぇ。
ここは、動物たちが人間に怯えることなく、ゆっくりとするところなんだ。
だから、人間がのこのことやってくれば、あいつら悪さするにきまっている。
だから、夜にはきちゃならなねぇ。
そんなことを言っていたのです。
そういえば、あの犬、ただひたすら前を向いて、まるで、ありゃ、ロボット犬だぁ、なんてそんなことを、追い越されたときに、思ったのです。
それに、あのうら若き女性……
そのちょっと時間が止まった、その瞬間の間合いの中で、私の思考は急転直下、変じたのです。
私は、そこに、薄く残ったいくつもの濡れた足跡をみてとったのです。
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