とある青年の遺言
影月 潤
とある青年の遺言
学生時代の友人、Hからの手紙を受け取ったのは、久しぶりに実家に帰ってきたときだった。
友人と言っても時折メールでのやりとりをするくらいの関係で、それも年に数回くらいだ。
俺が社会人になり、故郷を離れてからすっかり疎遠になっていた。
そんなHが手紙を実家に送ったのは、今の俺の住所を知らなかったからだろう。俺が都内にいることはわかっていただろうが、具体的な場所までは教えていなかった。
住所くらい聞けばいいのにと思ったが、手紙を最後まで読み、ああ、なるほど、と俺は思う。
あいつはそういう奴だった。他人が苦手なくせに、変に人に気を使う。使いすぎる。
だからこその、この結論なんだろう。馬鹿な奴だ……と思う。
それしか思わなかったことに俺は軽く驚く。俺もあいつを友人だと思っていなかったかもしれない。
少し前に久しぶりにやりとりをしたとき、軽く口にしたことを俺は少し後悔した。
俺からの一言がなければ、彼はどうなっていただろう。
結論は、変わらないかもしれない。
それはイフの話だ。今となってはわからない。
わからないから、その判断は委ねたいと思う。
これが、彼からの手紙の内容だ。
お久しぶりです。
このような手紙を、突然あなたに渡すことになってごめんなさい。
ご存知のとおり、私には親しい友人などはいません。
両親とは不仲というわけではないのですが、この話を両親にする勇気はありませんでした。
もちろん誰にもなにもいわないというのも考えましたが、そうする勇気も私にはなかったのです。
ですので、唯一私が親しいといえるあなたにこの手紙を渡すことにしました。
私がどのような人物か。
中学時代の私を知るあなたなら、ご存知だと思われます。
私は、他人と接するのが苦手なのです。
中学時代まではあなたのような、ひとりでいる人間にも話しかけてくれる人がいたので、なんでもありませんでしたが、高校時代は違いました。
私はいつもひとりでした。
ですが、そんなふうにひとりでいる、いわゆるクラスになじめない様子の生徒に、積極的に話しかけてくる先生もいたのです。
そんな先生の誘いを受け、私はある部活に入りました。
その部活で知り合ったのが、Nです。
Nは私以上の人見知りで、内気で人に話しかけることすらできない、臆病な女の子でした。
似ていたからでしょうか。私たちは自然と打ち解けました。
積極的な活動をする部活の中で、いつも私と彼女は隅っこで静かにしている感じでしたが、ふたりのときは、よく話をしておりました。
彼女と一緒にいるのは、とても楽しかった。
ですが、話しているうちにあることに気づきました。
彼女は、変わりたいと思っていたのです。
臆病な自分が嫌で、本当はもっといろいろな人に話をしたい。自分の意見を言いたい。
彼女は、そう思っていたのです。
その頃、私はなにかと彼女と一緒にいることで、いろいろと頼られることも多々ありました。
本当は彼女が言うべきことだろう言葉を、私が代わりに口にしたこともあります。
私だって、人と接するのは苦手だった。
それでも、私は彼女の力になりたいと思っていました。
彼女を支えたい、そう思いました。
ですが、彼女は変わりたいと思っていた。
だからこそ私は、行動を起こしたのです。
私は彼女にアドバイスするかのように、いろいろ口にしました。
彼女自身で、変わってほしいと思ったのです。
ですが人間はそう簡単に変われません。私と親しくなったことで彼女はいざというとき私に頼るようになり、むしろ、彼女の内気な性格を私自身が助長させていたのでしょう。
私は、あえて彼女にひどいことを言いました。彼女との距離を開け、彼女が自分自身で行動できるようになってほしかった。
そのための、強攻策でした。
効果は出ました。彼女は自分の意見を少しずつですが言うようになり、いつも言い負かされていた他の部員とも対等に話せるようになりました。
内気な性格も解消し、自ら率先して仲間を、後輩たちを引っ張っていくようになりました。
高校三年の学園祭では、全校生徒の前でマイクを持ってステージに立って司会を務めるという、大舞台に立っていました。
あんなに内気で、いつもびくびくしていた彼女がです。
嬉しかった。私はとても、嬉しかった。
でもそれと引き換えに、彼女は私から離れていった。
私は、彼女のことが好きでした。
ですが、恋は成就しなかった。
理由は簡単で、単純です。
あんなことに、なるまでは。
私は彼女にひどいことを言いました。彼女の周りの人物にも、ひどいことを言いました。
彼女はそうやって、変われたのです。私の思い通りになったのです。
その代償として私は、彼女に、そして、彼女の仲間たちにひどく嫌われ、避けられるようになりました。
でも、それでも私はよかったのです。
彼女がそうやって、自分の言いたいことをしっかりと言えるようになったのが、嬉しかったのです。
本当に、嬉しかったのです。
ですが、それでも。
私の心は、ずたずたでした。
理屈ではわかっているのです。彼女のために、やったこと。
感情を殺して、自分を捨てて。彼女のために。
それでよかったのです。そう、わかっているんです。
でも、彼女を好きだった気持ち。そして、彼女と、そして、彼女の仲間たちと過ごした日々がどれほど楽しかったのか、どれほどかけがえのないものだったのかを思うと、私の心は押しつぶされそうになるのです。
彼女のために、そうすべきだと思ったから。私にしかできないと思ったから、やったことです。
だからこそ、その結末に不満はないのです。
それでも、私は。
そんなふうに割り切れるほど、強い心を持っているわけではなかったのです。
私の人見知りと、人間不信はさらにひどくなりました。
大学時代は、友達と呼べるような人を新しく作ることをしませんでした。できませんでした。
彼女とのやりとりが、そして、仲間たちとのやりとりが、私の心を深く深くえぐっていたのです。
就職活動がうまくいかなかったのは、社会のせいでも、景気のせいでもありません。私自身のせいです。
紙の試験は通っても、面接でうまく話せないのです。
他人とかかわらず、極力話そうとしなかった私にとって、それは当然のことでした。
しばらく無職で過ごし、日雇いのアルバイトなどをなんとかこなしているうち、私は近所の会社で雇ってもらうこととなりました。
私の父と、その会社の社長が知り合いだったのがきっかけです。いわゆる、コネ入社という奴でした。
仕事は総合事務で、ほかのたくさんの部署からの依頼を受け、各部署に仕事を振り分けたり手を貸したりする、いわゆるなんでも屋的な仕事をしておりました。
人と接することも、話すことも苦手だった私ですが、パソコンを使った作業は得意でした。
私はその会社で、がんばって働きました。
そんなときに、出会ったのです。
彼女――Mは私がひとりで作業をしているときに、パソコンの調子が悪いということを相談しに来ました。
私がパソコンに強く、他の部署のパソコンなどの修理なども請け負っていたことを彼女も聞いていたのでしょう。パソコンは詳しい人間からすればどうということはない簡単な作業で元に戻りましたが、Mはそれをまるで難しい方程式を解いて見せた数学者を讃えるように、楽しそうに拍手をして礼を言ってくれました。
それからです。彼女は、ことあるごとに私に話しかけてくるようになりました。
私にとっても、それは嬉しい時間でした。
あまり人と話をしなかった私に対して、彼女はいろいろなことを話してくれました。
仕事のこと、友達のこと。好きなアイドルや、お笑い芸人。アニメに、映画。
仕事をただこなしていただけの私は、いつのまにか彼女と話しをするのがなによりの楽しみとなっていました。
そんなある日のことです。彼女が、カラオケに行かないかということで誘ってきました。
好きなアニメの話などをしたとき、アニメソングの話をしたからでしょうか。
有名な映画の主題歌を、女性ボーカルの歌であるにもかかわらず歌えるということを言ったからでしょうか。
彼女は目をキラキラさせ、私のスケジュールを聞いてくるのです。
実を言うと、女性と二人で出かけるというのは初めてでした。私の人生、初めてのデートです。
ですが、恥ずかしいのでそのことは黙っていました。私は彼女と一緒に出かけ、さも余裕のある大人ぶっていろいろなところを回りました。
彼女にさりげなくプレゼントを買ってやり、ネットで必死に調べた人気のお店に招待しました。
そして、カラオケではいろいろな歌を歌いました。
カラオケなんて、とても久しぶりでした。機械の使い方も、正直わかりませんでしたが、必死になって操作しました。
彼女とのデートは、私にとって大成功でした。
楽しかった。とても楽しかった。
また機会があればどっかいこうと言われたのも、嬉しかった。
舞い上がっていたのです。
ですが、それから数日経ったある日、彼女と話していると妙なワードが飛び出してきました。
今日は、友達の家に泊まりに行くとのこと。私は冗談めいた口調で、「男?」と聞きました。
彼女は「そうだよ」と軽い口調で話しました。
私は言葉に詰まりました。
少し動揺して聞き返すと、その男というのは、どうやら彼氏ではないそうです。
先輩が一人暮らしを始めたので、その先輩の家に泊まりにいくというのです。
ずいぶんと軽く彼女は口にしていますが、彼女と話しているうち、その先輩というのはどうも特別親しいわけではなく、しかも、その人物が一人暮らしを始めたという場所は、ここから何駅も離れた町だったのです。
私は彼女に泊まりに行くのはやめるように伝えました。
男の家に泊まるなんていうのは絶対に誤解される。
周りにも、当の本人にも。
でも彼女は「だいじょうぶだよー」というだけで、私の言うことも聞かず、行ってしまったのです。
後悔しました。ひどく後悔しました。
なんていえばよかったのか。どうすればよかったのか。
久しぶりに、メールしましたよね。そのあと、電話にもつき合わせてしまいました。
それは、そういうきっかけでしたね。あのときは本当に、ただの愚痴のようになってごめんなさい。
でも、私はそのとき言われた言葉で正直、目が覚めました。
「それはお前、その子のこと好きなんだろ」
あなたの一言は衝撃的でした。いえ、今にして思えば、きっとそれは私もわかっていたんだと思います。
わかっていました。でも、Nのこともありました。人間不信で人見知りな、自分の性格のこともありました。
人付き合いが苦手で、しかも、なんの長所も自慢するところもなく、イケメンというわけでもありません。
そんな私が、人を好きになる。
そんなこと、ありえないと思っていました。
だって、そんなことしたら、きっと。
こんなぶさいくで、頭も悪くて口下手で、そんな人間に好きになられたって迷惑なだけです。
そう思いました。現に、そうあなたにも言いましたね。否定していたのは、面白がっていたんでしょうか。
電話が終わってから、後悔が大きくなりました。
彼女のことが好き。
そう自分自身で認めてしまってからは、もうその気持ちを抑え切れませんでした。
「好きだ。だから、行かないでくれ」
そう言えば、彼女は行かないでくれたでしょうか。
そのときの私にはわかりませんでした。
何日かして、彼女と再会しました。
彼女の表情が、ほんの少しだけ曇っていました。
そのときは聞けませんでしたが、ある日、思い切って彼女に大丈夫だったかを尋ねました。
彼女は、答えませんでした。
あなたから言われた言葉を心の中で繰り返すと、世界はすべて変わりました。
彼女ともっともっと話をしたい。
彼女ともっともっと仲良くなりたい。
そう考えた私は、自分から積極的に彼女に話しかけるようになっていました。
例の件があってからどことなく彼女に元気はありませんでしたが、それでも、毎回毎回笑顔で彼女に話しかけていました。
固かった彼女の表情も、少しずつ柔らかくなって。
私は、彼女の力になりたかった。
支えになりたかった。
誰よりも近くで、彼女と一緒にいたかった。
そう、思うようになりました。
その積極的な行動は、私自身も変えてゆきました。
私は職場において、たくさんの人に積極的に話しかけるようになったのです。
どちらかというと女性の多かった職場において萎縮していた私も、彼女たちと話しているうちに変わっていけるような気がしました。
多くの人と、多くのことを話し。
私は仕事が、少しずつ好きになっていったのです。
彼女との関係も、比較的良好でした。
私は時折、彼女を食事に誘ったり、デートとは言いませんでしたが、遊びに誘ったりしました。
彼女のために免許も取りました。レンタカーですが、ドライブしたりしました。
彼女の好きな料理が出てくるレストランをネットで必死に探しました。
彼女の好きな話題を、ひたすら話しました。
ついこの間までの表情は、いつの間にか消えていました。
今までどおりの、よく笑う、とても可愛らしい彼女に戻っていました。
私への用事があるときは、こっそりと靴箱にメモがはさめられているのです。
皆の前で声をかけるのが恥ずかしいのか知りませんが、ちょっとした用事や仕事で話しかけるときとは違うそのやりかたが、まるで、学生時代の交換日記のようです。昔の私はただそれをなにが楽しいのかと見ていただけでしたが、今頃になって、そのドキドキを、ワクワクを感じられるようになっておりました。
私は彼女の靴箱に、こっそり返事を置いておきました。
そこにあった鏡を見て、私は自分がこんなふうに笑える人間だということに初めて気づきました。
楽しかった。
とても、楽しかったんです。
ある日、彼女に好きだと伝えました。
彼女はとても困った顔をしていました。そして、考えさせてほしい、と伝えてくれました。
彼女にはたくさんの友達がいました。私だけが、特別に親しい人間というわけではなかったのです。
同じ職場にも私のようにたまに一緒に出かける異性もいるし、なにより、彼女のSNSには男友達と出かけたりする写真がいつも載っていたのです。
ですが私は、彼女の答えなんて、正直どうでもよかった。
私はそれからも、彼女と話をして。笑って。
周りの人たちとも楽しく笑いあって。
そんな、楽しい日々があったのです。
かつての私を知っているあなたからすれば、意外すぎるでしょう。
私が、たくさんの人に囲まれ、笑って過ごしているのですから。
とても、とても、楽しかった。
そんな日々が、楽しかったのです。
ですが、そんな明るい日々も長くは続きませんでした。
私は職場の人たちと、明るく仲良く話をしているつもりでした。
ですが、私を気に入らないという人たちも、いたのです。
きっかけも些細なことでした。
私の性格をあなたはよくご存知でしょう。人と親しくなると、辛辣なことも私はすぐ口にする性格でした。
私はそこまで大きなことだと思いませんでしたが、たとえば仕事中に私語をしてサボっていたりした若い子に注意をしたり、掃除などを手抜きしているときに一言、わざわざ言いにいったり。
それは職場としては当然のことだと思っていました。ですが、彼女たちには違ったのです。
私はある日上司に呼び出され、よくわからない理由で注意されました。
お前が仕事をサボって私語をしているから、ほかの部署の仕事が進まない、と言われたのです。
もちろん、私が他の職場の人たちと話しているのは休憩時間やら、手が空いた時間のことです。仕事に手を抜いたことなど、ありません。
さらに若い女子社員が、彼氏がいるのかなどとしつこく聞いてきて困っていると言うのです。
私は確かに、向こうから恋人がいるのか聞かれたことはありましたが、私のほうからそんな話題を口にした覚えはありません。
いないよ、そっちは? と返したその言葉が、上司にはその部分だけを、実に悪意ある改変を交えて報告されていたのです。
そのときは私は特になにも思いませんでした。
もしかしたら、変なことを言ったのかもしれない。気をつけよう、と、それだけを思ったのです。
ですが、それから一月もしないうち、また上司に呼び出されました。
報告は、さらにひどくなっていました。
私にセクハラ発言された、仕事を邪魔された、こっちがきちんと仕事をしているのを否定された、などなど。
もしかしたらとは思っていました。
もしかしたら、私はハメられたのか、と。
最初はまさかそんなことはと思っていたのですが、そのときに言われた言葉で、それは確信に変わりました。
私はハメられたのです。
理由なんて知りません。
Mと仲良く話をするのが気に入らなかったのか。
注意されたのが気に入らなかったのか。
話をしたことが気に入らなかったのか。
私の態度が? 顔が?
とにかく上司は、そのことで私にいろいろなことを言いました。
なにを言われたのかは覚えていません。私には、ほとんど意味のないことだったから。
ひとつだけ覚えていたのは、次にこんなことがあったらクビにするということ。
冗談じゃない、と思いました。
ですが、それを口にすることなんてできません。
もちろんそれを事実を語ることもできました。
ですが、私はそれを避けようとしたのです。その噂を流している連中は、Mと同じ部署の人物だったのです。
もしこのことで私が語弊がある、事実はこうだということを口にすると、Mにも問題が飛び火するかもしれないと思ったのです。
私は口をつむぎました。
すべて私の責任です。私の不注意が招いたことです。以後気をつけます。すいませんでした。
そんな棒読みの謝罪の言葉を、上司は表情を変えずに受け入れました。
ややこしいことは面倒だ。まして、Mを巻き込んだりしたくない。
それは弱さでしょうか。間違いでしょうか。
とにかくそれから、仕事が楽しくなくなりました。
もちろん、手を抜いてなどいません。ますます私は、真剣に仕事に取り組んでいました。
ですが、そのような妙なことがあってからというものの、私は常に日常の会話を録音するためにICレコーダーを持ち歩くようになりました。
人と話をすることをやめました。
それはもちろん、Mともです。
そんなある日のことです。
Mに恋人ができたと聞いたのは、本人の口からではありません。
彼女のSNSからでした。
私は、まだ返事を聞いてはいませんでした。
ですが、彼女には想い人がいるというのは彼女と話をしていてなんとなくわかりました。
ですので私は一歩引いた場所から、彼女を応援することに決めておりました。
本音を言えばそうではない。でも私は、自分に自信がなかったのです。
だからこそ、それを知ったとき、私はよかった、と、心の底から思いました。
思ったんです。心の底から、そう感じたのです。
ですが、私にはそんな、優しく温かな心だけがあったわけではありません。
心の中では、わかっているのです。
彼女は、大好きな人と結ばれたのだ、と。
彼女がずっと思っていた人物と、やっと彼女は恋人同士になっている。
デートをして、手をつないで。
食事をして、笑って。
キスをして。
きっと、彼女は幸せなんだろうと思いました。
思ったんです。
それは、いいことのはずなんです。
ですが私の心は、それを素直に認められる部分と、認められない部分があったのです。
そうでなくても、職場の状況が最悪になって、彼女と話もあまりしていなかった時期のことです。
私の心の中は、穏やかというわけではなかったのです。
彼女と話しこともできず。
ほかに、話をできる人もいなくて。
私は風俗に通うようになりました。
私の給料は、決していいというわけではありませんでした。
風俗に通い続けるのも、カネがかかります。
ですが、彼女とも、誰とも話せない私は、そうすることでしか自分の心を満たすことができなくなっていたのです。
安い給料は家賃ともともと切り詰めていた生活費に消えていたのが、さらに風俗の消費が重なって。
私は借金をしました。
借金をしてまで、風俗に通ったり、出会い系サイトで出会った女性と体を重ねるのに使っていたのです。
そんな女性たちは、私を抱いていくれるのではありません。
私が渡した、カネを抱いているのです。
私は女性を抱いているのですが、そこに愛などありません。
ただいっときの快楽のため、ただ、いっときだけでもMのことを忘れるため。
私はそんな生活を続けました。
そんなある日のことです。
久しぶりにMと話をする機会がありました。
ですが私は自分の状況も、心の中も最悪でした。
私は、彼女にひどいことを口にしました。
もちろん、本音ではありません。それに、ひどいことといっても、それは彼女の行動に基づくものでした。
彼女は彼氏ができたあとも、ほかにもたくさんの男性と関係を持っていたのです。
あの日から、彼女が泊まりにいってからというものの、彼女の行動はどこか、開き直ったように見えていました。
彼女のSNSにはいつも男と一緒にでかけた写真が載っておりました。
だからこそ、すこし強い言葉を使って、彼女がショックを受ける言葉を使って、彼女に伝えたのです。
キミは、そういう人だというふうに見える、と。
彼女は声を荒げました。
そもそもあなたには関係ない。
そんなことでうるさく言うくらいならほっといてくれ。話しかけないでくれ。
彼女の口からそんなふうに言うのは意外でした。
よほど、私の言葉が気に障ったのでしょうか。
それから、彼女とはほとんど話さなくなりました。
それからの日常は、とてもつまらない灰色の日常でした。
そんな裏でも、私の噂はどんどん広がっていったのです。
上司にまた呼び出されたら、ICレコーダーを聞かせてやろうと思っていました。
しかし、次に呼び出されることはありませんでした。
その理由は単純です。おそらく、私の悪い噂を流していた張本人であろう人物が、あっさり仕事を辞めたのです。
その人物が辞めるということを知る前、こそこそと話をしているのを聞いたことがあります。
なんであいつ辞めないの?
そう、口にしてました。
私が辞めなかったこともそうですが、その人物が辞めた理由はSNS上で自分の職場の実名まで使って愚痴を言っていたからです。それを上司にバレてしまい、注意を受けたのがきっかけだそうです。
そんな人間に、私はハメられ、社会的な地位を底の底まで追いやられた。
正直、怒りなどの感情は感じませんでした。
ああ、そんなやつだったんだ、と、それだけを感じました。
Mとはそれからも話をしませんでしたが、ある日、私のほうから頭を下げました。
ひどいことを言ってすまなかった、と。
本音を言えば、謝ったというよりかは、彼女自身の意見を、私が口にしたことに対する彼女の意見を聞きたかったのです。
それは結局、聞けずじまいでした。彼女はなにも、話してくれなかったのです。
その肝心な部分を曖昧にしたままでもいいので、前と同じように、彼女と話をするようになりたい。
そうすれば、いつかまたこの話をすること気もくるだろう、と、そう思っていました。
ですが、それからも私は、相変わらず風俗と、出会い系サイトを利用し続けました。
私をハメた人間と、その人間の周りにいた取り巻きの連中の数人が辞め、職場は人手不足の状況でした。
もちろん、私自身の仕事も多くなり、忙しくなるはずです。そう思っていました。
ですが、まったく逆でした。
むしろ、本来なら私がやるべき仕事が、ほとんどなくなっていたのです。
近い上司に聞くと、それは私がやるから、君はやらなくていいよ、と言われました。
噂を広める張本人はいなくなっていましたが、今度は別の噂がたっていたのです。
私のせいで、あいつらは辞めていったんだ、と。
その噂を鵜呑みにした私の上司たちは、私の仕事を極力減らすようにしたのです。
私は、ほとんどやることのない日々もある中、精一杯抵抗しました。
本来ならほかの部署がやるような仕事も、自分でやれることは自分でやるようにしたのです。
逆に、仕事量は増えました。ですが、残業は決して上司たちは認めてくれません。
私は昼休みを一切とらないようになり、朝も、いつもよりも何時間も早く職場に来て、仕事をするようになりました。
その分の給料が出るわけでもありません。それを、褒めてくれる人もいません。それをわかっていても、止める人もいません。
私は誰よりも仕事をがんばり、家に帰ると、いつも気を失うようにベッドに倒れる日々でした。夜中に目を覚まし、軽く食事を胃の中に無理やり押し込み、シャワーを浴びてまた眠る。何時間かで目を開け、職場に向かう。
そんな日々でした。
ある日、私はちょっと、彼女と話をしたいと思いました。
直接話しかけるのはなんとなく気が引けるので、以前と同じように、彼女の靴箱に、ちょっとしたメモをはさめておきました。
それは、以前はよく行っていたことです。
私は別に、そのことに対してなにも思いませんでした。
ですが私は、Mの上司に呼び出されました。
靴箱にいたずらされていた。このようなことは金輪際、やめてほしいとMが口にしている、と、そういうのです。
そして、私の上司にも報告させてもらう、と。
報告されれば、私のクビが決まります。幸いにもMの上司は理解のある人間で、私と話をして誤解がある部分は正してくれました。Mの上司は報告はしないでおくと言ってくれました。そのあいだに、私はMと話をしようとしました。
ですが、Mは私と話をすることはありませんでした。それどころか、私が話しかけても、無視をするようになったのです。
日常会話だけでなく、仕事の話も、挨拶ですらも、返してくれなくなりました。
今までの行動を思えば、ある意味、当然といえば当然の行動かもしれません。
かといって、私は納得ができませんでした。
彼女は肝心なことを、私が、そして、周りの人間がどう思うかを考えもせず、今までどおりでした。
マイペースに、いろいろな人間とただ遊び、それを自慢する。
そして、それを否定する人間をことごとく排除したのでしょう。私は、そうやって、彼女の世界から追い出されました。
私は、彼女の力になりたかった。
支えになりたかった。
誰よりも近くで、彼女と一緒にいたかった。
そう、思っていました。
ですが、彼女に助力は必要なかったのです。
彼女に支えは必要なかったのです。
高校時代、同じ思いをしていた。
Nは、変わりたいと思っていました。
だから私は、Nを変えるべく、行動を起こした。
私に頼り、自分で行動を起こさなかった彼女を突き放し、彼女自身で行動するように仕向けた。
助けて、と、彼女の視線はこちらを向いていました。
でも私は、助けなかった。答えなかった。
ひどいことを口にし、心にもないことを口にし、彼女と距離をとった。
そのおかげで……なんて、自慢めいたことを言うつもりはありません。
Nは変わりました。自分自身の足で、歩けるような人になったのです。
私の行動が、身を結んだ。
そう、信じました。
それでもそうなってしまったら今度は私がひとりになって。
とてもつらい毎日が、何年も続いて。
本当は、彼女との距離を離したくなんてなかった。
本当は、彼女と一緒にいたかった。
でもそれは、叶わなかった。無理だったのです。
他人と接するのが苦手な僕には、そんな不器用な方法しか思いつかなかったのです。
もっとほかの道があった。もっとやりようはあった。
でもそれしか、当時の僕はできなかった。
そのせいで心がずたずたになり、ますます自分の殻に閉じこもって。
それも、僕自身のせいです。
誰のせいでも、ありません。
Nに対して変わってほしかった。
他人を変えようなんて、そんな傲慢なことを考えていた、私自身の罰なのです。
その感情を、Mに対しても思ってしまった。
彼女のやり方は、他人を誤解させる。他人に白い目で見られる。他人に軽蔑される。
彼女を好きでいたから。彼女と接していたからこそ、そういう彼女の意識していない部分は、意識させるべきだと思ったのです。
人を変えようと、その傲慢さで傷ついたはずのかつての自分を忘れ、私はそう思っていたのです。
彼女たちに、支えなんて必要なかった。
彼女たちは強さを持っていた。心のうちには、きっと私になんかない、強い心を持っていたのです。
支えなんてとんでもない。
力なんて必要ない。
私があえて彼女たちに冷たく接したのも、あえて彼女たちにひどいことを口にしたのも、彼女たちのためなのです。
変わりたいと思ってたから。変わるべきだと思ったから。
そうすることで、周りの人間の見方も変わる。周りから誤解されずにすむ。
そんなことを考えてとった僕の行動は、彼女たちどころか、僕自身の心を強く強くえぐりました。
本当は、その言葉の裏にある真意を知ってほしかった。
彼女たちを本当に心の底から思っているんだということに気づいてほしかった。
でも、そんなこと、普通の人がするはずはないのです。
そんなこと、普通の人はやるはずがないのです。
それに気づかず、良かれと思ってそんなことをして、彼女たちの、自分自身の心を引き裂いてゆく。
ほかにやり方はあったはずです。ほかに方法はあったはずです。
ですが、その方法しか、僕はとれなかったのです。
その結果として、僕の心にはぽっかりと、本当に大きな穴が開いてしまいました。
彼女たちに、支えなんて必要がなかったのです。
むしろ、支えが必要だったのは、きっと僕のほうなのです。
上司の耳に話が届く前に、仕事を辞めることにしました。
理由を誰も聞きませんでした。もちろん、引き止めるような人なんていません。
Mも、なにも言いませんでした。当然といえば当然でしたが、それが一番、私にとってはショックでした。
私だけがやっていた仕事ももう決まっていたかのように後任が決まり、あっさりと私は職場を去りました。
さて、ここまで書きましたが、私は、今まで書いたことがきっと、間違いだったと思うのです。
学生時代の私がどんなだったか、あなたならわかっているはずです。私はなにも、変わっていません。
人付き合いが苦手。人と話をすることができない。表情も硬いまま。
そんな私が、Nのような、美人で可憐な女性と仲良くなれるなんて思いますか?
学園祭は、あなたも遊びに来てくれましたね。あの司会をしていたのが、Nです。
あんな大きな舞台で物怖じせずに話をしている彼女は、きっと、私の語るNという女性とは別の人物なのではないでしょうか。
そう。Nなんて、そもそもいなかったのです。
そんな私が、はたしてMのような美人で、彼氏も友達も多いような素敵な女性と、いっときとはいえ仲良くできると思いますか?
彼女のSNSには、今日もいろいろな男が載っています。
今日は誰々とドライブした、今日は誰々と旅行にいった、今日は誰々と温泉に入った……
そこに、私のことは言及されておりません。
彼女は、そういう人なんです。そういう女なんです。
そんな彼女と私が仲良くしていなんて、きっとありえない。
あの楽しかった日々は、きっとただの幻だったのです。
私が仕事を経て、それなりに充実した中でそれ以上を求めてしまった、ただそれだけのはかない夢だったのです。
彼女への憧れが、彼女への想いが、そんな、くだらない幻想を作ってしまった。
彼女とのデートも、ドライブも、食事にいったのも、きっと。
ただの夢だったのです。
残ったのは、体重が激変してやせ細った肉体と、風俗通いで残った借金と。
そして、あなたのよく知る、ひとりの人物が。
誰かと話をすることなく、自分の世界に閉じこもり、ひとりではなにもできない。
そんなくだらない人間が、ひとり。
それだけです。
それだけしか、残らなかったのです。
誰とも話をしないまま、2ヶ月ほどが過ぎてしまいました。
いろいろ考えましたが、私は、自殺することに決めました。
誰かと一緒にいることもできない。
一緒にいたら、ただ、その人に対して、周りに対して、迷惑をかける。
そんな私が、この世界で、この社会で生きていけるとは、とても思えないのです。
心残りは両親ですが、私の両親は今も現役でスポーツをしているような、立派な人たちです。
私がいなくなっても、きっと、元気で過ごしてくれるでしょう。
ですが、両親にこのような情けない話を打ち明ける気にはなれず、このような、くだらない手紙を、唯一の友人であるあなたに書くことといたしました。
あなたは迷惑かもしれませんが、私は、中学のとき、誰とも話せずただひらすら小説を読んでいた私に話しかけてくれたあなたのことを、本当の友人だと感じております。
あなたの薦めてくれた本は、どれも面白かった。
あなたの語る物語は、どれも魅力的だった。
私はあなたに憧れていたのです。
できることなら、あなたのようになりたかった。
夢を語り、キラキラしている人間になりたかった。
せめて最後に、あなたのことを、私の唯一の友人だと。
そう、思わせてください。
あなたに会えて、よかった。
あなたが幻じゃなくて、よかった。
ありがとう。
聞くところによると、彼は数ヶ月前から行方不明らしい。
彼の両親は血眼になって彼のことを探している。
彼の情報には懸賞金がかかっていたが、俺はこの手紙のことは言わないでおいた。
そして、彼のわずかな借金を、俺は金融会社に頼んで肩代わりすることにした。
罪滅ぼしのつもりはない。
彼とは中学がちょっと一緒だっただけの、それだけの関係だ。
それなのにそんな義理はないといえばないが、彼にとって、俺がキラキラして見えたならそれはきっと幻だろう。
俺は決して、キラキラなんてしてない。
だから、そんなふうに。
他人がキラキラして見えるように思わせてしまったのは、俺のせいなのだ。
彼は俺と同じように、ただ日常を過ごしていただけに過ぎない。
キラキラなんてしてない。
ドロドロして、ぐちゃぐちゃして、わけのわからない日常を過ごしていただけだ。
家に帰れば、俺だってそんな日常を、嫌でも過ごしていかなければならないのだ。
それに我慢できなくなったら。
彼と同じように、俺も手紙を、誰かに書く。
ただ、それだけだ。
笑える。
歩きながら、俺はただ、小さく笑みを浮かべた。
願わくば、彼が俺のことを見てませんように。
俺は手紙をコンビニのゴミ箱へと投げ捨てた。
とある青年の遺言 影月 潤 @jun-kagezuki
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