変身転落死 3/3
総務部の社員が引き上げて一分ほど経過すると、ノックの音のあとに背広姿の男がひとり、探偵と警部が待つ応接室に入ってきた。「どうも」と簡素な挨拶をして、ぺこりと頭を下げたその男――探偵が呼び出した、
受け取った名刺を見た探偵は、
「経理部ですか……」
知海は、はい、と小さな声で返事をする。探偵は、名刺から本人に顔を向け、
「このビルの裏の道で、苫村さんの転落死体が発見された前日、あなたは最後に退社されたそうですね」
転落死体という言葉が探偵の口から出ると、知海は一瞬、びくりと体を震わせて、
「そ、そうです」
またも消え入りそうな小さな声で返事をした。
「遅くまで残業する理由があったんですね」
「ええ、翌日が取引先への支払日が重なる日だったので。帳簿の確認と整理に……」
「経理部ですものね。ところで、この会社には大きな金庫がありますね」
「き、金庫くらい、どこの会社にもあると思いますけど……」
「まあ、そうですけれど。あの金庫には普段から現金を入れておくんですか?」
「ど――どうしてそんなことを訊くんです!」
知海は、今までよりは幾分か大きな声で反応した。その顔には動揺の色も浮かんでいた。
「ちょっと気になったもので。今は会社間の金銭のやりとりは、ほとんど銀行振り込みで、現金を置いている会社はあまりないかと思いますが。珍しいですね」
「え、ええ、当社では、ある程度の額の現金を常に金庫に用意してあります。社長の方針で」
「ある程度の金額とは、いかほど?」
「それは……社外秘です」
「五百万円は入っていそうですね」
「なっ?」
「えっ?」
知海と一緒に、隣に座っていた警部も声を発して探偵を見た。
「当たっていますか?」
「……しゃ、社外秘です」
知海は繰り返して視線を逸らした。
「そうですか。ところで」と探偵は話の矛先を変えて、「その日、退社したのは何時でしたか」
「八時半です」
「それは、あくまでタイムカードに押された退社時刻ですよね。知海さん、あなた、その日はもっと遅くまで残業していたんじゃないんですか?」
「な……何を言うんですか?」
知海は視線こそ逸らしたままだったが、声のトーンが上がっていた。対する探偵は、変わらぬ涼しい顔で、
「これも新社長の方針だそうですね。残業が認められるのは八時半まで。あなたはそれを忠実に遵守しようとしていたわけですね……表向きには」
「お、表向きも何も……私は確かに八時半に会社を出ました。警備会社に確認を取ってもらっても構いません」
「ええ、その記録に間違いはないでしょう。ですが、この会社に警備会社のセンサーが取り付けられてるのは正面玄関だけで、もうひとつある裏口や窓には、センサーは一切付いていないそうですね。その裏口を使えば、警備会社のシステムに感知されることなく会社に出入りが出来る。この裏口は、消防法の関係で設置を義務づけられているものですが、八時半を超過して残業をしなければならない場合のアリバイ工作用として、社員の皆さんに使われているんじゃないですか? タイムカードを押して、正面玄関を八時半に施錠すれば、表向き会社には誰もいなくなることになります。残ってさらなる残業をする社員の方は、業務を終えたらその裏口から退社するというわけです。センサーが付いていませんから警備会社に記録はされません。
この裏口の鍵は、限られた社員しか持っていないそうですね。経理部の方はその理由まで教えてはくれませんでしたが、僕が思うに、残業をする頻度が高く、信用の置ける厳選した人物にだけ配布しているのではありませんか? 裏口の性質上、当然の処置です。その人物の中に知海さん、あなたも入っていたのでは」
知海は黙ってしまった。言い返したいが、うまい言葉が出て来ない。そういったもどかしさが見て取れる表情だった。
「話を変えましょう」探偵は事もなげにソファに座り直すと、「どう思いましたか、苫村さんがこのビルから転落死したと聞いて」
「ど、どう思うとかは……別に……」
「驚いたのではないですか?」
「ええ……それは……」
「驚くと同時に、何か、オカルトめいたものを感じたんじゃありませんか? まさか、苫村さんがこのビルの屋上から飛び降りるなんて」
「ど……どういう意味でしょう……」
「あなたが見た夢と同じだったからです――」
探偵が言うと、知海は終始伏せ気味だった顔を上げ、驚愕の色がありありと見て取れる眼で探偵の顔を凝視した。
「おい」警部も、わけが分からないという顔で探偵を見て、「どういうことだ?」
「今から説明します。あ、これから僕が話すことは、多分に僕自身の想像が含まれますので、事実と違っているところがあったら、その都度指摘して下さい」
探偵の後半の言葉は知海に向けられたものだったが、言われた知海は何の意思表示も示さないまま、ただ絶句を続けるだけだった。それを了承の意味と取ったのか、探偵は話し始めた。
「一週間前――苫村さんが死んだ日ですね――知海さんは、支払日が重なる翌日に向けての業務処理のため、ひとりで残業をしていました。会社の規定、というか社長の方針では、どんなに遅くとも残業は夜の八時半までに切り上げることになっていましたが、その八時半になっても仕事は終わらなかった。知海さんは――恐らく常態的にやっていることなのかもしれませんが――社長の手前、八時半にタイムカードを押し、警備会社の記録にも残業の痕跡が残らないよう、正面玄関に施錠をしました。ここからはサービス残業、いえ、隠れ残業の時間となります。社内の照明も落とし、知海さんは自分のデスクのライトだけを点けて残業を再開しました。万が一のことを考えて、窓から漏れる明りを外部から目撃されないようにするためです。
知海さんの残業は、十時近くになって、ようやくけりが付きました。あとは警備会社のセンサーが入っていない裏口のドアから帰るだけ。ですが……知海さん、あなたはかなりの心配性のようですね。帰る前に確認しておきたいことがあった。それは、金庫の中身です。これも社長の方針で、金庫には常にある程度の額の現金を置いておくことになっていた。経理部であるあなたの癖だったのか、翌日が支払日が重なる日だということも関係していたのかもしれません。とにかく、あなたは金庫を開けて中を覗いた。中身は……空っぽだったんですね。常備されているはずの現金、五百万円が消えていた」
知海が息を呑む音が聞こえた。警部は神妙な表情で、探偵と経理部社員の顔に交互に目をやる。
「五百万円もの大金がなくなっている。それを知った瞬間の、経理部として、会社の文字通り金庫を預かる身である知海さんの心中は察するに余りあります。これまで見させていただいた言動から、あなたがとても小心であることが分かります。それと同時に、強い責任感もお持ちなのでしょう。そんなあなたは、あまりに衝撃的な出来事にパニックを起こしてしまい、ある破壊的な行動を取ってしまった」ここで一度探偵は言葉を止め、大きく息を吐くと、「知海さん、絶望に捕らわれたあなたは、会社を出て屋上に向かった。飛び降り自殺を図るためです。時刻にして、午後九時五十分。しばらく屋上の縁に立ち、身を投げる決意を固めて行動を起こしたのは、午後十時五分のことでした」
「な……なんで……」知海は驚愕と困惑がない交ぜになったような顔で探偵を見て、「で、でも、あれは……あのことは……」
「あなたがおっしゃりたいことは分かります。ですが、あれは夢ではありません。知海さん、あなたは実際にこのビルの屋上から飛び降りたのです」
「し……しかし――」
「同時に」知海の言葉を遮るように探偵は、「何という運命の悪戯でしょうかね。あなたが屋上に上がって飛び降りの決意を固めるまでの間に、この会社に侵入を果たした人物がいたんです。亡くなった苫村さんです」
「苫村が?」声を発したのは警部だった。「裏口からか?」
「いえ、警部、さっきも言ったように、裏口の鍵は信用の置ける厳選した社員にしか渡されていません。苫村さんがそれに該当していたとは思えない」
「じゃあ、どこから? 正面玄関を解錠したのでは、警備会社のセンサーが働くはずだが、そんな記録は残っていない」
「ええ、だから、窓しかありません」
「窓?」
「そうです。窓にも警備会社のセンサーは入っていません。ここは六階なので、施錠さえしてしまえば、窓からの侵入はまずあり得ないという判断からなのでしょうか。ですが、このフロアにはひとつだけ、鍵が壊れて施錠できない窓があるそうですね。苫村さんもそれを知っていたのでしょう。侵入口はそこです。その窓は非常階段に近い位置で、壁に這わせてあるエアコンのダクトを伝うアクロバットさえこなせば侵入は可能でした」
「苫村は何のために侵入なんてしたんだ? 自分の務める会社なんだから、堂々と業務時間中に入ればいいじゃないか」
「それが出来ない事情があったんです。記録が残るため正面玄関から入らなかった理由にも繋がります。何たって、苫村さんの用事というのは、着服した現金を返還することでしたから」
「着服? ――あっ! まさか?」
「そうです。苫村さんの大勝負の軍資金は、会社の金庫から拝借したものだったんです。彼は何らかの経緯で金庫の鍵番号を知ったのでしょう」
探偵は一度言葉を切った。知海は呆然とした表情で押し黙ったままでいる。沈黙を破って警部が探偵に話し掛けた。
「苫村が死んだのは、窓からの侵入に失敗して転落したためということか?」
「正確には違いますね。苫村さんは侵入には成功しました、奇禍に遭ったのは脱出時です。経緯はこうです。
イカサマで博打に勝った苫村さんは、拝借していた元手の五百万円を返すため、非常階段を上り壁を伝い、施錠されない窓から会社に侵入しました。彼もその翌日が支払いの重なる日で、金庫の中の現金が必要になると知っていたのでしょう。返却を急いだ理由です。
外から見る限り、社内に照明は灯っていませんでした。それで苫村さんは、会社に誰も残ってはいないと踏んで行動に移したのでしょうが、実際には知海さんがひとりで残業をしていました。デスクの明りだけを点けていたので、外からは分からなかったのです。
苫村さんが侵入を果たした時刻は奇しくも、ちょうど知海さんが屋上に向かって社内が空になった状態のときでした。知海さんのデスクの明りが点いているのを目撃したかもしれませんが、消し忘れだろうくらいにしか思わなかったことでしょう。苫村さんは金庫を開けて、持って来た五百万円を返却します。あとは速やかに脱出を計るだけ、苫村さんは入ってきたときと同じ窓の枠に足を掛け、外に身を乗り出します……まさに、その瞬間でした。直上から知海さんが降ってきたのは」
「飛び降りた位置と侵入した窓が同一線上にあったということか!」
「そうです。突然頭上から強い衝撃を受け、苫村さんは転落してしまいます。知海さんは飛び降りる瞬間、目をつむっていたんでしょう。窓から乗り出している苫村さんが真下にいることなど分からなかった。もっとも、あの道路には外灯がないため、目視していたとしても視認できなかった可能性が高いですけれどね。ともかく、飛び降りた知海さんは苫村さんと衝突してしまいます。転落した苫村さんは地面と激突して死亡。知海さんのほうは、苫村さんと衝突した弾みで、開いていた窓から社内に転がり入ってしまい、そこで気を失った。
数分後か、数時間後か分かりませんが、知海さんは目を覚まします。当然、不思議に思ったことでしょう。屋上から飛び降りたはずの自分が、どうして社内で気を失っているのだろうかと。とにもかくにも、知海さんは自分が飛び降りを決意するに至った原因である金庫の中をもう一度見てみました。そこには……」
「現金五百万円があったということだな。苫村が返したから」
「そうです。それを目撃した知海さんは、一連の出来事、つまり、金庫の中から現金が消えており、責任を取る決意を固めて屋上から身を投げたまでの一切が、残業の疲労から気を失って見た夢だったのだと思った。そのとき、知海さんの心に湧き出た安堵感は相当なものだったでしょうね。
窓が開いているのを不思議に思ったかもしれませんが、当然、きちんと閉めて帰ります。そのとき、窓直下には苫村さんの転落死体が横たわっていたわけですが、さっきも言いましたが、あの道路は暗いため、目を向けたとしても恐らく視認は無理だったでしょう。知海さん……」ここで探偵は知海に向き直って、「あなたの知らない情報もあったでしょうが、これがあの夜に起きた出来事の全てだと、僕は推理しました。どうですか。あなたが体験したこと。金庫の中から現金が消えていて、屋上から飛び降りたはずが社内で目を覚まし、なぜか金庫に現金が戻っていた、ということだけでも証言してもらえますか?」
探偵に返答せず、呆然とした眼差しでテーブルの端を見つめるだけだった知海は、
「それじゃあ……苫村が死んだ原因は私だと。私が、あの苫村を殺したと、こういうことになるんですか?」
「それはまあ……」探偵は複雑な表情をして、「あなたに殺意はなかったでしょうし、偶然が重なった事故としか――」
「ははは……」
知海は乾いた笑い声を発した。探偵は言葉を止め、警部と一緒に知海を見た。
「いい気味です。苫村のやつ、いつもいつも威張りくさって、全然仕事をしない、いや、出来ないくせに……。ざまあ見ろ……」
知海の目は、もうどこも見てはいなかった。
数日後、警部は探偵の事務所を訪れていた。
「例の鍵が掛からない窓近くの外壁から、苫村の指紋が検出された。普通に考えて、あんなところに指紋が付くはずはないからな。エアコンのダクトの上に、僅かだが人が歩いたような不自然なへこみも発見されたよ。窓枠の隙間からも、苫村の住んでいたアパート敷地内の土と同じ成分の微量な土が採取された。六階の約二十メートルという高さも、苫村が転落死した高度の二十メートルから二十五メートルという範囲の中だし、君の推理で決まりだろうな。何より、それ以外に、あの飛び降り映像が撮影された理屈が考えられない」
「知海も証言をしたそうですね」
「ああ、これも君の推理どおりだった。さらに知海が語ったことによると、どうも苫村が金庫から現金を拝借したのは、あれが初めてではなかったらしい」
「まさか、それまでのカジノの軍資金も?」
「全額ではないが、そうだろう。時折、知海が金庫の中を確認して、現金が数万円程度少なくなっていることが何回かあったそうだ」
「そんなことが、今まで露見してこなかったんですか?」
「呆れたことに、その都度、知海が自分のポケットマネーで補完していたそうだ。管理責任を問われて
「気が弱いにも程がありますね。彼の行動も、愛社精神のひとつの形なんでしょうかね」
「責任を感じて、一度は自殺を決意したくらいだからな。加えて、『苫村は自分が殺した』などと、わけの分からない供述まで始める始末だ。普段の苫村の言動が、余程腹に据えかねていたんだろうな」
「会社勤めって、色々と複雑ですね。僕は気ままな自由業でよかった」
「そもそも、君に会社員は絶対に務まらないだろうがな」
「ひどいな、警部」探偵は不満の声を上げて、「あ、そういえば警部、まだ答えを聞かせてもらっていませんよ」
「何のだ?」
「僕のスペシャルブレンドと、自販機の缶コーヒー、どっちのほうが美味いと思っているかですよ」
「おっと、会議があるんだった。じゃ」
「警部!」
一瞬だけ腕時計に目を落とした警部は、そそくさと事務所を出て行った。
変身転落死 庵字 @jjmac
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