変身転落死 2/3
「事務所で話したことの他に、何か訊きたいことはあるか?」
覆面パトのハンドルを握りながら警部は言った。そうですね、と助手席に座る探偵は、
「
「それに疑いはない。司法解剖で太鼓判が押されてる。二十メートルから二十五メートル程度の高さから転落したことによる死亡だとな。死体に動かされた形跡もない。当該ビルは七階建てで、地上から屋上までの高さが約二十四メートルだ」
「苫村が務めていた会社はそのビルの何階に入っているのですか?」
「六階だ」
「苫村の死亡推定時刻は?」
「午後九時半から十時半の間と見られている。映像に映っていた男が飛び降りた瞬間の時刻は、十時五分だった」
「時間も、まさに一致していると。結構遅い時刻ですね。苫村は、そんな時間にどうやってビルに入ったんですか? あ、入居している会社の社員だから鍵を持っていたとか?」
「そのビルの正面出入り口は特に施錠されることはないそうだ。入居している各会社の営業日や営業時間がまちまちで、鍵の管理の手間が増えるだけというのがその理由らしい。もちろん各フロアの部屋にはしっかりと施錠がされるがね。屋上へ出るための階段室のドアも内側から解錠できる。それに外壁に非常階段もあって、各階に入る非常口は当然内側から施錠されているが、屋上に直接上がるのはフリーだ。だから苫村に限らず、誰でもその気になれば深夜だろうが早朝だろうが、そのビルの屋上に上がることは容易なんだ」
「なるほど。その時刻、ビルには苫村以外の誰かがいたんですか?」
「聞き込みをしたが、その時間に働いている人は誰もいなかった。さっきも言ったが、そのビルはビジネスオフィス専門だから、個人の住居などにはなっていないんだ」
「ビルには誰もいなかった……いえ、警部、でも苫村以外にひとりは確実にいたはずです」
「カメラに映っていた背広の男だな」
探偵は頷いた。警部は、だが、と呟いてから、
「その男がビルに侵入して飛び降りたんなら、どうして死体が出て来ないのか。逆に苫村の死体はどうして出てきたのか……」
「もうひとつ教えて下さい。死んだ苫村は、その日は普通に出勤して仕事をしていたんですか?」
「ああ、社員の証言とタイムカードの記録によると、始業五分前に出社して定時で帰っている」
「苫村の人物像は?」
「ドライな性格だったようだな。周りが残業をしていても、自分の分の仕事が終わって定時になると、他人の手伝いもせずにさっさと帰宅してしまうと、社員の何人かが証言していた」
「苫村がカジノで勝った日というのは?」
「その前日の夜だ」
「三千万もの大金を手にしたことなど、全くおくびにも出さなかったということですか。で、どういうわけか、その日の夜に会社のビルから飛び降りた……」
「そういうことだ……見えてきたぞ。あのビルだ」
フロントガラスの向こう、警部は林立するオフィスビルのひとつを指さした。
「死体発見からもう一週間経っているので、規制なんかは解除した」
警部が言ったように、苫村の転落死体があった場所はすでに開放されていた。死体の状態を象っていたテープも撤去されてはいるが、アスファルトの所々に残っている赤黒い染みが、確かにそこに死体が横たわっていたという痕跡を物語っている。そこはビルの角に近い位置で、横に数メートル弱の距離を置いて鉄製の非常階段が屋上まで延びている。
探偵は死体のあった地面を見てから、ゆっくりと視線を上げた。屋上まで一定間隔で窓ガラスの帯が並んでいる。七階建てのため数は七つある。各階の窓の下にはダクトパイプのようなものが延び、壁面に設置されたエアコンの室外機と繋がっていた。
「狭い道ですね。乗用車がやっとすれ違えるくらいの幅しかない」
探偵は道の前後を見回した。うん、と頷いて警部も、
「特にどこに通じているでもない裏路地だからな。人通りだって、昼間でもこのとおりだ。道に面した店舗や外灯もないから、夜には真っ暗になる」
平日昼間のオフィス街だというのに、その道路にいるのは探偵と警部の二人だけだった。
「もっと賑やかな道だったら、飛び降りの直後すぐに誰かが気が付いて通報してくれて、死体の発見がもっと早まったんだろうけどな」
「飛び降りの瞬間が捉えられた時刻も、十時五分と、深夜というには早い時間でしたしね」
「今の時代、そんな時間まで残業している会社は稀だろうしな」
「残業をしないというよりも、させないと言うほうが正しいかも知れませんね」
「そういったことには、色々とうるさい世の中だからな。苫村が務めていた会社も、その日、最後に残っていた社員が押したタイムカードの時刻は午後八時半だった」
「いいことじゃないですか。僕なんかは、八時半でも働き過ぎだと思いますけどね」
「うちの部長に聞かせてやりたいよ」
警部は苦笑いをこぼした。
「そう言う僕も、商売が商売なんで、残業についてとやかく語る資格なんてありませんけれどね。でも、タイムカードを押すだけ押して、また仕事に戻るなんて話をよく聞くじゃないですか」
「サービス残業ってやつだな。だが、この苫村が務めていた会社では、そういったことはないそうだぞ。何でも、最近になって社長が交代したんだが、その新社長が残業嫌いなんだそうだ。それで社の方針として、どんなに忙しくても午後八時半までの残業しか認めていないらしい。事実、苫村が飛び降りた日も、午後八時半過ぎに会社の玄関ドアがロックされたことは警備会社の通信記録に残っている」
「ますます結構なことじゃないですか」
「ただ、一部の社員からは不満の声が上がっているとも聞いたな」
「不満って、残業しないことについて? ワーカホリックってやつですか?」
「やり方の問題らしい。業務の中には、どうしてもその日のうちに片付けてしまわなきゃならない仕事もあって、そういう必要な残業まで毛嫌いする新社長は杓子定規すぎるというんだな。それまでは深夜まで残業が及ぶようなことがあっても、他の日に代休を取るなどして調整してきていて、それに社員も不満を持っていなかったそうだ。平日に大手を振って休めるから、代休を歓迎する社員もいたとか」
「なるほど。人が働いている時間に休むのって、気分いいですものね」
「君は、しょっちゅう味わってるだろ」
「警部」
「無駄話もいいが、どうだ、現場に来て何か掴めそうか?」
「そうですね……」探偵はもう一度頭上を見上げ、さらに道路の前後に目をやって、「どうして苫村は、こんな狭い道に飛び降りたんでしょう?」
「どうしてって、別に賑やかな道でなけれりゃ飛び降りちゃならないなんて決まりはないだろ」
「それはそうですけれど」
「階段室から屋上に出て、まっすぐ歩くとこの道路に面した壁面になるんだ」
「そう言えば、見せてもらった映像でもそうでしたね。飛び降りるつもりで屋上に出たなら、この道路にダイブしてしまうのは自然、ということですね」
「映像と言えば、飛び降りた男が苫村とは全くの別人だったことについては、どうだ? 何かトリックが分かりそうか?」
「トリックと言われましても……これが逆だったら、まだ解釈の余地はあるんですけれどね」
「どういうことだ? 逆とは、飛び降りたのが苫村で、転落死体で発見されたのが背広の男だったらという場合か?」
「そうです。大柄な苫村が、小柄な男を体の前に抱えた状態で飛び降りるんです。苫村の体にだけはあらかじめ命綱を結んでおきます。で、飛んだ瞬間に手を離す。すると小柄な男だけが地面に激突して自分は無事、という寸法です。カメラに捉えられた後ろ姿だけでは、体の前面に別の誰かを抱え込んでいるとは分からないわけです」
「苫村の体が大きいから、後ろから見る限りでは、小柄な男の全身はすっぽりと隠れてしまうためだな。それはそれで上手い手かもしれんが、確かに今回のトリックには全然当てはまらないな」
「はい。というかですね、そもそも、トリックなんて使われたんでしょうかね? だって、今回のことが複雑化したのは、テレビ局のカメラが偶然捉えた映像が出てきたせいでしょ。あれ以外の目撃者はゼロですよ。トリックを仕掛ける相手がいません。極端な話、あの映像さえなければ警察は自殺と断定して、事件は幕切れしていたんじゃないですか?」
「そうだろうな。行方不明の五百万円の謎はあるが、他殺である根拠があまりに乏しいからな」
「消えた五百万円。その件もありましたね。うーん……」
探偵は腕組みをして唸った。それを見た警部は、
「どうだ、ひと息入れないか。奢るよ」
懐から小銭入れを取りだして近くの自販機に向かい、「コーヒーでいいか?」と警部は二人分の飲料が買えるだけの硬貨を投入した。
「警部、コーヒーなら事務所で僕のスペシャルブレンドを飲んだばかりじゃないですか……あ! もしかして警部、僕のブレンドが口に合わなかったんですか? まさか、缶コーヒーのほうが美味いとか言うんじゃないでしょうね」
警部は無言のまま、コーヒーのボタンを押した。
「どうして黙るんです!」
「君も選べよ」
警部は商品選択ボタンが灯ったままの自販機を指さしたが、
「僕は結構です」
と探偵は口を尖らせて横を向いた。やれやれ、といった表情で警部は代金返却レバーを倒し、釣り銭口から硬貨を回収して、
「……お、昭和六十四年の十円玉だぞ」
取りだした硬貨をしげしげと眺めた。それを横目で見て探偵は、
「確かに昭和六十四年は七日しかありませんでしたけど、だからといって、その年に製造された硬貨に大した価値なんてないんですよ」
「そうなのか?」
警部は残念そうに十円玉を小銭入れに戻して、
「自販機から戻って来る硬貨って、自分が入れたのとは別のものなんだな。初めて知ったよ。俺が入れたのは、最近の年に製造されたピカピカの十円玉だけだったから、すぐに分かった……どうした?」
警部が向くと、探偵は横目ではなく正面からしっかりと警部と、その横の自販機を見つめていた。さらに頭上、七階分の窓が並んだビルの壁面を見て、
「入れたものとは別の十円玉が返ってきた……それはつまり……押し出されて……」
呟きながら探偵は組み合わせた両手を額に付けた。それが、探偵が思考を巡らせているときの癖だと知っている警部は黙って見守る。
「警部」額から手を離した探偵は、「調べてもらいたいことがあります。苫村の会社に、施錠したあとでも、警備会社のシステムに知られることなく会社に出入り可能な出入り口がないか」
「それが何か今回の転落死と関係があるのか?」
「大ありです。さらに……」と探偵はビルを見上げて、「死体の落下位置の直上の窓を調べて下さい……いや、社員に訊いたほうが早いな」
「窓がどうかしたのか?」
「はい。鍵が掛からないはずなんです」
「どういうことだ?」
「とにかく、行きましょう」
探偵はビルに入っていった。
探偵と警部は、会社の総務部の社員に話を訊いた。出入り口と窓については、探偵の言ったとおりだった。このビルのフロアには全て、正面玄関の他に裏口が存在していた。窓もクレセント錠が壊れて施錠できない状態のものが一枚あるという。その位置は、まさに死体が発見された場所の直上だった。加えて、この会社で警備会社のセンサーが付いているのは正面玄関だけで、裏口や窓はセンサーの管理対象になっていないということも訊き出した。ちなみに正面玄関の鍵は全社員が所持しているが、裏口の鍵は限られた数名の社員しか持っていないという。
話を聞き終えた探偵は、
「大きな金庫がありましたね」
応接室に通される途中、オフィスの隅に金庫が置かれていたのを探偵と警部も見ていた。
「ええ、まあ」
総務部の社員も頷いて、他に何かあるかと尋ねてきた。「あります」と答えた探偵は、
「苫村さんが死んだ日、最後まで残業をしていた社員の方と話をさせて下さい」
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