さいとすけるとん

文月(ふづき)詩織

さいとすけるとん


「あれは3年前のことだった」


 そう呟いて、僕は回顧する。思い返すだけで辛く苦しい、あの頃のことを。


               *


 あの頃の僕は就職活動に邁進していた。


 大学院の研究を脇に置いて、毎日毎日似合いもしないリクルートスーツに身を包み、知りもしない会社で愛想を振りまいて回った。


 社会の人々が当然のように進むレールから外れまいと必死になって、満員の車両の外側にしがみつくようにして就職活動を行っていたんだ。


 けれどどこにも拾ってはもらえなかった。


 僕はどんどん自信を喪失していった。


 大人になれば仕事に就いて、文句を言いながらも働いて、お給料をもらうのだとずっと思っていた。


 それが普通だと思っていた。


 だからそれが無理かもしれないと気付いた時、怖くて怖くて仕方がなかった。


 普通でいることに汲々きゅうきゅうとしていた僕の目に、君はなんと眩しく映っただろう。


「シュークリーム食べたくなったから、買ってこい」


 使い走りめいた扱いに、僕が気を悪くする可能性を考慮したことが、君にはあるかい?


 君はいつだって自由だった。


 何者の目も気にせず、それなのに誰からも嫌われることもなく。


 僕は君のことが妬ましくて妬ましくてたまらなかった。


「君は就職活動はしないのかい?」


 いつまでも研究室に入り浸っている君に、僕は問いかけた。


「私の仕事は、この世界を破壊することだから」


 大仰に言って君がかざした試験管の中に入っていたのは、何の変哲もないヒーラー細胞。


 君のいう世界とは、つまり常識のことに他ならない。だけど君の研究内容では、どんなキセキが起きたところで世界の破壊なんてできやしない。


 その時の僕は、それが残念でならなかった。君が本気でそれを目指してくれていたならば、と。


「ああ、世界なんて滅びないかな」


 僕は大いに溜め息を吐いた。


「就職活動がうまくいかない程度のことで世界の滅亡を願うんじゃあない」


 君は呆れたようにそう言って、細胞骨格を染色した細胞たちを顕微鏡の下に置いた。


「さて、今から星を数えてみようかな?」


「ねえ、君は何故そんなに研究にのめり込んでいるの? 何かいいことあるかい?」


 たまらず、僕は君に問いかけた。


「そんなの決まっているじゃあないか。知りたいことを知るためさ。それ以外に何が必要だい?」


 君はからかうようにそう言った。


「お前は何が楽しくて就職活動なんてしているんだい?」


「楽しくはないよ。でも、やらなきゃならないことだろう?」


「うん、それはそうだ」


 君はあっさり納得すると、口を閉じてしまった。


 君は染色されたアクチンとミオシンとチューブリンの輝きに目を奪われて、僕のことなんて忘れてしまったのだろう。


「博士課程に行くのかい?」


 僕は尋ねた。


「まあ、そうしようかと思ってるよ」


 君は淀みなく答えた。


「生活していけるの?」


「私一人なら、なんとかなるでしょ」


 君はうるさそうに肩を竦めた。


「だけどほら。ずっと君だけとは限らないよ。例えば、君の家の隣に住んでる——」


「隣の姉ちゃんなら、引っ越したぞ」


「なんでそっちに行くのさ。逆隣りだよ。かっこいいお兄さんが住んでいるだろう?」


「かっこよかったかなあ? 私、細胞骨格しか見てないんだよね」


「せめて肉眼で見ろ」


 顕微鏡のピントを変化させながら、君はくすくすと笑う。


「将来、恋人が君に言うかもしれないよ。俺と細胞と、どっちが大事だ、って」


「お前も細胞さ」


 君はようやく顕微鏡から目を逸らして、にっこりと笑った。


「私の壮大な世界征服計画を教えてやろう。細胞骨格から始まる世界掌握計画だ」


 不意に、君は声を潜めてそう言った。


「うん、世界の定義から聞こうか」


「生命のことに決まっているだろうが。お前は社会の構造と生命の構造に類似性を見出したことがないのか?」


「ない」


「そっか。ないならいいや」


 君は興味を失ったように僕から視線を逸らした。僕はなんだかいたたまれなくなって、そっと実験室の外に出た。


「就職活動、頑張れよ」


 君の声は、やけに空々しく僕の鼓膜を震わせた。



               *



 僕の就職活動はその後もさっぱり振るわなかった。


 一方で、君は毎週のように華々しい成果を教授に報告していた。


 僕はますます劣等感に苛まれた。


 君だけじゃない。同期は次々と内定をもらっていった。僕だけが誰にも選ばれなかった。


 憔悴する僕を、君は心配そうに見つめていたっけ。


「比べたって仕方がないだろう」


 いつだったか、君は僕にそう言った。


「対照する条件が整っていない相手と比較して、興味もない企業を次々受けて。お前は一体何をしているんだ?」


「うるさいなあ」


 僕は答えた。あの頃の僕のささくれだった心に、君の存在が与える苦痛がどれほどのものだったか解るかい?


 焦っていた。本当に焦っていた。


 だからこんな僕を選んでくれた会社が現れた時、僕は一も二もなく飛びついた。


「キセキのチカラだ」


 僕は理系にあるまじきことを言って、信じてもいない神様に感謝を捧げた。


 内定をもらう条件として就職活動はそこで打ち止め。何の文句もなかった。いくつかは選考中だったけれど、丁寧に辞退の連絡をした。


「今日はみんなに話したいことがあります」


 定例の研究室のディスカッションで、僕がそう切り出した時、君は妙に不機嫌そうにしていたね。


「この度、めでたく内定を頂くことが出来ました。新人研修などもあるそうで、これからしばしば研究室を抜けることがあるかもしれませんが、よろしくお願いします」


 皆が労ってくれる中で、君だけは本当に腹立たしげにしていた。


 僕も腹が立った。


 僕を認められたことが、そんなに不満なのかと思った。


「修論どうするの? このままだと間に合わないよ」


 ディスカッションを終えた後、君はやっぱり不機嫌そうに、僕にそう問いかけた。


「会社としては、修士号はなくてもいいと思ってるみたいだから、場合によっては中退も考えるよ」


「そっか。どうして修士に来たんだよ」


 君は力なく首を振っていた。無造作にくくられた髪が首と共に揺れていたのを、やけにはっきりと覚えている。


「だって、みんな修士まで進むみたいだったし……。理系は修士まで行くのが割と普通じゃない」


「楽しい?」


 不意に発せられた、君らしくもなく抽象的な問いかけに、僕は意味が解らず固まった。


「生きてて楽しい?」


 子供みたいなその言葉に、僕は心底呆れた。


 僕の中で、立場は逆転していた。僕は誰かに選ばれて、君はその土俵にすら立っていない。


「楽しいか楽しくないかで選んでいちゃだめだよ。僕ら、もう子供じゃないんだからさ。いつまでもモラトリアムって言うわけにもいかないじゃない」


 説教臭い僕の言葉を、君は黙って聞いていた。


「この国じゃ研究者なんて食っていけない。しかも基礎研究。君だって知ってるよね。博士課程まで行っちゃうと、大学には席がないのに就職もままならないのが現状さ。夢を追うのもいいけれど、現実もちゃんと見ないとさ」


「ああ、そうだな。その通りだよ」


 そう答えた君の顔からは、表情がきれいさっぱり消えていた。


「要するにお前には、その程度のものしかなかったんだな」


 静かに零れた君の言葉は、僕の耳から脳へと浸透し、けれども何の影響も与えなかった。


 なのにその言葉は記憶ではない何かの片隅にずっとこびりついていて、時と共にじわじわと成長を始めた。


 一年目。会社が思っていたようなものではなく、社会人になることはゴールではなかったことに気が付いた。


 二年目。仕事を押し付けて来る先輩に疲弊し、軽薄な後輩に辟易した。社会人にゴールなんてないことを悟り、泣きたくなった。


 君の言葉がどんどん重みを増してゆく。


 三年目。レールの上を走る満員電車の窓にしがみつく腕の感覚は、もうほとんど残されていなかった。ただ毎日毎日、会社を辞めたいという欲求と戦っていた。


 そんな時、風のうわさで耳にした。君の論文が科学雑誌ヌートンに掲載された、と。科学に携わる者なら誰もが憧れる、あの雑誌に。


 君は世界を壊したのだ。


 その噂に被さるように、君の声が聞こえたような気がした。


「この勝負、お前の負けだ!」


 ああ、解っている。君はこんなことを言わない。


 君にとって人生は誰かと勝ち負けを競うものではない。


 どこまでも己の道を突き詰めるものであり、そこに他人の介入する余地など存在しないのだ。


 だけれど、僕にはもう君の道を祝福する余裕が残っていない。


 自分の道を持たず、ただ漫然とレールの上を走りながら、別の道に向かう人を羨み、道から引きずり降ろしたいという欲求に身を捩る。


 僕は醜いものになり果てた。


「これが罰ゲームです」


 先輩、後輩、上司、同期、そして君……。全ての嫌な者たちの声がより合わさって、一つの言葉を形成した。


 一番大きな声は、僕の声だった。



               *



「話聞いてたら鬱陶しくなったから、カウンセラーに行ってこい」


 いつかのように僕にそう命じて、君は丸めた科学雑誌ヌートンで僕の頭を小突いた。


「ついでにシュークリームを買ってこい。私の明晰な頭脳を維持するために、糖分が必要だ」


 僕は叩かれた頭を押さえて、君を見つめる。


「今の話を聞いて、君は僕を軽蔑しないのかい?」


 僕は恐る恐る、君に尋ねた。


「そりゃあ、私、細胞骨格にしか興味ないからね」


 君はからりと笑ってそう答えた。


「お前だって細胞さ」



 

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