藍色の叢

紫 繭

プロローグ

 緑が地に溢れ、生命が躍動する。耳を澄ませば、鳥たちの囀りが聞こえ、草葉が心地よい音を立てて擦れる。前髪の隙間から空を仰ぐと、新緑に囲まれた青空が見えた。陽光が枝葉の間を通り抜け、光のカーテンを作っている。その光の眩しさに立ち眩みを憶えて、思わず目を閉じた。

 刹那、一陣の風が吹き抜け、僕の前髪が揺れる。枝葉がしなり、森の生命が息を潜めた。空気がピンと張りつめ、空気が肌を刺す。

 閉じていたまぶたをゆっくりと開くと、見覚えのある女性が立っていた。

「よく来たね、冬樹。何年ぶりかしら?」

 切れ長の目、どこか、世を憂いているような瞳。それをさらに増長させてしまいそうな銀縁の眼鏡をかけていた。幽玄な笑みを浮かべ、こちらへとゆっくり足を踏み出す。

「ああ、姉さんか。いきなり現れるからびっくりした。最後に会ったのは大体、三年前くらいかな」

 案外、時の流れは早いものだな。と言葉にしながら思う。最後に姉さんとあったのは確か、あの時だ。そう――あの……。

「何考えているの?なんでもいいけど、早く私の家に行かない?立ち話もなんだし」

 姉のざらついて掠れたような声に懐かしさを覚える。昔も今も、姉の声は変わらない。青年は頷く。

「姉さんの研究室は、前々から見てみたかった。確か、植物発生学だったよね?どんな事を学んでいるの?」

「植物発生学は、植物の成り立ちを研究する学問。歴史を学ぶ植物発生学歴史科と、植物の構造や生育過程を研究する植物発生学環境科があるわ。私は植物発生学環境科をあんたくらいの年齢の時に専攻してた」

 二人は話をしながら獣道を進んでいく。目を凝らさないと違いが分からないくらい、地に生えた草がうっすらと押しつぶされている獣道だ。お世辞にも整備されているとは言い難い。

「あんたは大学で、何を学ぶつもりなの?」

 姉の言葉に、僕は考えを巡らせる。

「まだ、明確に決まっているわけじゃないけど、天文学を専攻したいと思ってる」

 天文学、それは理系の中で最もロマンチックな学問ではないかと思っている。人類の何よりも遠い位置にあるものを研究し、夢想し、宇宙の壮大さに浸る。確かに、価値の薄い学問かもしれない。機械工学の方がより生活を豊かにするだろうし、農学の方が食を発展させていくだろう。物理学の方がスポーツの精度と技術を高めるに違いない。けれど、僕にはそんなことなどどうでもよかった。星々は、誰にでも見えて、手の届かない位置にあって。自分のちっぽけさを思い知りながら学ぶ。

 多分、僕は星々に憧れているのだろう。どの星も自分が唯一であるように輝いて、誰がどのように見ようとかまわず輝き続ける。自己中心の、唯我の塊。

 僕は星に惚れている。

「天文学ねぇ、何が良いのかわからないし、何より、給与が厳しいと思うわよ」

 姉は昔から、現実主義だ。将来の目下の事だけに囚われず、先まで見据えている。目の前の事から目を逸らさず、間違いをしないように正解を選んでいる。その最たる例が、姉の経歴だ。

 姉は昔からプライドが高く、いつも負けず嫌いだった。

 熱心に勉強をしていた。姉に理由を問うとこう答えたのだ。

『将来、父親を超えたい』

 父親もかなりの高学歴、K大学にて植物発生学を専攻、その後卒業し、大学で得た知識を生かし、遺伝子研究所に就職というエリートコースではあったのだが、姉はそのさらに上を行ったのだ。姉の望みは達成され、宣言通り、父より高学歴であるO大学卒業。学歴がすべてではないと思うが、その指標とするには充分だろう。

「単純に星って綺麗だろ。だからそれを身近に感じたい。それだけだな」

 綺麗なものを研究したい。新たな一面を見つけたい。独占したい。そこに、たいそうな理由なんて無いんだ。

「まあ、あんたらしいと言えば、あんたらしいか。三年経っても、ナルシストなのは相変わらずなのね」

「自分でも、こんなに自己愛が強いのって、気味が悪いと思うよ。でも、胸の奥に秘めたる思いって、偽って嘘を吐いても無駄だと思うんだ。根底の部分を覆すのは難しいもんだよ」

「要するに、あんたは開き直っているってことでしょう?なかなか厄介なナルシストに育ったものね」

 そう言いながらも、姉はほほ笑んでいた。心底ナルシストを、僕を嫌がっているのではないと分かった。単にあげ足を取っているのだと分かった。

 それだけで、僕は安堵を覚える。また、昔のような日々が戻りつつある。これはほんの短い間での事だろう。それでいい。それだけでいい。

 森林のざわめきは、僕達に安らぎを与えてくれるだろう。これは僕が姉の元へと遊びに行った、たった三日間のお話。

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