目を覚まし、リビングへと向かうと、姉の姿は見当たらなかった。ぼんやりとしながら、暇を過ごしていると、しばらくして玄関の扉が開いた。

「冬樹、悪いけど、ちょっと仕事の用が入った。仕事はここでするけど構わないよね」

 有無を言わせぬ口調で、矢継ぎ早にまくしたてる。

「朝ご飯は冷蔵庫に入れておいたから、食べたかったら食べて。私に何か用があれば、地下室に来て」

 姉はそう言い残すと白衣の裾を翻し、リビングを通り抜け、階段へと消え去った。後から、数人の見知らぬ白衣姿の男女がやってきた。

「あれ、春樹さんにお客様がいるなんて、珍しいですね。それとも、研究関係者ですか?」

 銀縁眼鏡の男性が問いかける。

「僕は、橘冬樹。春樹の弟です」

「そうでしたか、春樹さんはいつも研究の事ばかりで、家族のことなど口にしませんでしたから、驚きましたよ」

 そう言いながら、彼らも姉の後を追うように、階段を下りて行った。姉が躍起になる研究内容である植物発生学、いったいどんな学問なのだろう。

 少々興味が湧いた。後で、それとなく見に行ってみよう。きっと、家族である僕なら、そう怒られないだろう。

 僕は食パンをオーブントースターに放り込み、冷蔵庫からラップに包まれたベーコンを取り出した。もう既に焼いてあったので、電子レンジで加熱するだけだった。

 さっさと朝食を済ませ、僕は着替える。清潔感のある白の服に黒のカーディガンを重ねたものだ。ある程度身だしなみを整えたところで、僕は満足する。

 これなら、姉に文句は言われないだろう。急須に茶葉を入れ、いくつかの湯飲みをお盆に乗せた。完璧だ。

 ゆっくりと、忍び込むように、階段を下って行った。

 地下に広がっていた空間は一階とそれほどの変わりはなかった。綺麗なフローリングの床張りに、いくつものデスクと、山積みにされた資料が沢山おいてある。そこでは先の研究員の方々が、ある人はパソコンとにらめっこをし、ある人はフラスコに何かの液を垂らしていた。

「みなさん、お茶はいかがですか」

 そう言ってほほ笑んだ。

 研究員の皆は、こちらを見ると、少し頬をひきつらせた。男の研究員の方が僕の視界を遮るように、目の前に立つ。

「あ、ありがたいですけど、ここは関係者以外、立ち入り禁止なんです。早く、上に戻ってください」

 そう言って、僕は肩を押された。追い出される寸前、僕は目が合ってしまった。見覚えのある、どこか憂いているような瞳の少女。頭が真っ白になった。


 何が何だか分からなかった。気が付けば夕方になっていた。僕が落ち着きを取り戻し、姉を問いただそうと意を決したときには、研究員の方々は仕事を終え、撤収した後だった。

 研究員に立ち入り禁止と言われたが、そんなことを気にしている余裕などなかった。階段を駆け下り、様子を覗く。一番奥のデスクでひとり、姉がパソコンに、何かを打ち込んでいた。

 足音を立てないように近づく。けれど、すぐにばれてしまった。姉の座っていた椅子がくるりと一回転し、こちらへと向き直った。

「どうしたの、一度追い出された冬樹くん」

 なかなか、意地が悪い。けれど、僕は構わずにつづけた。

「さっき、ここに、姉さんはいたんだよね?」

 僕は遠回りをして、質問をする。

「ええ、冬樹が追い出されるところは見たわ」

 はぐらかすような、話の本筋をずらすような話の展開だ。姉さんは話術にたけている。このままでは、話の核心には迫れないだろう。さっさと、切り込むしかない。後には戻れない。

「さっき、姉さんによく似た女の子が見えたんだ。あれは何?」

 姉が結婚したという話は聞いていない。それに、子供だとしても、姉に似すぎている。というか、幼い頃の姉そのものだった。おかしい。

「冬樹、これから話す話は、信じ難いことが多いかもしれない。けれど、話すことは全て事実。気になることは全て聞いてほしい」

「……分かった」

 姉、春樹は伏し目がちに笑った。そして、ゆっくりとまぶたを閉じては開く。

 姉の口から飛び出した言葉は、信じられないことばかりだった。

「まず、話しておくべきは、私によく似た少女の事かな。あれは、私の体細胞をオリジナルに創った植物人間だね。名は夏樹という」

 そういうと、姉は、部屋の奥にある、扉を開けた。そこには、僕が朝見かけたあの少女が眠っていた。

「どういうこと……?」

 僕は理解が追いつかずに、ただ、少女の横顔を見るばかりだった。

「植物発生学、この学問の終着点の一つとしては、植物の生育を人間に代替する事で、人間と植物のハーフを生み出すこと。彼女は、体細胞と植物細胞の混合比を七対三で誕生させた。植物と、動物の最大の違いは何だと思う?冬樹」

 突然の問いかけに、僕は戸惑う。咄嗟にひらめいた答えを口にした。

「動けるかどうか……、とか?」

「悪くない着眼点ね。ただ、動けないことを人間に取り込むのはデメリットでしかない。正解は、自身の栄養を太陽と、二酸化炭素、そして、地中の栄養といった、人間にはおおよそ食べられないものをエネルギーとすることが出来る。これは、現在問題となっている、食糧難の解決になるわ。ほかにも、子宮癌などの要因で、子供が出来ない人にも、他人を介さず子供をつくることが出来る。ねえ、冬樹、これが父さんの言っていた、将来有望な研究。確かに、素晴らしい研究だとは思ったでしょう」

 そこまで、言って、姉は口を閉じた。目は細く、口はわずかにほほ笑むような表情だ。でも、どこか影を帯びている。

 姉の研究は、常軌を逸している。倫理観に欠けるし、何より、自身を被検体にするなど、おかしい。ばかげている。

 うまく口には表せないけれど、何か気持ち悪さを感じる。生理的に受け付けない。生命の核心に近づきすぎている。

 頭が痛い。

 この、僕の感情に誰か、説明をつけてくれよ。思わずそう叫びたくなった。

 それと同時に、僕はこの研究の、学術的価値があるとも思ってしまっていた。

 気持ちが悪いのに、素晴らしい。狂気的だけど、その素晴らしさに、気づいてしまっている自分が居る。

 満ちている。矛盾と狂気に。

「姉さんは、本当に、この研究をしたいと思ったの?昔から、父さんの跡は継ぎたくないって言っていた。なのに、突然、進路を変えてまで、この研究をしたいと思うようになった。何がきっかけで、植物発生学に携わろうと思ったの?」

 僕は質問の方向性を変える。

 研究内容ではない。僕が知りたいのは姉の考えだ。

「冬樹の方から、聞いてくれて助かる。それが大切な話の二つ目。七年ほど前のあの夕方。あの事故を憶えてる?」

 忘れるはずの無い、踏切でのあの事故。今でも、電車に畏怖を抱かせ続けている、あの事故。僕はあの時、右半身を激しく損傷した。

「もちろん、憶えているよ」

 姉は目をしばたいた。神妙な面持ちで、話を続けた。

「冬樹は、確か、私をかばったんだよね。それを償いたかったという事が大きな理由の一つ。けれど、それ以上に重要だったのは、この植物発生学の使用は専門家が使用者に対して、永く寄り添う必要があるということよ」

 そこまで、まくしたてて、深く息を吸い込む。

 姉の目は潤んでいた。奥歯を強く、噛み締めて、何かを堪えているような、歪んでいて、美しい表情。

 それと同時に、僕も同じ表情をしていることに気が付いた。顎がわずかに痛む。思考が似通っている。やっぱり、僕らは兄弟だ。

「冬樹の事故は、おおよそ助からないものだった。右半身を吹き飛ばされ、普通の人間であれば助からない。けれど、冬樹は助かった。これが何を意味するか、分かるでしょう」

 真っ直ぐな、冷徹な瞳が僕を貫く。銀縁のフレーム越しに伝わる緊張感、そして、悲壮感。

 この問いの解はいったい何なんだよ。じらさないで教えてくれよ。

姉は僕に何を伝えたいんだ。

 僕が思考を巡らせている途中で、再び、姉は口を開いた。

「植物の生育や、新しい種の発見のために使うテクニックがあるの。接ぎ木って分かる?木の枝を切り落として、そこに別の木の枝をくっつけて、固定するの。近縁種であればあるほど成功率が高まるわ。冬樹の事故の時、その接ぎ木の技術を応用したらしいわ」

「『応用した』って言うけど、そんなの、人間で出来っこないだろう――」

そこまで言って、僕は思わず口をつぐんだ。ある、一つの考えにたどり着いてしまったから。信じがたい、考えが頭にあるから。

「もう、分かったみたいね。あなたは、父親の身体を接いだの。そうでもしないと、冬樹は助からなかったから……」

 父親の身体を――接いだ。この身体は、半分僕のものであり、半分僕のものではない。訳が分からない。キャパシティをとうに超えている情報量だ。

「父が消息を絶った理由って、もしかして、これが原因?」

 僕の言葉に、姉は頷いた。父は、僕に身体を託したんだ。そんな感覚は全くしないけれど。確かに、あの時、僕は右腕が身体から、離れていくような感覚を憶えている。やはり、あれは夢なんかではなかったんだ。

「冬樹、私たち一家は、植物と人間のハーフなの。父さんは自分自身を被検体として、植物細胞の要素の一つ、ミトコンドリアを注入し、臨床実験が始めたらしいの。父さんは、植物人間の初代。その血統である私たちも、紛れもない植物人間よ。だから、身体を接ぐことが出来る。それを利用して父親は、自身の身体を冬樹に接いだの。気持ちが悪いと思うけれど、生きるために仕方なかったの。父を許してあげて。父に悪気はなかったのだから」

 僕は頷く。なんて歪んだ愛情なんだ。だから、いけ好かなくて、嫌になる。

「私は今、父親を蘇らせる研究をしている。それは、最終段階に来ているわ」

 姉の表情はいつもとは違う、恍惚の表情を浮かべていた。狂気がにじみ出ていて、舌をチロリとのぞかせた。

「実は冬樹を招待したのには理由があってね。父の身体は、現在、植物に取り込ませてあるわ。体細胞と植物細胞の混合比はおよそ二対八。とてもじゃないけれど、動けないし、喋れない。ほぼ、植物状態なの。父親を蘇らせるには、子供全員のDNAを採取して、それを培養にする。その後、それらをかけあわせながら、植物人間の身体で、身体を生育するの。協力するかしないかは、冬樹次第」

 僕は身震いした。禁忌の研究に、僕は立ち合おうとしている。協力すれば、父は蘇るだろう。それは、多分、良いことだ。

 けれど、あの、憎々しい父親の顔を見たくはない。僕の妬心は誤解が大半ではあったが、すぐに呑み込めてはいない。僕は父の前では、永遠に子供なのだ。

「父親を蘇らせるメリットとデメリットは何?」

 僕は静かに問う。空気は張りつめていた。

 姉が喋るたびに、僕の肌が震えた。

「一番のメリットは、そうね……、私の償いが終わる事ね――」

 そう言って、うつむいてしまった。

「父親も、もとに戻り、以前と同じような生活が送れる。それが、私の望みよ」

 僕は、はっと息を呑んだ。姉はあの事故以来、ずっと、苦しんできたんだ。呵責を背負って、償おうとしてきたんだ。それを、ないがしろにしてしまっていいのか――。僕は思考を巡らせる。

「デメリットは?」

 本心では、こんなことを聞きたくなかった。頷いてあげたかった。けれど、僕の倫理観がそれを許さなかった。

「もちろん、一度、死にかけた人間が別の身体に精神を宿して生まれ変わるの。人格は、本人のまま。なんだか、人間の手には負えない領域に達している気がしてならない。こういう時、一番、人間味のある答えを返してくれたのは冬樹よ。この、言葉にしようがない、気持ち悪さ。あなたは呑み込める?」

 僕は熟考した。かつてないほど考え、目の前の姉には、わき目も振らず、考えた。

 どちらのことについても、実行したときのことを考えた。どっちに転んでも、今までと同じにはならないだろう。

 そして、僕は一つの結論を姉に告げる事を決めた。

 間違っているかもしれない。それでも、僕は選ぶことを強いられている。

 選ばないという選択肢は、ない。

「姉さん、僕は――――――」

 僕は宣告する。

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