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歩くこと十五分、森が少しだけ開け、陽光が十分に差し込むほど、空が見えるようになった場所に、姉の家は建っていた。周りの景観と少し不調和な白い壁と、南向きの大きな窓ガラスが特徴的な家だ。一帯は雑草もあまりなく、畑もあることから、ここだけは人の住んでいると言えるような様相だ。
「思ってたよりも、現代っぽい家だね」
僕は思ったことをそのまま口にした。
「虫が家に入らないように、かなり、厳重にしているの。今まで、この家が建ってから、窓を開けたことは一度もないわ」
何をこの人は誇ったように言っているのだろう。と思いながらも、過去の事を想起する。姉は重度の潔癖症で、正直、僕が家に上がる事すら拒まれるのではないかと、内心ひやひやしていたのを思い出した。つい先日の事だが、鮮明に覚えている。万が一に備えて、毛布を車に積んであるのを思い出して苦笑いした。
内装も外見に違わず、モダンな家であった。ごく一般的な、森の中に建っていることを除けば、ありふれた家だ。
少し驚いた。姉はもっと、変な家に住んでいると思っていた。僕の、姉に対する偏見だろうか。秀才で、それでいて変人。そんな姉の後ろ姿を見てきたのだ。ごく普通の家に住んでいることに、違和感を覚えるのも無理はない、のかもしれない。
家の中をしばらく見て回ったが、何の変哲もない家であった。家の隅に、眠るように存在する部屋を除いて。
夕方、木々の隙間を日が落ちようとしているのを、僕は見つめていた。家の中から見つめる雑木林は逆光で真っ黒に染まっている。
もう、夜だ。
「そろそろ、夕ご飯にするわ」
「手伝おうか?」
僕の提案に、姉はしばらく、頭を悩ませる。ほどなくして、姉は僕の提案を断った。
「いや、わざわざ、遠出してきてくれたのだから、大丈夫。私一人で、用意するわ」
丁重に断られた僕は、再び窓ガラスから、外を見つめた。暗がりの中、一筋の黄金色の光が、沈み、沈み、落ちてゆく。
なんだか、時計の音が大きく聞こえた。
緋色に染まるアスファルトの住宅街。烏が鳴き喚き、西日が僕らの瞳を鮮烈に刺していた。
今よりも少し幼い顔立ちをしていて、背が低い。このときは姉のほうが身長が高かった。
姉と僕が肩を並べて帰っている途中だった。
「冬樹、少し、話があるの。良い?」
僕は黙って頷いた。
姉は僕の方には顔を向けず、真っ直ぐ前を見つめる。考え込んでいるときの表情だ。
空白の間が一分ほどだろうか、姉は口を開いた。
「冬樹は父さんが、何の研究をしているか、知ってる?」
「植物の研究ってことは知っている」
僕の言葉に、姉は目線だけをこちらにむけた。とても鋭い視線だ。
「父さんの研究、ものすごく将来性のある学問らしいの。有望な実験結果、様々な応用性、どれをとっても価値のある学問だと言っていたわ」
僕は、姉が何を言いたいのかわからず、黙ってただただ頷くばかりだった。
「父さんは私たちを、この研究の後継者として起用しようとしているの」
幼いながらに、僕は姉の伝えたいことが判った気がした。姉の淀んだ瞳。薄く唇を噛み締める、つまらなそうな表情。
姉は、遠回しに、父の研究を継ぐのを嫌がっている。
昔から、姉は父親と違う道を歩もうとしていた。父親の何が嫌なのか、僕には何となく分かる。
自分と似ているところが嫌なんだ。優秀な父と比べられ、劣ってしまっている自分自身に嫌悪する。どうしても、血の繋がりが、しがらみとしてまとわりつく。逃れられない。自由になれない。
決して他人には理解することのできない、親の束縛、重圧、劣等感。親を想う情は、善い感情ばかりではない。優秀な父親ならなおさらだ。
けれど、親身に感じられる人が、少しだけいる。
兄弟だ。
同じ環境で育ち、劣等感と闘う姉の後ろ姿を、僕は見続けてきた。
穿った見方だ。と言う人もいるかもしれない。両親を敬うべきだという事も、重々承知しているつもりだ。けれど、両親に対する尊敬の念と、妬心の念は表裏一体だと思う。
尊敬すればするほど、妬ましい。
家族とは歪んだ愛情で成り立っているものだ。
歪んだ関係に嫌気がさしていた。
僕らは血縁に縛られている。
「もし、必ずどちらかが、父さんの研究を引き継がなければならなくなったら、私と冬樹、どちらが引き継ぐ?」
僕は、当時、何かやりたいことがあったわけではない。姉は何やら学びたい、学問があったようで、僕が研究を引き継いでも良いと思えた。
「姉さんが嫌なら、僕が研究を引き継いでも良いよ」
姉はその言葉に、素直に喜ばない。気難しそうに、口をへの字に曲げてうつむいてしまっている。姉は感情を殺してしまっている。
意識の底に激しい轟雷が聞こえていた。意識はその音源を探る。カンカンカンカン。一定で、恐怖心をあおるような、あの音。視界の端で、何かが動く、迫ってくる。
危ない――。
「私ね、父さんに素直に従いたくない。我儘でいたいの。だから、冬樹、あなたに、研究を、父さんの意志を継いでほしいの――」
何故だか、僕は、姉の言葉を寸分違わず、鮮明に憶えていた。だって、姉の本心が垣間見えた瞬間だったから。そして、それと同時に自分の身体が躍動したのも、憶えている。忘れることのない、左手の感覚。姉の腕を僕は、思わず引き寄せていた。咄嗟の事で足は踏ん張りきれず、体が浮遊する。突然、僕の右半身が大きく抉られた。衝撃が身体を波打ち、僕を吹き飛ばす。
僕は地面にたたきつけられた。肺の中の空気が押し出され、小さな呻き声を上げた。
意識が揺れる。視界が明滅する。呼吸が荒い。頭が熱い。視界の隅に黄色と黒の警告色、踏切が見えた。
「冬樹、しっかりして」
薄れゆく意識の中で、姉が僕に問いかけた。少しざらついて掠れた声。でも、その時ばかりはわずかに色づいていた。普段は聞かせることの無い鮮明な声だった。その声は今でも、僕の耳に焼き付いている。
右肩に、何かが触れた。僕は閉じていたまぶたを持ち上げると、辺りを見渡す。先刻までいた姉の家だ。物憂げに見つめる姉の表情が目の前にはあった。綺麗な木目のあるテーブルの上の白い食器に、湯気だったパスタが盛られていた。
「起きて。夕ご飯が出来たから」
そうか、さっきのは夢か。
意識が安定しない中、僕はフォークを手に取り、両手を合わせた。
「頂きます」
僕の言葉に、姉は優しくほほ笑んだ。
食器とカトラリーが、カチャカチャと触れ合う。無機質で、愉しげな音だ。僕らは特に会話もなく、薄味のパスタを頬張った。
意識が冴え始め、食事終わりのデザート、アイスクリームをスプーンで運んでいるときだった。姉はなんとなしに、こう聞いた。
「何か、悪い夢でも見ていたの?」
僕はばつの悪い表情を浮かべた。人に寝顔を見られること自体、あまり好きではないのに、寝顔が歪んでいるところを見られたので、気分はあまり良いものではない。
「まあ、そうだね」
嘘を言う必要もなかったので、正直に答えた。右肩へと目をやると、僕の右腕はきちんとついている。さっき見た夢は、ただの夢だったのだ。
僕は納得したように薄ら笑いを浮かべた。
「何を笑っているの。気持ちが悪い」
「ちょっとね、昔の父親との苦い思い出を思い出してさ」
あの事故は、僕らの多くのものを奪った。そして、姉との感情の相違、そして、移植した右半身への違和感。それが拭いきれなかった。
「あんた、いつからか知らないけど、父親が嫌いなんでしょ」
姉が察しているとは思わなかった。事実、僕はあの事故の後、父親のことが嫌いになった。もともと貧困だった僕の家は、僕の手術費を払いきれなかったらしい。研究職は偉大な発見をしなければ大きな収入は得られない。家中があわただしい中、父親は雲隠れした。忽然と姿を消したのだ。
理由がそんな事だけだとは思わない。けれど、その程度で、僕の前から逃げるのか。信じられない。自分勝手にも程がある。
それまでは尊敬と、嫉妬の感情が入り混じっていたものだったが、それ以降、僕は父親に対する尊敬は完全に無くなった。
気分が悪い。不愉快だ。どうして、こんな夢を見てしまったのだろう。どうして、こんな過去を思い出してしまったのだろう。
忘れよう。眠ってしまえば明日になる。
夜を越えればひとつ前に進める。僕は、父親からのしがらみをひとつ越えるんだ。
「姉さん、お風呂は玄関入ってすぐの所?入っていいよね」
「良いよ。お風呂に入らずして、布団を貸すのは嫌だから」
昔から、変わっていない。相変わらずの潔癖症だ。僕は苦笑いを浮かべながら風呂に入った。
風呂から上がると手早く寝巻に身を包む。用意された部屋と、布団に身を委ねると、あっという間に微睡んだ。移動の疲れが抜けきらないのだろう。
仰向けになりながら、窓を見つめる。窓の向こうに星が瞬いた。
あの、三角形に並んだ暗い星々。多分、さんかく座だ。周りの星座よりも、弱く見えづらい。普段の大都会では、まず見えない星座だ。こんな森の中だから見えたのだろう。明日は星座の観察をするのも悪くない。そんなことを考えた。
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