チィクビー山のニューリン修道院

藤原埼玉

ニューリン修道院

 …ティクビー山脈に春が来た


 セルシアはそう呟いた。実際には今朝は零下5.7度。ティクビー山の頂上にあるニューリン修道院の冬の寒さは厳しい。現にセルシアは今だって当番の窓の霜取りで大忙しだ。薄い硝子窓からかじかむほどの冷気が伝わってくる。


 ニューリン修道院は夕も早いが朝も早い。

 齢五つから十四つほどの幼い見習いシスター達は寝惚け眼を擦りながらまだ朝明けしたばかりの仄暗い部屋の清掃に精を出していた。


 セルシアは今年で十二つを数える。見習いシスターの中では上から数えて二つ目の年長だ。そんな訳でセルシアは後輩シスター達の手前、欠伸をやり過ごしつつ仕事に励んでいた。


 そんなセルシアの目に入ったのはシスター・アナベルが修道院の裏手で桶を置いて身体を拭く姿だ。


 シスター・アナベル。若くして修道院長の補佐を勤めるシスターの横顔にはいつも禁欲的な厳しさが伺える。


 感情を激するところは滅多に見せないが子供達にも総じて甘さを一切見せないため、見習いの小さなシスター達の多くには恐れられていた。


 だが、セルシアは違った。シスター・アナベルの首元の辺りからは月光花のようなふわりとした良い香りがする事をセルシアは知っていたからだ。だから、みんなが言うほど怖い人だとはセルシアは思わなかった。


 そして今セルシアがガン見をしているのは、その禁欲的な表情とは掛け離れた精彩を放つ豊満且つふかふかとした乳白色の牛乳菓子のような二つのおっぱい。


『いいかい、セルシア…いい女ってのはなァ…おっぱいで分かるんだよ…大きいものや小さいもの…少し固くてツンとしたのから包み込むみたいなやわっこいのまでッ……おっぱいにはその女の性質ってのが表れるんだッ…!』


 セルシアの脳内にいつかの死んだお爺さんの言葉が蘇った。


 シスターアナベルのおっぱい。それはセルシアの眼差しを惹きつけて決して離さなかった。天上国に聳え立つが如きその威容にセルシアは窓越しに静かに両手を重ね合わせた。


 …主よ、あなたの恵みに感謝致します。


 その日からだ。セルシアがシスター・アナベルの後ろにカルガモの雛の如くちょこちょことまとわりつくことになったのは。


 ーーーーーーーーー


 その日からセルシアの考える事と言えば、どうしたらあのおっぱいを合法的に触れるだろうか?どうしたら顔を埋められるだろうか?ということだった。


 そうして、その内セルシアの胸の内に兆したのは『いっそ土下座をして頼み込めばいやいやながら触らせてくれるのではなかろうか?』という中学生男子の様な妄想だった。


 だが、そこは流石のセルシア。無闇矢鱈に頼み込むという下策は犯さなかった。


「シスターアナベル!!」


 振り子時計の音と外の寒風の吹く音だけが聞こえる、いつもの質素な夕餉時のことだ。セルシアの威勢の良い声が食堂に響いた。


 セルシアはまずシスターアナベルに甲斐甲斐しく接する事で、好意を得ようとしたのだ。


 どこぞの馬の骨に揉ませろと頼み込まれるよりも、好きな人に揉ませろと頼み込まれた方が嬉しいに決まっている。


 セルシアの頭の中には最早シスターアナベルのおっぱいの事しかなかった。


「私が片付けます!!」


 硬いパンとスープの簡素な夕餉を終え席を立ち掛けたアナベルにキラキラと、その実ギラギラとした欲望に目を煌めかせるセルシア。


 だが、シスターアナベルの反応は素っ気ないものだった。アナベルはふ、と微笑を浮かべるとこう言った。


「シスターセルシア、貴方の後ろに私よりも助けを必要としている子羊がいるようですよ?」


 セルシアが振り返るとそこには慣れない冬仕事に疲れたのかよたよたと覚束ない足取りで食器を運ぶ年少のシスターがいた。


 セルシアは虚を突かれ右往左往とし、アナベルにぐむと物欲しそうな眼を向けた後、仕方なくその年少のシスターの下へ参じた。


「シスターセルシアはいつも元気ねぇ」


「感心だわねぇ」


 おばあちゃんの修道院長達がセルシアを褒めそやしたが、セルシアの内実は真っ黒である。


 その後も何度もセルシアはチャンスを伺っていたが、シスターアナベルは普段から所作に無駄が無い。セルシアが気付いた時には既に一通りの事が終わってしまっていることも良くあった。


 そうして数日後、セルシアは就寝後のベッドの中で自らの無力さに打ちひしがれていた。


 今日もあの二つのチョモランに焦がれるばかりでアナベルの好意を買う様な事は何も出来なかった。

 やはりあの天上国に聳え立つが如きその威容は自分には遠過ぎたのだろうか…?


 その時セルシアの脳内にいつものお爺さんの言葉が蘇った。


『セルシア…よく聞きなさいッ…女ってのは身持ちが堅ければ堅いほど…手強いほど夜はすごいものだゼッ………………!』


 …人は何故山に登るのか?


 そう尋ねた者があり、登山家はこう答えた。


 …そう、それはそこに山があるからだ。と。


 そして山は高ければ高いほど、頂上からの景色は素晴らしいに決まっている。


 セルシアは小さいその掌を布団の中でギュッと握りしめた。


「爺ちゃん…私がんばる!」


 そうして、セルシアはまた決意を新たにした。


 ーーーーーーーーー


「シスター・アナベル」


「どうしましたか、シスター・セルシア」


 セルシアはその日のお昼時、シスター・アナベルが一人のところを見計らって早速声を掛けた。このセルシアの積極性は死んだお爺さん譲りのものだ。


「どうしたら…あなたのようになれますか?」


 セルシアの固い不退転の決意がその表情に表れていた。


 あらゆる事で数枚上手を行くシスターアナベルのおっぱいを揉む事は自分には難しいとセルシアは悟った。


 それならばとセルシアの胸中にコペルニクス的転回でアイデアが兆したのだ。


 揉めるおっぱいがなければ…自らそのおっぱいを所有すればいい!!


 若干の常軌を逸した感はあるが、それほどセルシアとしては切実だった。


 そして、くだんの質問であるが、当然セルシアとしてはどうしたら貴女の胸に鎮座するチョモランを我が胸に所有せしめるでしょうかという意味だった。


 だがそんなセルシアの邪な思惑がシスター・アナベルに伝わるはずもなく、シスター・アナベルはしばらく思案顔をしてからいつもの無表情でこう答えた。


「…唯一、人を変革するものは神性であり、信仰です。シスター・セルシア、どういった理由かは知りませんがあなた自身が変わろうと願うのであれば、ただ神を信じ祈ることです」


「わかりました!」


 それを聞いたセルシアは兎が跳ね飛ぶようにばびゅんと走って行った。


「あ…廊下…は」


 余りの速さにシスター・アナベルでさえ、廊下を走らないことへの注意を忘れてしまうくらいだった。


 その日からセルシアは人が変わったようにお祈りに精を出した。


 二度寝と惰眠と三度の飯を心から愛しているセルシアが、文字通り寝食も忘れて祈りに没頭しているのだ。


 あのシスターセルシアが…?どうして…?


 周りのシスター達は首を傾げたが、困惑気味なれど喜ばしい事と皆んなそっと見守る事にした。


 セルシアとしては、決意の百日参り。不退転の覚悟である。


「じこを…へんかく…するんだ…!!」


 そうしていつしか、祈りの時間はセルシアの睡眠時間を侵食するのに時間はかからなかった。頬はこけ、ただただ精神力のみがセルシアを支えるのみだった。


 しかし、その肉体を凌駕する精神力にもいつしか限界がやってくる。


 ある朝のお勤めの時、糸が切れたようにセルシアはその場に崩れ落ちた。


 ーーーーーーーーー


 セルシアはぼんやりとした意識のまま天井を見上げた。


 見慣れない部屋だったこともあり、毛布がとっても暖かったのでセルシアはここは天上国に違いないと考えた。きっと自らの祈りが神様に通じたのだ。セルシアはそう考えた。


 そうであるならば、とセルシアは自らの胸に手を置いた。


 すかっ


 …………???


 そこにはあるはずの質量と容積がそこにはなかった。むしろやつれ痩せこけたセルシアのそこには前よりも肉が落ちた様ですらあった。


 セルシアは三度絶望した。


 信仰という決して目には見えないものが、自らの全身全霊の努力が、むしろマイナスの数値として萌したのだ。


 こ……んな事って………


 セルシアは慟哭した。


「あっ…ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 セルシアの突然の叫び声に医務室の前でセルシアの容態について話し合っていた医師と神父が慌ててドアを開けて入ってきた。


 神父は頭を抱えて気を違えたように慟哭するセルシアをベッドに押し付けて懸命に何度も呼びかけた。


「シスターセルシア!?気をしっかり持ちなさい!!」


 医務室にはセルシアの叫び声を聞きつけた皆んなが次々に集まってきており、その中にはシスターアナベルの姿もあった。


「しっかりしなさい!セルシア!悪魔に魂を喰われてはならない!神に祈りなさい!」


 悪魔も何もセルシアにあるのはただただ純粋なまでに邪な魂だったが、そんな事を知らない神父は必死でセルシアに呼び掛けた。


「うああああああああっあああああああああああああああうあうああああああ!!!!????」


「おのれ!!シスター・セルシアの魂に巣食う悪魔よ!!貴様の望みはなんだ!!」


 望み…?


 わたしの…望み…?


 セルシアの脳内に走馬灯の様にここ最近の記憶の絵巻が呼び起こされた。そしてその絵巻の始まりに甘美且つ力強く記されている、あの日の始まりの記憶。


 それがセルシアの口から解き放たれる。


「シスター・アナベルの…おっぱい!!」


 セルシアはそう答えた。答えてしまった。


 即ちそこにいた皆の血が凍った瞬間だった。


 みんなの視線がシスターアナベルのおっぱいに注がれる。


 その時シスターアナベルの顔には、皆が初めて見る羞恥の赤い色が差し込まれた。


「シスターアナベルのおっぱいを触りたい!!顔を埋めたい!!挟みたあああああああいいいああああああああうああああ??!!」


 神父は医師と厳めしい顔でにらめっこすると即座にセルシアに、慌て気味に言った。


「…な、ならん!!お、おのれ邪な悪魔よ!!退散せよ!!」


 司祭の声には動揺があったが、セルシアには何の躊躇いもなかった。


 セルシアはきっとまなこを開くと親の敵を見るような眼差しで神父を睨んだ。


「シスターアナベルのおっぱいはっ…私のなんだ!!!!!!!」


 セルシアはそういうと、見る見る目に涙を溜めた。


「えっ…ちょ…待っ…」


「うわああああああああああああああああ」


 神父と医師が留まる暇も無く、セルシアの涙腺が決壊するのをただひたすら無力感と共に眺めていた。


「私の…わたっ…しのっ…お、おっぱ…あ、アナベ…わ、わたっ…」


 何度も連呼するのはどうかと思うが、セルシアは前後もなくただ泣きながらおっぱいと繰り返した。



 その時、紅潮した頬に手を当てて冷ましていたシスター・アナベルの胸中に兆したのは…強い使命感だった。


 この子にはきっと邪悪な悪魔の魂が取り付いている。


 それであるならば、シスターとして正しい道へと導いてやらねばならない。


「お通しください!」


 シスターアナベルは人混みを掻き分けセルシアの下へ参じると、周囲の是非もなく、羞恥を顧みず胸をさらけ出すとセルシアの色々と汁まみれの顔をそこへ迎えた。


 セルシアとしては、かねてから念願のおっぱいだった。


 唐突に願いが叶えられた事に目を白黒とさせながらセルシアはシスター・アナベルの顔を見上げた。


 それは慈愛と羞恥と覚悟が入り混じった複雑な表情ではあったが、そこには純粋な美しさがあった。


 兎に角セルシアには瑣末ごとは関係はなかった。一回揉んでしまえばこっちのもんなのである。死んだお爺さんもそう言っていたのだ。


 セルシアは獲物を眼前に捉えた肉食獣の慎重さでアナベルのおっぱいにゆっくりと手を回すと静かに掌を埋めふにふにとしたその感触を充分に楽しんだ。


 あとはもう…色々とすごいことになってしまったので、読者の方の想像にお任せする事にしよう。


 時折ふへっと笑いがこみ上げてきそうになる。今が正にセルシアにとって至上の愉悦の時であった。


 神父と医師達を始めそこに居合わせた者達はそのシスターアナベルの聖母像が如き神々しさに両手を合わせてただ崇めた。


 その中でたった一人、


 …我が悲願成就せり…


 と一筋の涙と共に文字通りの安らかな眠りについた一人の小さきシスターの事を、色んな意味で、私達は決して忘れないだろう。

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チィクビー山のニューリン修道院 藤原埼玉 @saitamafujiwara

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