わたしにとっては登場人物を幸せにしたり救いをもたらしたりすることは(傲慢かもしれないけど)義務みたいなものだと感じてます。
こうしなければならないっていう信念というよりは、感情的にそうしたいからそうしてるだけなんですけど、それくらい自分にとっては強固な思いとしてあって。
あなた(キャラ)の人生預かった!って言うとちょっと言い過ぎなんですけど、キャラクターだって人間なわけだし放っておけないじゃないですか。袖振り合うもなんちゃらみたいな感じで関わり合うんだから力の届く限りは見守って、自分一人でも頑張って生きていけるとこまでは持っていきたいと常々思いながら創作しています。
だからキャラクターを何かしらの障害にぶつけてそこから真理や信念みたいなのを身につけて成長してもらって、っていう変化は必ずどこかしらに入れたいと思ってて、キャラクターの一人立ちを見守るつもりで書いてます。
なんかあるじゃないですか、甲子園でもなんでも「こんなに一生懸命打ち込んだ経験があればきっとこの人達はこれから困難があっても強く生きていけるんだろうなぁ」って思える瞬間って。
こうゆう考え方が出来るようになったんだから、もうこの人は大丈夫。そこでエンドロールが流れる、っていうのがわたしの考えるハッピーエンドです。
その延長線上の考え方で物語の帰着が破滅であっても、本人にとっては何かしらの成就であればそれはハッピーエンドなんだと思ってます。
いきなり自作の話になっちゃって恐縮なんですけど、『けだしあやかし』は御屋形様サイドの物語としては、愛していた人に先立たれた哀しみと欺瞞に塗り固められた村の長としての責務の間で最初は煩悶しているんですけど、いそしぎとの出会いでそれが村の法度をすべて破り捨てることの覚悟に変わる。それによって壊れるものもきっとあるし、あの村はそれが原因で滅びるかもしれない。それでも御屋形様が愛していた人への想いを前向きに変換するためにはそうするしかない、と未熟なりに考えたのでそんなラストになりました。
イサキさんに『むしろ状況は悪くなっているのに読後感が爽やか』っていう評を頂いたのは、その御屋形様単体の感情にスポットを当てていたからだと思います。
村の人からするとはた迷惑なんですけど、御屋形様を長に選んだのは君たちなんだし、君たちでどうにかしたまへ…。(そこはぶん投げ…)
でもここまで書いて、ようやくナツメさんの仰ってた『ハッピーエンドの犠牲者』問題に辿り着けた気がします。ハッピーエンドで描かれる独善性というものに、私たちハピエン創作者は気を配れるともっといいものが作れる可能性がたくさん生まれる思います。
創作っていうのは制限が多いほど良いものが生まれるとジブリの鈴木プロデューサーが言ってました。沢山の方々の想いに触れながら繊細で強くて良いものを作っていきたいです。まる。