最終話 秘密基地

 六連勤の激務の後は二連休です。休みの初日は高熱と下痢で一日中一人で過ごしました。きっと怖い夢を見てしまった所為です。

 このまま入院するほど体調を崩してしまえばいいのにと思いましたが、真夜中には熱も下がりお腹も通常運転を始めました。

 二日目、私は朝早くに目覚めました。

 前日によく寝た為二度寝はできません。

 ゆうちゃんと再会した日を思い出させる様な朝でした。

 あのお屋敷に行こうと思いました。

 化粧もせず髪も梳かさず、それどころか鏡で自身の姿を確認する事もなく、真っ白なコートを着て家を出ました。

 外気に晒された哀れな肌を冷たい風が容赦なく刺します。暖房のよくきいた部屋が恋しくなりましたが私の足は止まりません。小径が私を呼んでいるのです。

 とぼとぼと歩きました。

 柿の木があった場所に私は立ちました。

 この場所は私を拒否しません。歓迎してくれている様に感じました。

 迷いなく屋敷に不法侵入しました。

 蝉が止まっていた木は変わらずそこにありました。

 しかし今日は眺めていても誰も私の背中を叩きませんでした。

 縁側を超えてゆうちゃんと話した部屋にずかずかと入りました。

 部屋には土足で上がりました。ゆうちゃんも靴は脱がないでいいと言っていた様に記憶しています。

 畳は所々禿げていますし、土も埃もたんと溜まっています。決して綺麗なんかではありません。畳の上で私は寝転がりました。

 このままここで時間が止まってしまえばいいのに。

 誰もいないここであれば非難される事はありません。他人の存在がなければ苦しくなる事も自分を嫌いになる事もありません。怯えて小さくなる必要はないのです。

 仰向けで大の字になっていると勝手に涙が頬を伝いました。

 近頃涙もろいのです。

 一人になると緩んだ涙腺は私の許可を得る事なく仕事をするのです。放ったらかしにしていればそのうち涙腺も飽きて終業します。誰の目もないのですから隠す必要はありません。

 目を閉じて浅い呼吸を繰り返しました。

 どれくらいの時間そうしていたのでしょう。数時間にも感じますし数秒の様にも感じます。

 目を開くと女の子がこちらを覗き込んでいました。

 私はこの子を知っています。

 この子はお化けです。

「久しぶり」

 あの夏の日、蝉を捕まえようとした瞬間に私の背を押したお化けの正体です。あれはゆうちゃんでも映美ちゃんでもなかったのです。

 目の前にいるこの子なのだと直感しました。

「会いたかったあ」

 寝転んだ私の口から出たのはなんとも締まりのない声でした。

 女の子は何も言いません。人形の様に整った顔で私を見下ろしています。

 眉毛の上で切りそろえられた前髪も感情のない瞳も、ノンスリーブの雪のように真っ白なワンピースも全部私は知っています。

 真冬だというのにこの子は薄着です。

 亀の様にのそのそと起き上がりました。

 子供の頃の記憶が白黒フィルムの写真を乱雑をつなげた映画の様に蘇りました。

 ゆうちゃんとの隠れんぼでよく使用した押入れの中で私は彼女と会っていました。何を話したのかは覚えていません。彼女の声は記憶にありませんので、私が一方的にこそこそと話しかけていたのでしょう。

 私はこのお化けが好きでした。

 正面の押入れを開こうと手をかけました。

 立て付けが悪いのでしょう、滑らかに動きません。

 力づくで引くと襖が外れてしまいました。

 ここにはお化けの女の子と、生きているのか死んでいるのか判然としない私しかいません。

 ここは異界なのです。

 鮮やかな生などこの屋敷にはありません。

 だから元に戻す必要はないのです。そのまま床へと襖を置きました。

 押入れの中は上下に分かれています。女の子との密会はいつだって上段でした。

 上段に手をかけてよじ登り体育座りをしました。女の子も私の目の前で同じように座りました。

「生きるって難しいなあ」

 黙した侭女の子は私を見詰めます。哀れにでも思われているのでしょうか。それとも蔑まれているのでしょうか。

 どうだっていいと思いました。

 どうせこの子は何も言わないのです。

 何とも思っていないのです。

 私が必要だと思っても誰も私を必要とは思わないのです。

 世界を斜めからしか見れない私をやっぱり世界は厭うているのです。

 だから私は世界を憎んで遠ざけなければなりません。愛されたいと願ったところでそれは叶わないのですから、こちらから拒絶した方が気持ちが楽というものです。

 人間の脳というものは都合よく見たいモノだけを映すのだそうです。矛盾があれば自動的に修正するというのはとても便利です。見たくないモノや感じたくないモノは、最初から無かった様に振る舞えば傷つく事もありません。

 嘯いていないと脆弱な私という骨組みはぼろぼろと崩れてしまうでしょう。中身が伽藍堂なのですから外側だけは強固にしておかなければなりません。後付けの補強で良いのです。壊れない為の最善の策なのですから。

「難しいなあ」

 視線を落とすと麻の縄がぽつんと置き去りにされているのが目に映りました。そっと触れてみると麻のざらりとした感触が伝わってきます。

 ゆうちゃんはあの日死のうと思ってここへ来たと言いました。この縄は役目を果たせずにずっとここにいたのでしょう。

 死ぬのは怖いのです。

 生きるのも怖いのです。

 だったら私はどうすればいいのですか?

 縄を取りました。

 女の子に視線を戻すと彼女はとても怖い顔で私を睨んでいました。

 急に恐ろしくなりました。

 だってこの子はお化けなのです。

 どくんどくんと脈が波打ち心臓の音が屋敷全体を揺らします。地面がぐにゃりと柔らかくなり体が不安定に傾きました。

 頭の中がぎゅうと絞られている様な感覚に襲われました。

 くらくらとします。

 雑音がとても大きく響き鼓膜を刺激します。現実の音なのか私の頭の中だけで響いている音なのか区別がつきません。

 それは人の声のような気がします。

 益々大きくなり耳を塞ぎましたが音は消えません。寧ろ増大しています。 

 縄が指からするりと滑り落ちてごんと音がしました。

 私は押入れから転げるように飛び出して屋敷から逃げ出しました。

 無我夢中で走りました。

 振り返る事はできません。

 あの子が追ってきているかも知れません。それどころかこの声の主達が私を捕まえようと手を伸ばしている様に感じるのです。

 それらと目があってしまえば、私は彼らに絡め取られてしまうでしょう。

 それは恐ろしい事なのです。

 地面は相変わらず柔らかくて、そして雑草は長く伸び私の逃亡を邪魔立てします。

 雑草に足を取られました。

 受け身を取る事もできず転びました。ストッキングは破れ膝小僧が擦り剥けてじんじんと熱くなります。真っ白なコートも見苦しく汚れました。

 誰のものか分からない沢山の声は未だ止みません。何と言っているのか聞き取れない程の雑多で混沌としています。

 私は波打つ地面を蹴りました。

 それほど長くもない一本道の小径が終わりのない迷宮に感じました。

 壁が迫ってきて私を圧し潰そうとします。左右の雑草が私の足を絡め取ろうと伸びてくるのを必死に耐えて、私は唯々出口の光だけを見詰めて走りました。

 薄暗い牢獄から明るい外に出て目が眩みました。同時に雑音は嘘のようにぴたりと止みました。

 心臓は未だに忙しなく運動を続けます。

 振り返ると穴ぐらのような小径が私を手招きしているように感じて恐怖しました。

 私はまた走り出しました。

 一度も入れていない喫茶店の横を駆け抜けました。

 家に帰るともう朝の九時を超えていました。そんなにも長くあの場所にいたのかと思うと恐ろしくなりました。

 やはりあそこは異界なのです。

 こちら側とは時間の進み方まできっと異なるのでしょう。

 携帯電話を手に取り震える指で検索をします。

 私が今一番行くべき病院を探さなければなりません。近場のそれを見つけるといつになく私は積極的に行動を起こしました。

 財布と鍵だけを鞄に入れてタクシーに飛び乗りました。

 電車には乗りたくありませんでした。可能な限り人と会いたくなかったのです。私が向かったのは心療内科でした。

 初めての病院は私を緊張で硬くさせます。受付の人と目を合わす事ができません。

 けれど目的ははっきりとしています。

 診断書を貰い、退職届を提出しました。

 退職してから暫くして小径の傍の喫茶店に行きました。何て事はない普通の喫茶店です。珈琲を十分足らずで飲んでお会計をしました。外に出ると小径が目の端に映りました。やはりそこは私を手招いています。

 お化けなんている筈はないのです。異界なんてものも存在しません。きっとあの時の私はどうかしていたのでしょう。そこは実家までの近道でしかありません。何も恐ろしい事などないのです。

 そう言い聞かせても、あの女の子のおどろおどろしい記憶がありありと蘇ります。

 顔を背けて小径を通り越しました。

 遠回りをして私は実家へと向かいました。

 それから私は思い出の秘密基地に二度と足を踏み入れることはありませんでした。



  

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秘密の小径 檀ゆま @matsumayu

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