2014・1・31・(金)

 波の音が聞こえる。

 粉雪が舞っていた。

 本来ならばもうすぐ曙光が射す時間。けれども空は分厚い雲に覆われている。夜が少しだけ薄くなった色をしている。

 花の瞳に雪が映っていた。

 もう、見えていない瞳に。光を宿していない瞳に。

 リューシカは、そっと、花の喉を締め上げていた指を外した。一本ずつ、ゆっくりと。

 花の頬に水滴が落ちる。リューシカの涙がぽたりぽたりと落ちていく。

 手はおこりの患者のように震えている。指を組み、両手をあわせる。それはまるでなにかに祈るように。震えは止まらない。硬く握りしめあう。それは祈る姿そのものに見える。

 寒い?

 寒いのだろうか。

 わからない。リューシカにはもう、なにもわからない。

 悲しい。

 ただ、悲しいだけ。

 ボサボサの髪。目の下の隈。痩せこけた頬。土気色の唇。かつて美しかったリューシカの面影はどこにもない。ううん。違う。そんな姿になっても……リューシカは美しい。そこにいるのは、ただのひとりの、打ち拉がれた魔女の姿だった。

 心が悲しみに食われていく。食い殺されていく。真っ黒なコールタール状のなにかで塗り潰されていく。悲しい。悲しくてたまらない。

 上着のポケットから手帳が落ちる。

 落ちた拍子にほつれていた糸が切れ、紙がばらばらになってしまう。リューシカはのろのろと手を伸ばす。何枚かの紙が風に吹かれ、海とは反対側の山の方へ、飛ばされていく。紙片に向かって左手を伸ばす。届かない。左手首には無数の切り傷。痛々しいリストカットの跡が見て取れる。小指も根元からなくなっている。紙片が明け切らぬ夜のしじまに消えていく。

 リューシカはそれを呆然と見ている。

 ただ、見つめていた。


 12月25日・水

 午後2時40分。花が目を覚ます。

 第一声はここはどこ、だった。

 私は花を抱きしめながら、ここはお家だよ、と告げた。花はまだぼんやりしていた。

 昨日のことは覚えてる? と私は訊ねた。

 よく覚えてない、と花は答えた。

 傷は痛む? と私は再び訊ねた。

 傷ってなんのこと、と花は答えた。なにも覚えていないようだった。

 私はあれこれ色々と訊ねたかったのを我慢して、今はゆっくり休みなさい、と伝えた。

 午前中に一度、まどかから電話があったが、出なかった。

 花の学校に病気療養のため、しばらくのあいだ休むことになるかもしれない、と連絡を入れる。

 病状を把握しなきゃいけない。今日から日記をつけることにする。

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 12月26日・木

 夜中に花がうなされる。

 手足をばたつかせるので必死に押さえる。

 大声でなにかを叫んでいる。

 隣の住人から苦情が来る。

 日中は昏々と眠っている。

 食事を摂らせようと無理に起こすが、花はいらない、と言って口をつけようとしない。

 病棟から電話がかかってくる。

 無視した。

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 12月27日・金

 うどんを作る。

 一口食べさせる。けれど味がしないと言ってそれ以上は口にしない。

 包帯を換えているとき鏡が見たい、と言われて、どう返事をしていいのか一瞬悩む。

 まだ傷の状態がひどいから。もう少し良くなったらね、と返答する。

 午後、保健所の職員を名乗る男女が来る。

 花のことで聞きたいことがある、と話していた。

 花は〝病気〟じゃないと嘘をつき、二人を追い返す。

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 12月28日・土

 花がスポーツドリンクを少量飲む。

 昨日と同様、味がしない、と言う。

 少しだけおかゆを食べさせるが、嘔吐してしまう。

 花に24日の事を訊いていいか迷う。

 顔の傷はふさがらず、じゅくじゅくと膿んでいる。血も止まらない。包帯とガーゼを交換する。

 ガーゼについた膿の色は緑。

 緑膿菌だろうか。

 嫌なにおいがする。

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 12月29日・日

 今日は朝から花の調子がいい。

 やわらかく煮た野菜を半分ほど食べる。

 意を決して24日の日の事を花に訊ねる。

 猫がいたの。ぽつりと花が言う。

 朝ごはんを食べていたら、どん、という音とぎゃっていう悲鳴が聞こえたの。慌ててパジャマのまま家の外に出てみた。そうしたら、アパートの前の道で猫が轢かれて死にそうになってた。

 内臓が出ていて、目と目があったのは覚えてる。

 気づいたら私の手は血塗れになってた。猫の毛が口の周りにいっぱいついてた。

 怖くなった。怖くなって……。

 慌てて家に戻った。そして、鏡、鏡を見たの。

 そこに映ってたのは……悪魔。悪魔だった。だから、私、カッターで、顔を……。

 それ以上は訊けなかった。

 午後は泣き続け、大声を上げ続ける花を必死で押さえていた。

 バイタルサインを書いた紙を紛失。記録残せず。


 12月30日・月

 花の泣き叫ぶ声と日に日に強まる腐臭のため、隣人と大家からクレームが入る。

 これ以上迷惑をかけるなら出て行ってもらう、と通告を受ける。

 花の指がすべて、黒く変色し始めている。

 顔の傷は悪くなる一方だ。

 花の精神症状には波がある。普通に会話できるときもあるのに。なにが原因なのかわからない。まるでスイッチが入ったみたいに豹変する。手がつけられなくなる。昨日の花の話から、花の症状は解離性障害のようなものではないかと推測する。

 でも、どうしたらいいのかわからない。

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 12月31日・火

 大晦日。風が強い。窓ガラスがカタカタと鳴っている。

 料理をしている際、花の泣き声に指を切ってしまう。

 血の滴る指を見て、花がピタリと泣き止む。

 私の指を舐めて、

 美味しい、と言う。

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 1月1日・水

 包帯をかえているときに隣の住人が怒鳴り込んでくる。あきらかに酔っている。鍵をかけていなかった私が悪かった。

 包帯の取れた花の顔を見て悲鳴をあげる。

 化け物、と叫ぶ。

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 1月2日・木

 まどかがアパートに来る。

 私が無断欠勤している事を心配し、怒っている。玄関の扉をガンガン叩いている。

 居留守を使う。

 電話にも出ない。

 メールも返さない。

 意味がわからない。まどかは私の友達でもなんでもないのに。

 花が暴れるので思わず口をふさぐ。指を噛まれる。

 そのときの花の目が、脳裏に焼きついて離れない。

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 1月3日・金

 花の衰弱が激しい。

 息も荒く、食事も水もほとんど取れない状況が続いていた。

 ふと思いついておかゆに私の血を混ぜる。

 花は味がする、美味しい、と言って茶碗一杯分のおかゆを食べる。

 牛乳にも私の血を垂らす。

 いちご牛乳みたいな色をしている。

 花はそれを全て飲み干してくれた。

 市販の体温計ではもう、体温が測れない。

 呼吸、脈拍、血圧を日々測っても、もう意味なんてないのかもしれない。無意味なのかもしれない。

 ……日記は続ける。


 1月4日・土

 週明けに保健所の職員が再来するという内容の手紙が来る。必要だと判断すれば強制的にでも入院させる、と書かれている。

 今日は花の機嫌がいい。

 一緒に私の高校時代の卒業アルバムを見る。

 写真のところに書かれている待雪草の君ってなに? リューシカって生徒会長だったの? と驚いていた。

 生徒会長には代々、その人に一番似合う花の名前が送られるの、と説明する。それが私の通っていた高校の伝統だったと話してあげた。

 花は不思議そうに卒業アルバムの私の写真を撫でていた。右のページには役員の少女たちが三人、ロザリオを手にして微笑んでいる。左のページには椅子に座った私が待雪草を胸に抱いて澄ましている。大写しになっている昔の写真は、少し恥ずかしい。

 花の指の色は赤黒く、今にも腐り落ちてしまいそうに見える。

 花はそんな自分の指の色に、気付いていない。


 1月5日・日

 明日になれば花は連れ去られてしまうかもしれない。

 このアパートにいるのも限界かもしれない。

 まだ日が昇らないうちにアパートを出る。助手席に花を乗せる。どこに行くというあてもなく車を走らせる。銀行でお金をおろす。フード付きのパーカーを買う。

 二日前から食事に私の血を混ぜている。

 花は夜、眠れるようになった。

 大丈夫。きっと少しの辛抱だ。


 1月6日・月

 その日は車内泊をした。コンビニのお弁当に血を垂らすと、花はペロリと全部食べてくれた。

 左手首の傷が増えた。

 構わない。

 壊死するのが遅くなったから。

 花が穏やかだから。


 1月7日・火

 目についたラブホテルに車を入れる。目深にパーカーのフードを下ろし、花と一緒に部屋に入る。

 私がシャワーを浴びていると花の叫び声がした。

 慌てて浴室を出ると、花は自分で包帯を取り、鏡に素顔を映していた。

 変わり果てた自分の顔を凝視していた。


 1月8日・水

 花が口をきかない。

 喋りかけても返事をしない。

 食事も摂らない。

 深夜路地の奥に車を止めていると、誰かが車の窓を叩く音がした。

 顔を向けてぎょっとした。女の子が窓に手をつきながらじっと私の顔を見ていた。

 彼女は目と頭から血を流していた。

 窓に触れる指が腐っていた。窓ガラスに血の混じった浸出液の手形がついていた。

 〝病気〟の子だとすぐにわかった。

 タスケテ。

 そう唇が動いたような気がした。

 その直後だった。暗がりから何人もの若い男たちが笑いながら現れ、手にしたバットや木刀で女の子を襲い始めた。

 何度も、何度も。女の子が路上に転がって体を丸めている。頭を抱えている。男たちはなにか言い合いながら、笑いながら、殴ったり蹴ったりしていた。やがて女の子は動かなくなる。

 私は車を急発進させ、その場から逃げた。

 しばらく車をめちゃくちゃに走らせて、ガードレールに突っ込みそうになって車を止めた。後ろを振り返った。誰もいない。私はびっしょりと汗をかいていた。吐きそうだった。

 私もあんなふうに死ぬんだ。

 花がぽつりと言った。

 私は叫んだ。なにを言ったのか覚えていない。思い出せない。

 手首を切って花の口に押しつける。

 花は泣きながら私の血を飲んだ。


 1月9日・木

 生理初日。

 体がだるくて言う事を聞かない。

 頭が痛い。お腹が痛い。気持ち悪い。

 呪いは未だ健在なのか、と思うとなんだか泣けてくるようだった。

 ラブホテルに泊まる。


 1月10日・金

 朝、目を覚ますと花が私の下着を脱がせ、経血を舐めていた。

 リューシカ、リューシカ、とうわ言のように私の名前を呼ぶ。

 悲鳴をあげそうになって、慌てて口を手で覆う。

 涙が溢れて止まらなかった。

 違う。こんなの間違ってる。

 彼女たちは寂しさから逃れるために血を、肉を求めるのではなかったのか。人を襲うのではなかったのか。

 こんなに一緒にいて……それでもまだ、花は寂しいのだろうか。


 1月11日・土

 昨日の日記を読み返す。

 花が求めているのはなんだろう。

 なんなのだろう。

 なぜか不意に襲われていた少女の姿が脳裏に浮かび、私は頭を振ってその思考を払いのけた。

 包帯を取り替える。

 肉が腐っている。ガーゼに剥がれた皮膚がこびりついている。

 花の肌は氷のように冷たい。


 1月12日・日

 左手の小指と薬指が腐って取れた。

 指輪はチェーンに通して花の首にかけてあげた。

 花は失った指を見つめて不思議そうに首を傾げていた。

 自分の身に起きた事を、あるいは理解できなかったのかもしれない。〝病気〟がそうさせているのだろうか。わからない。

 痛みはない、と言う。


 1月13日・月

 食料品を買うためにコンビニによる。

 花の……腐ったにおいが染み付いていたのだろうか、店員に嫌な顔をされる。

 駐車場をとことこと灰色の子猫が歩いていた。

 かわいい。食べたい。

 花のつぶやきを聞きながら、もう花は花じゃなくなってしまったのだろうか、と思う。

 猫、好きなの?

 そう訊ねると花はにっこりと笑った。包帯を巻いていても、私にはそれがちゃんとわかった。


 1月14日・火 

 お肉が食べたい。

 花がぽつりと言った。

 私はその言葉の意味を理解した。正しく理解できたと思う。

 いいよ、と答えた。

 私は車の外を見ていた。

 ひとりでふらふらと歩いている、小さな女の子を。

 かわいい女の子を。


 1月15日・水

(書かれた文章は黒く塗り潰されている。代わりにやぶり取られた旧約聖書の詩編が挟まっている)

 無知ムチナルモノソノココロカミナシトヘリ。

 彼等カレラミズカヤブレ、ニクムベキコトオコヘリ、ゼンモノナシ。

 シュテンヨリヒト諸子ショシノゾミ、アルイアキラカニシテ、カミモトムルモノアリヤヲントホッス。

 皆迷ミナマヨヒ、ヒトシク無用ムヨウレリ、ゼンオコナモノナシ、イツマタナシ。

 オヨ不法フホウオコナヒ、パンクラゴトタミクラヒ、オヨシュバザルモノサトラズヤ。

 彼等カレラオソレナキトコロオソレン、ケダシカミ義人ギジンゾクニアリ。

 爾等ナンヂラ貧者ヒンジャオモヒニ、シュカレタノミナリト、フヲアザケリタリ。



 1月16日・木

 これじゃない。

 花がぽつりと言った。丸二日かけて、全部食べ終えたあとで。

 私は思った。

 やっぱり、私じゃなきゃ駄目なのだろうか。

 私の肉じゃなければ……駄目なのだろうか。


 1月17日・金

 大丈夫。

 ゴッホだって自分で耳を切り落としたじゃないか。

 大丈夫。

 大丈夫。

 でも、


 1月18日・土

 花が正気に戻る。

 でも、それは、花にとっては地獄の苦しみのようだった。

 指、リューシカの指、どうしたの?

 おろおろとした声で花が私に訊ねた。

 私は昨日からずっと眠れず、ひどい顔をしていたと思う。

 なんでもない、大丈夫。

 そう答えた声もかすれていたかもしれない。

 だって、だって、小指。

 リューシカの左手の小指がっ。

 花はそう言って泣いていた。包帯に涙の染みが広がっていった。

 私? 私のせい? 私がっ?

 ……食べたの?

 違うよ。と答えた自分の声はどこまでも嘘臭かったかもしれない。

 それにしても、痛い。文字を書くのがつらい。

 包帯をきつく巻いても、血がじくじくと滲んでくる。

 市販の鎮痛剤を一箱全部飲む。


 1月19日・日

 立て続けに3軒、ホテルから宿泊拒否を受ける。理由は……よくわからない。ブラックリストかなにかに載ってしまったのだろうか。どこからか監視されているのだろうか。

 なんにも悪いことなんてしていないのに。

 気持ちが悪い。

 多分、熱もある。

 私はこの文章を車の中で書いている。

 隣では花がうなされている。

 少しくらい大声を出したっていいのに。

 周りはお墓で、誰にも声は聞こえないから。

 花が食事を摂ってくれない。

 ご飯に私の血を混ぜても、食べてくれない。

 もういい、もういいからこんなことしないで。

 そう言って花は泣いた。

 お腹が空いているはずなのに。

 私にはそれがわかるのに。


 1月20日・月

 今日もあてもなく車を走らせる。

 ここがどこなのかもよくわからない。

 見張られている感じがして落ち着かない。どこかに、どこかにいかなければという思いだけが強くなる。

 雪が降っている。

 今日も花は食事をしない。

 私の血を飲んでくれない。

 食欲がないので今日は一日私も食事をしない。


 1月21日・火

 花が戦っている。

 自分の食欲と、自分を蝕む〝病気〟と。

 食べたい。

 寂しい。

 血が、肉が欲しい。

 そんな渇望と必死に戦っている。

 無理しなくていいよ。と声をかける。

 花は激しく首を振った。

 私はどうなってもいいんだから。

 そう声をかけると、花は泣きじゃくりながら私を叩いた。

 やだ。そんなのやだ。もう、誰も傷つけたくない。リューシカを傷つけたくない。

 って。

 私には花のその言葉の意味が、よくわからなかった。


 1月22日・水

 運転中に花が急に大声で叫びながら、私に噛みついてきた。

 私は花を突き飛ばして、必死にハンドルを握った。車は大きく蛇行したけれど、幸いなことに事故には至らなかった。

 首筋に触れるとぬるぬるした。

 その時にはよくわからなかったが、改めてバックミラーで確認すると、シャツが血で真っ赤になっていた。

 もう。食べたいなら食べたいって、素直に言えばいいのに。

 花が頭を抱えて泣いている。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返している。

 その日の夜。花は私に両手を縛ってほしい、と言ってきた。

 私は花の願いならなんでも聞いてあげる。

 叶えてあげるからね、花?


 1月23日・木

 花は相変わらず食事をしない。

 私が指を切り落とそうとするとやめて、と叫ぶ。

 私も食欲がわかない。なにを食べてもなんだか砂を噛んでいるような気がして飲み込めない。

 ふと思うと、ここのところ薬以外は口にしていないかもしれない。

 花は両手を後ろ手に縛られたまま、ぐったりとしている。

 苦しい、苦しいよ、リューシカ。

 花が泣いているので頭を撫でてあげた。

 いろいろな人の声が聞こえる。

 まどかの声も、一花の声も、それからみやちゃんも。お父さんも、お母さんも。

 なにを言っているのか、よくわからないけど。

 どうやら私は怒られているみたいだ。

 なぜ?


 1月24日・金

 一日中歌を歌って過ごす。

 いろんな人と一緒に歌を歌う。

 花だけが歌ってくれない。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と呟いている。

 日が暮れる。

 夕日がとても綺麗。


 1月25日・土

 花の包帯が緑色と紫色に染まっている。

 そういえば、いつから包帯を取り替えていないんだっけ。

 縛り続けていたのがいけなかったのかな。

 肘の先から両手が取れてしまった。


 1月26日・日

 日記を書きながら、今日は日曜日か、と思う。

 教会に行かなくなってどのくらい経つんだっけ。

 私は地獄に墜ちるのかな。

 多分、地獄行きだろうな。

 花は天国に行けるといいね。


 1月27日・月

(書かれた文章は黒く塗り潰されている。代わりにやぶり取られた旧約聖書の詩編が挟まっている)

 無知ムチナルモノソノココロカミナシトヘリ。

 彼等カレラミズカヤブレ、ニクムベキアクオコヘリ、ゼンモノナシ。

 カミテンヨリヒト諸子ショシノゾミ、アルイアキラカニシテ、カミモトムルモノアリヤヲントホッス。

 皆迷ミナマヨヒ、ヒトシク無用ムヨウレリ、ゼンオコナモノナシ、イツマタナシ。

 不法フホウオコナヒ、パンクラゴトタミクラヒ、オヨカミバザルモノサトラズヤ。

 彼等カレラオソレナキトコロオソレン、ケダシカミナンヂムルモノホネラサン、ナンヂ彼等カレラハズカシメン、カミ彼等カレラテタレバナリ。


 1月28日・火

 寂しい。

 花が隣にいるのに。

 心の中が寂しさで埋まっていくみたい。

 雪が降るように。

 雪が積もるように。

 お腹が空いた。

 不思議。花を見ているとお腹が空くのは、なぜだろう。

 昨日ひさしぶりに食べたお肉は、あんまり美味しくなかったな。


 1月29日・水

 夜になってから、全部吐いた。

 お腹が空いて、空いて、気が狂いそう。

 ううん。違う。

 違うのかもしれない。

 もう、とっくの昔にわたしは。


 1月30日・木

 車が止まってしまった。

 ガソリンが、ない。

 でも、もうお金もないな。

 食べるものだって、どこにもない。

 車を出ると、すぐ近くに海が広がっていた。民家はなかった。泊まれるようなところも。

 私は花を抱きかかえたまま、ゆっくりと歩いた。

 砂浜に出た。

 倒木の陰に花と一緒に座った。

 日が暮れて、星が出た。

 こぼれるような星空だった。

 寒くはなかった。なぜだろう。ちっとも寒くない。

 花はぼんやりとした目で海を見ていた。

 寄せては返す、真っ黒な海を。

 どのくらいの時間、そうしていたのかな。

 私が星明かりを頼りに日記を書いていると、隣から花のつぶやきが聞こえた。よく聞こえない。もう一度言って? え?

「リューシカお願い、わたしを殺して——


 リューシカは少しだけ目に驚きの表情を浮かべて、花を見つめた。枯れきった花の瞳には、それでも涙が薄っすらと光っている。夜の冷たい光を反射している。黒々とした海の色を映している。それはもう生者の目ではなかった。死者の眼差しだった。

「はな?」

 リューシカが訊ねる。手からボールペンが転がり落ちた。

 花は唇を戦慄わななかせている。

「もう、いい。もう、いいの。寂しいの。苦しいの。誰かを、……ううん、違う。リューシカを食べてしまいたくて仕方がないの。だから、死なせて、お願い」

 掠れた声で、花が切々と訴える。

「なんで? わたしでよければ、いつでも食べていいんだよ?」

 リューシカが微笑む。とても幸せそうに。

 花はかぶりを振る。強く否定する。

「違う。そうじゃない。そうじゃないの。もう、誰も食べたくない。リューシカを食べたくない。リューシカにも食べて欲しくない。わたしじゃない誰かなんて食べて欲しくない。違う。それも違う。もう、わからない。……わかんないよ」

 紫色に汚れた包帯が、緑色に染まった包帯が、ずるりと剥がれ落ちていく。

 そこにあるのはもう、花じゃなかった。

 ううん。

 人ですらなかった。

 流れ落ちるのは涙ではなかった。

 黄色く、腐臭を放つ膿だった。

 そんな花の顔をリューシカはじっと、愛おしそうに見つめていた。

「ごめんね、こんなこと、頼んで、本当にごめんね。自分がもうすぐ死ぬのはわかってる。もう治らないのはずっと前からわかってる。でも、だから、わたしがわたしでいるうちに、リューシカに殺されたいの。殺して欲しいの。あの日みたいに。あのときみたいに。お願い、もう一度わたしを殺して。……ママ」

 リューシカが大きく目を開く。

 あの日?

 あのとき?

 あ、

 ……ああ。

 リューシカは頭を抱えた。涙が頬を伝った。嗚咽が漏れる。泣いている。泣いている。なぜ。なぜ?

 なぜ、そのときのことを、花が知っているの?

 ママ? ママってなに? リューシカは耳を疑う。本当に花の口から漏れた言葉だったのだろうか。わからない。リューシカにはわからない。

 でも。

 リューシカは思う。

 わかっていたのかもしれない。

 本当は全部。全部わかっていたのかもしれない。

 花の中の秘密。花が言わなかった、リューシカへの隠し事。違和感の正体。どこかで出逢っていたというその記憶の、好きだというその気持ちの、確かな寄る辺。

 リューシカの胸にあの日、神父様から言われた言葉が蘇る。

 お腹の子を、その子を慈しみなさい。

 やがてその子はお前の希望になるよ。宝になるよ。

 ……宝。

 宝物。

 花は……宝物。

 わたしの宝物。


 わたしの、子ども。


 どさり、と音がする。

 花の体が横倒しになっている。両腕を失くした花は自力で起き上がることもできない。

 リューシカはそんな花を灰色の瞳で見つめている。

 花がリューシカに惹かれたのは、好きだと言ってくれたのは、……そういうことだったの?

 前世なんて信じない。生まれ変わりなんて信じない。リューシカは自分が生まれる前に別の誰かだったなんて想像もつかない。理解できない。こんなくだらない人生なんて。一度きりで沢山だ。

 だから、花は花で。わたしはわたしだ。

 そう思っていたのに? まどかの声が聞こえる。

 信じていたのに? みやちゃんの声が聞こえる。

 ならあなたが惹かれたのはなぜ? お母さんの声が聞こえる。

 お前だって本当は知ってたんだろう? お父さんの声が聞こえる。

 うるさい。みんなうるさいっ。嘘吐き。……嘘吐きっ!

 ——一花の声が聞こえる。すぐ近くでリューシカに話しかけている。それは昔、高校生の頃、生理中、一花と喧嘩したときに言われたひどい言葉。そのリフレイン。

 パンドラの箱の話。

 なぜ、あらゆる厄災が収められた箱の中に希望が残っていたのかしら。神々が人を罠に嵌めようとしていたのに、そんなことがあり得るのかしら。

 一花は言った。嫌だ。思い出したくない。

 箱の底に残されていたのはエピルスだと言われているわ。でもギリシャ語のエピルスの意味は〝希望〟だけじゃない。〝予兆〟とも訳されるの。わたしは思うの。人はね、希望を持つから絶望するの。なにかに縋ろうとするから裏切られるの。それを魂のどこかで気づいているの。それが予兆。それが神様の罠。ねえ、リューシカ。だってそれは厄災の箱の最後に残っていたものなのよ? 良いものであるはずがないじゃない。ふふっ。死に至る病とは絶望である……そう言ったのはキルケゴールだったわね。 

 うう。

 リューシカの喉から、唇から、くぐもった声が漏れる。

 リューシカの体のどこにそれだけの水分が残っていたのだろう。涙が止まらない。頬を濡らし続けている。

 波の音が聞こえる。

 寄せては返す波の音が。

 もう、義姉の、一花以外の声は聞こえない。

 あんなにリューシカを揶揄やゆしていた幻の声は聞こえなくなっていた。お父さんの声も、お母さんの声も。みやちゃんも、まどかも、みんなどこに行ったのだろう。

 星も消えていた。

 あんなに瞬いていた星が消えてしまった。

 空はいつの間にか分厚い雲で覆われている。雨の匂いがする。雪の匂いがした。

 ——パンドラの箱の話の続きを、一花は静かに語り出す。もう嫌だ。お願い、お願いだから許してっ。

 主の奇跡だって、そうなのかもしれないわ。奇跡を目の当たりにした民衆はイエスこそユダヤ人の王になると思った。自分たちをローマのくびきから解放してくれると思った。奇跡はその予兆なのだと。我々の希望なのだと。けれどもその思いは裏切られるわ。イエスはそんなことを考えていなかった。使徒だってそんなイエスを裏切るわ。ユダはイエスを売り、ペテロはイエスを三たび、そんな男は知らないと言って否定するんだもの。誰も主の本当の御心を理解しようとしなかったのね。でもね、奇跡なんてものがなければ、誰も最初っから期待なんてしなかったんじゃないかしら。絶望なんてしなかったんじゃないかしら。奇跡は神の御業じゃない、悪魔の所業なのだ……誰の言葉だったかしら。ドストエフスキー?

 リューシカは一花の言葉を否定したい。したかった。でも、できなかった。

 主の奇跡はどんなにつらい世の中でも神様が決してわたしたちを見捨てていないという、そのメッセージなのだと、救いの先取りなのだと、わたしたちの希望なのだと。そう言い返したかった。でも、できなかった。だってリューシカはもう、そんなことを少しも信じていなかったから。これっぽっちも信じていなかったから。

 リューシカの悔しそうな顔を見て。

 一花がニヤリと笑った。

 その生理痛は神様の奇跡なのかしら? 痛みと苦しみはあなたの希望と救いなのかしら? ねえ、リューシカ。思い出して。どんなにつらくても、誰も助けてくれなかったでしょう? あなたは絶望しただけだったでしょう? あなたに与えられたのは屈辱と薄汚い男の精液だけ、あなたに授けられたのは神様の罰と呪いだけ……本当はそう思っているのでしょう?

 雪がちらついている。

 風が強くなっている。

 どれだけの時間が経っていたのだろう。わからない。リューシカにはもう、なにもわからない。

 そして、ゆっくりと花の首に手をかけた。


 ありがとう。


 花の唇が、そんなふうに動いたように、リューシカには見えた。

 ゆっくりと、ゆっくりと、力を込める。想いを伝えるように。愛おしい気持ちと絶望を伝えるように。ゆっくりと。


 ありがとう。ありがとう、ママ。


 花の唇が、そんなふうに動いたように、リューシカには見えた。

 ごきん、と手の中でとても嫌な音がした。なにかが壊れる音がした。取り返しのつかない音がした。花のただれた唇から、こぽこぽと真っ黒い血が溢れた。

 リューシカは泣きながら花を見下ろしていた。自分が殺してしまった、自分の子どもを見つめていた。

 でも、

 ……ママ、なんて、呼んで欲しくなかった。

 最後に一言、リューシカって、名前を呼んで欲しかった。

 リューシカは泣いていた。花の首を締めながら、泣き続けていた。


 これは罰。

 これは呪い。

 ……誰の?

 誰がリューシカを罰するのだろう。

 誰がリューシカを呪うのだろう。


 波の音が聞こえる。

 粉雪が舞っていた。

 本来ならばもうすぐ曙光が射す時間。けれども空は分厚い雲に覆われている。夜が少しだけ薄くなった色をしている。

 花の瞳に雪が映っていた。

 もう、見えていない瞳に。光を宿していない瞳に。

 リューシカは、そっと、花の喉を締め上げていた指を外した。一本ずつ、ゆっくりと。

 花の頬に水滴が落ちる。リューシカの涙がぽたりぽたりと落ちていく。

 手は瘧の患者のように震えている。指を組み、両手をあわせる。それはまるでなにかに祈るように。震えは止まらない。硬く握りしめあう。それは祈る姿そのものに見える。

 祈り?

 祈りなのだろうか。

 わからない。リューシカにはもう、なにもわからない。

 寂しい。

 ただ、寂しいだけ。

 ボサボサの髪。目の下の隈。痩せこけた頬。土気色の唇。かつて美しかったリューシカの面影はどこにもない。ううん。違う。そんな姿になっても……リューシカは美しい。そこにいるのは、ただのひとりの、打ち拉がれた小羊の姿だった。

 心が寂しさに食われていく。食い殺されていく。真っ黒なコールタール状のなにかで塗り潰されていく。寂しい。寂しくてたまらない。

 上着のポケットから手帳が落ちる。

 落ちた拍子にほつれていた糸が切れ、紙はばらばらになってしまう。リューシカはのろのろと手を伸ばす。何枚かの紙が風に吹かれ、海とは反対側の山の方へ、飛ばされていく。紙片に向かって左手を伸ばす。届かない。左手首には無数の切り傷。痛々しいリストカットの跡が見て取れる。小指も根元からなくなっている。紙片が明け切らぬ夜のしじまに消えていく。

 リューシカはそれを呆然と見ている。

 ただ、見つめていた。


 襲ってきたのは激しい空腹感だった。

 喪失という名の、魂を貪り喰うような激しい飢えだった。

 リューシカの手が震えている。喉を押さえる。灼けるようだ。苦しい。つらい。……寂しい。黒々とした水が胸の中に溢れる。

 リューシカはもう一度花に触れる。花だったものに触れる。やわらかい。硬い。わからない。リューシカにはもう、なにもわからない。アケロンの川は決壊し、濁流となってリューシカを押し流す。

 爪を立てると腐りかけた花の皮膚がゆっくりと裂けていく。黄色い脂肪が見える。真っ黒い血の向こう側に白とピンクの腹膜が見える。リューシカはそれを指で突き破る。ほのかに湯気が立っている。ああ。花のお腹の中は、まるで宝石箱みたい。


 リューシカは唾を飲み込む。


 そして、食事が始まった。


 甘い。

 愛おしく、美味しい。

 両手が腐った真っ黒な血で染まっていく。これはどこの部分だろう。熟した柿のように、もはや原形を留めていない。肺のぷちぷちとした感触も、なかなか噛み切れない小腸も、全部、全部愛おしい。甘い血の詰まった心臓も、苦い液の詰まった膵臓も、全部、全部美味しい。

 ひとつになれた。

 やっと花とひとつになれた。

 完全にひとつになれた。

 リューシカは幸せだった。

 ……どのくらいそうしていたのだろうか。

 朝が来た。

 リューシカは自分のしていた行為を改めて見た。花であった残骸を見た。見てしまった。

 リューシカは知らなかったのだ。不可逆的な〝病気〟の進行を可逆的にする、ただ一つの方法を。

 それは、……愛する人を食べること。

 何度も、何度も。食べ続けること。

 そうすれば脳内の異常タンパク質は変性していく。治癒への可能性が示唆されている。けれどもなぜそうなのか、誰にもそのメカニズムはわからない。だからどんなに一緒にいたって、寂しさを埋めたって、この〝病気〟は治癒しない。治らない。それは本当の、本物の呪い。箱の底に残った希望であり、悪魔が差し出したホスティアだ。患者たちは本能的に知っていたのだ。

 花もそうだったじゃないか。

 リューシカも愛する花の遺体を食べたじゃないか。そして、今更ながらに気づくのだ。

 自分がなにをしたのかを。

 あ。

 ああっ。

 ああああああああ。

 リューシカの悲痛な叫び声が波の音に消されていく。魂の壊れるようなその声は、誰にも届かない。誰も彼女を見ていない。リューシカは嘔吐する。激しく嘔吐する。かつて花だったものを。花の体を構成していたものを。全部。胃の中のものを全部。……全部。

 それは救いなんかじゃない。奇跡なんかじゃない。一番大切な人を食べたって、あとに残るのは絶望だけなのだ。リューシカは泣いていた。壊れてしまった。リューシカの心はもう、自分の目に映るものに耐えられなかった。それが花であると認識するのを魂が拒んだ。だから。だから。だから。リューシカは探し始める。

 いなくなってしまった花を。


 花。花?

 どこにいるの? 出ておいで。

 わたしはここだよ。

 ……花?


 リューシカは立ち上がる。花の遺骸を抱いて。子供がぬいぐるみを抱きしめるように、しっかりと抱いて。靴が脱げる。構わずに歩く。裸足のまま。ゆっくりと。山の裾野に向かって。日記の断片を追うように。波の音に背を向けるように。リューシカは歩き始める。

 雪が降っている。

 ちらちらと粉雪が舞っている。


 花? どこにいるの? 出ておいで。

 帰ろう?

 一緒におうちに帰りましょう……ね?


 やがて雪は吹きすさぶ。嵐になる。伸ばした自分の指先も見えない。見えない方がいい。その指は血で真っ黒に汚れている。寒くはない。寒さなんて感じない。ただ、寂しい。寂しくて寂しくてたまらない。

 リューシカは歩く。花を探して。自分が殺してしまった、自分が食べてしまった子どもを探して。

 リューシカの足跡を降り積もる雪が消していく。まるでなにもなかったかのように。

 リューシカの足跡が消えたあとも……花を探し求める声が幽かに、どこからか聞こえていた。

 山の中。林の中。わからない。もう、誰にもわからない。


 花。

 ……花?

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リューシカお願い、わたしを殺して。 月庭一花 @alice02AA

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