2013・12・24・(火)
兆候はあったのかもしれない。
リューシカは混乱する頭でそう考える。あの旅行のときから兆候はあったのかもしれない。指先が震える。呼吸するのがつらい。どうしよう。どうしたらいいんだろう。旅行。あの日の旅行……なにを食べた? 電車の中でいったいなにを食べたのだっけ。
そうだ。おむすび。卵焼き。大根のべっこう煮。それから、それから……でも、そうだ、みんな塩辛かった。リューシカは確かにそのとき、違和感を覚えた。小さな違和感だったから気にしなかった。他にもっと考えることがあったから、気づかなかった。けれども今になって、改めてリューシカは思う。旅行から帰ってからも花の料理は塩辛かった。花はそれに気づいていないようだった。リューシカは気づいていたのに。なぜ。なぜ?
その〝病気〟の最初の兆候は味覚を失っていくこと。食事に味がしなくなること。リューシカはそれを忘れていた。ううん。違う。違うと思いたかったのだ。だって、花の肌はあんなに冷たかったじゃないか。旅行の前からずっと、冷たかったのに……。
「大丈夫? 少し落ち着いた?」
休憩室に入って来たまどかが、心配そうにリューシカに訊ねる。リューシカはかぶりを振る。わからない。そんなことがあっていいはずがない。指先が震えている。落ち着かなきゃいけない。仕事に戻らなきゃいけない。そう思う。そう思うのに体が言うことを聞かない。無性に煙草が吸いたくなる。
「今日は帰った方がいいよ。当直師長にはわたしから報告しておくから。明日いろいろと手続きもしなきゃいけないでしょ?」
「いやっ」
リューシカは強くその言葉を否定する。手続き。手続き? それは入院の手続きのことを言っているのだろうか。このまま入院させなければならないのだろうか。そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。
「帰らない。花を、あの子をひとりにして帰れないわ」
リューシカは考える。どこで、どこで間違えた? 今日の一日を振り返る。どこに躓(つまず)くべき小石は転がっていた?
今日の朝。いつものように花が朝ごはんを作ってくれた。トーストと目玉焼き。サラダ。どれもこれも下味のついていないものばかり。リューシカは思い出す。花が自分のサラダにドレッシングを大量にかけていて、少しだけ注意した。
「今日は終業式だから早く帰ってくるね。リューシカは日勤深夜でしょう? リューシカも早いよね?」
「花。ちょっとドレッシングかけ過ぎじゃない? 体に毒よ?」
花は片手にドレッシングの瓶を持ったまま、きょとんとした顔で出かける支度をしているリューシカを見ていた。
「そう? なんか最近みんな薄味に感じちゃって。食欲もないし疲れているのかな。体が塩分を欲しがってるのかな。あ、そんなことよりもさ、今日はクリスマス・イヴだよ? 学校のクリスマス会なんて興味ないけど、リューシカと一緒に過ごす初めてのクリスマスはすごく楽しみ。今日の夜またお仕事なのはちょっと寂しいけど……でも我慢しなきゃね。わたしのために働いてくれてるんだもの。明日はずっと一緒にいられるんだもの、ね?」
いつもよりテンションの高い花の髪をそっと撫で、リューシカはごめんね、と呟く。そして自分も花の正面の席に着く。
「楽しみにしてくれてたのに、お仕事でごめん。わたしもなるべく早く帰ってくるから。ね?」
花は身を乗り出す。リューシカの唇に自分の唇を寄せる。テーブル越しにキスをする。舌と舌が絡まる。
「……不思議。リューシカのキスはとっても甘いのに」
「馬鹿なこと言ってないの。ほら、いつまでもパジャマなんか着てないで、早く支度しなさい。わたしの方が先に出るんだからね」
「なによ。朝ごはん作ったのわたしなのよ?」
花はちょっとだけむくれてみせる。けれどもすぐに相好を崩して。
「リューシカ、好き。大好きよ。だから早く帰ってきてね」
と笑いかける。
「もちろんよ」
リューシカは食べ終えたお皿を片し、玄関にかけてある車のキーを掴んで花に手を降った。遅刻ギリギリだったので急いでアパートを出た。そのとき、花はどんな顔をしていたのだろう。どんな表情だっただろう。思い出そうとしてもリューシカには思い出せない。いつもと一緒だった。たぶん、そうだったと思う。花のパジャマの柄が水色と白のチェック柄だったのはしっかりと覚えているのに。
花の学校の終業式はクリスマス会を兼ねているのだという。プロテスタントではミサという名称は使わないらしい。たしか……聖餐式というのだったかしら。クリスマスのミサ、ではなく、クリスマスの聖餐式。不思議。名前が違うだけで別のなにかみたいだ。そんなことを思いながら朝、車を走らせたのをリューシカは覚えている。
夕方。仕事から帰ると花はいなかった。
学校指定の鞄も制服も部屋にあったから、夕ご飯の買い出しかな、と思っていた。でもそれにしてはメールも入っていない。電話にも出ない。それもそのはずで、花のスマホは部屋に置きっ放しになっていた。リューシカはシャワーを浴びて、花を待った。けれども花は帰ってこなかった。
時間だけが過ぎていく。焦燥感だけが募っていく。警察に連絡した方がいいのだろうか。リューシカはスマホを手に取る。でも、なにもなかったらどうしよう。たまたまどこかに出かけていただけだったらどうしよう。でも、でも……。唇を噛み締める。あの事件のこともあって、リューシカは警察に相談するのを躊躇(ためら)ってしまう。時計の針を見つめながら、リューシカは一人きりの時間を過ごす。円卓の前に座り、まんじりともせずにいると、花の担任から連絡が入った。夜遅くになってしまってすみません。今日は無断でお休みされたようですけれど、どうかしたのですか。お風邪ですか、と。リューシカは咄嗟に返事が出来なくて、すみません、連絡もしないで、申し訳ありませんでした、と掠れた声で答えた。花が無断で学校を休んだ。学校を休んだ? そんな馬鹿な。だって、朝リューシカが家を出るときに花に支度をするように急かしたじゃないか。じゃあ、じゃあ、花は制服に袖を通すこともなく、学校をサボって、ふらりとどこかに出て行った……? リューシカの心臓が早鐘を打つ。息苦しい。脇の下に嫌な汗をかいている。わからない。わけがわからなかった。
仕事なんて休めばよかった。そうすれば少なくともあんな思いをすることはなかったのだ。でも、急に夜勤の交代要員なんて見つかるはずがない。そんなことわかりきっていた。時計の針が二十二時を指した頃、救急車とパトカーのサイレンが響いた。アパートの近くの大通りを緊急車輌が通り過ぎていく。耳障りだった。事件だろうか。交通事故だろうか。別にどっちだっていい。うるさいな、とリューシカは思った。気持ちがささくれ、イライラした。
リューシカは花に置手紙を残し、一睡もできないままもう一度勤め先の病院に戻った。駐車場に車を止め、警備員に挨拶をしながら足早に更衣室に入った。
そこにまどかがいた。彼女も一緒の夜勤だったようだ。
「あ、リューシカ。準夜でうちの病棟にひとり入院があったみたいよ。さっき当直師長にたまたま行きあって、聞いちゃったの。また若い女の子だって。やんなっちゃうわよね」
「そう、なんだ」
悄然とした声でリューシカは答える。
まどかはナースウエアに着替えながら、訝しげにリューシカの顔を見つめる。
「……なに?」
「あ、いや。なんだか随分疲れてるみたいだなって。わたしは今日深深だったからあれだけど、日勤帯でなんかあったの?」
リューシカはため息をつきながら首を横に振る。違うわ。と呟く。
「うちの子が帰ってこないの。今日……学校にも行ってなかったみたいで」
「そうなの? リューシカの引き取ったあの子、確か……まだ高校一年生って言ってたっけ? まあ、いろいろあるわよ。難しい年頃なんだから。帰ってきてもあんまり怒っちゃ駄目よ?」
そう言ってまどかは苦笑する。
リューシカは考える。そうだろうか。喧嘩なんかした覚えはない。叱った記憶もない。花だって待っているから早く帰ってきてって……そう言っていたのに。
「わたしにだって覚えがあるわ。遊び歩いてて親にぶん殴られたことの一回や二回。……そんなに心配しない方がいいよ。大丈夫。明日帰ったらきっとけろっとしてうちにいたりするわよ」
「うん。そうだよね。……ありがとう」
リューシカは無理矢理笑顔を作る。笑ってみせる。そうしないと自分の気持ちが折れてしまいそうだった。泣いてしまいそうだった。
まどかと連れ立って病棟に行くと、そこにはすでに相馬と柳田がいて、ワークシートのチェックを始めていた。
「今日のリーダー、俺だったから。もう勝手に部屋割り決めちゃったよ。俺とリューシカが
柳田が部屋割り表をペラペラと振りながらまどかとリューシカに愛想よく笑いかける。相馬は不思議そうにリューシカを見ている。
「……なに?」
「いや。なにかあったのかと思って。月庭さん、随分調子悪そうに見えるから。でも日勤のときはそんなじゃなかったよね。どっか具合でも悪いの?」
「え? そうなの? じゃあ、三嶋さんと個室側チェンジする?」
柳田が驚いたようにリューシカに訊ねる。見た目も茶髪で性格も少しチャラい所がある柳田だが、根は優しい。ちょっと軽率なだけだ。そんな柳田が心配そうな表情を浮かべている。
「大丈夫。保護室側でいいわ」
まどかが口を開きそうになるのをリューシカは一瞥して牽制する。余計なことは言わないで、と。
「それよりみやちゃんの方が調子悪そうな顔をしているわ。大丈夫なの?」
リューシカは準夜勤務だった美弥子の表情を窺う。美弥子は申し送りの準備をしながら青い顔で俯いている。唇の色もどことなく薄いように見える。
「え、あ。大丈夫です。もう、帰れますし」
そう言ってぎこちなく笑う。プリセプターのまどかがいるので緊張しているのかもしれない。
「ってみやちゃんは言ってるけど。……なんかあった?」
まどかが訝しげに準夜のリーダーである
「それがねぇ。二十三時半くらいだったかしら。運ばれて来た患者がひどかったのなんの。なんか自分で自分の顔をカッターナイフかなんかで切り刻んじゃったみたいで。もう血だらけでさ、傷が複雑で
「そうなの? それ、さっきまどかの言ってた若い女の子、なのかしら」
ちらり、とリューシカはまどかを見る。
「そうじゃないの? ったく、迷惑な話よね。死にたいならもっと別の方法にすりゃいいのに。そんな方法で死ねるわけないじゃん。まったくもう、迷惑かけんなっての」
まどかの口の悪さはいつもと変わらないが、リューシカもその通りだと思う。同情なんかしない。するだけ無駄だとわかっている。
「ほんとよ。ステリー貼るんだって楽じゃないんだから。今はロヒプノールで鎮静かけて胴四肢拘束、あとミトンね。なんか手も擦過傷だらけだったけど、いったいどこで暴れてきたんだか。あ、今だけ顔に包帯巻いてるよ。起きたら危ないから包帯は取っちゃわなきゃね。ま、あの様子じゃ明日の朝まで起きないと思うけど」
「了解。やれやれね」
まどかがため息をつき、美弥子の頭をポンポンと撫でる。
「お疲れ様。大変だったね。帰ったらよーく休むんだよ?」
「はい。ありがとうございます」
相馬がそんな二人の様子を微笑ましく見ている。いつもだったらリューシカもそう思って目を細めていただろう。でも、今日はうまく笑えない。うまく表情を取り繕えない。リューシカの笑顔はどこかぎこちない。花のことが気がかりでたまらないのだ。
「その子、女の子だからリューシカの担当にしてあるから」
柳田からワークシートを受け取りながら、リューシカは頷く。名前を確認すると『
「これ、本名?」
「あ、それ仮の名前。名前のわかるものを所持してなかったみたいで。身元不明なの。ですよね?」
柳田が真奈美に訊ねる。
「うん。所持品はそこにあるだけ。ピアスと指輪と血だらけのパジャマだけだって、警察の人も言ってた。歳は中学生か高校生くらいみたい。それにしては左手薬指に指輪なんかしちゃって、いったいなんなのかしら。ずっと大事そうに片方だけのピアスを握りしめてたし。あ、緊措だから明日か明後日には本鑑定やると思うけど。それまでには身元もわかるんじゃない?」
「またあの〝病気〟かな」
相馬が訊ねる。
「あのゾンビみたいに腐っちゃうやつ? 勘弁して欲しいっすね」
柳田がそれに追従して合いの手を入れる。
「腐るのもやだけど大暴れするのがなー。あれ、嫌なんすよねぇ」
「パジャマ姿で長時間うろうろしてたみたいで低体温気味だったけど。体温が低いってだけじゃあの〝病気〟かどうかわかんないし。なんとも言えないわ」
真奈美が口を挟む。
「ま、ちゃんと飯が喰えればシロかもしれない、っすよ」
確か王寺の小説にもそんな台詞があったような気がする。柳田も『ステーシーの為の鎮魂歌』を読んだのだろうか。死してゾンビ化した少女は食事が摂れない。人間の食事は味がしないのだ。人間の血肉にしか味を感じないのだ。
リューシカは三人の会話を尻目にカートに乗せられていたビニール袋を見つめた。血で真っ赤に汚れたパジャマが入っている。違和感。そのときリューシカが感じたのは微かな違和感だった。
パジャマの柄は水色と白のチェック柄。
水色と……白のチェック柄?
リューシカは慌ててカートに駆け寄る。ステンレスのカートがガシャンと大きな音を立てる。周りの目が一瞬リューシカに集まる。美弥子と一緒に静かに申し送りの準備をしていた、残りの二人の準夜勤者である
細い金の鎖のついたピアス。先端にはロイヤルに近い蜂蜜色の琥珀が光っている。
カラーの花をモチーフにした金色の指輪。恐る恐る指輪の内側を見つめると、そこにはRとHの頭文字。
まさか。そんな。ありえない。そんな馬鹿なこと……あるわけがないじゃない。だって、だって。花がいなくなったのは……もっとずっと前のはずだ。パジャマ姿で外をうろついていたなんて、ありえない。
「月庭……さん? どうしたんだ? 顔が真っ青だよ?」
最初に異変に気づき、リューシカに声をかけたのは、相馬だった。
「ねえ、どこで? どこでその子は保護されたの?」
「どうしたの? 急に慌てちゃって」
芙由が小さな声で訊ねる。
「いいから答えてっ、早くっ!」
リューシカのきつく激しい口調に真奈美が慌ててカルテをめくる。リューシカと真奈美以外の六人の視線が交錯する。リューシカを戸惑いの表情で見つめている。
「え、と、ちょっと待って。警察から事務当直へのインテークだと……」
真奈美が口にしたのはリューシカのアパートから車でなら程近い場所。ただ、徒歩圏内でもある。リューシカの足が萎えそうになる。でも。リューシカはそれでも思う。認めたくないと思う。だって花が見つかったのなら、保護者であるリューシカに連絡がないのはおかしい。おかしいはずだ。でも。疎通も取れないくらい花が暴れていたとしたら。口もきけないくらい花の容態が悪かったとしたら。それに指輪は? ピアスは? ……駄目だ。まだだ。確かめなきゃ。リューシカは逸る気持ちを抑えながら、急ぎ足でナースステーションを出る。心臓が壊れそうになるくらい胸の中で暴れている。喉がカラカラになっている。目の焦点があわない。
花。
……花?
リューシカは思い返す。走りながら。あの日の旅行のことを。旅行の日の夜のことを。
「——リューシカ。お願いがあるの」
情事のあと。裸のまま。花がリューシカにぽつりと呟いた。
「なに?」
泣きはらした真っ赤な目で、リューシカは花を見ていた。花の味が口の中に残っていて、花の指の感触が体の中に残っていて、全身が気怠かった。
「わたしの耳にピアスを開けて欲しいの」
「……え? 今?」
リューシカは体を起こす。乱れた灰色の髪がさらさらとゆれた。
「今がいいな。今日の記念に。ピアスの穴をわたしにつけて」
花はそう言ってリューシカの髪を優しく撫でる。
「でも、ピアッサーもないわ。どうやって?」
「わたし、安全ピン持ってるし。それに消毒薬ならフロントで貸してくれると思う。あとは備えつけの冷蔵庫に氷は入っているし。うん。問題ない」
「でも、だって」
リューシカは躊躇する。
「お願い。リューシカにして欲しいの。リューシカに開けて欲しいの。ね?」
「ん……わかった。待ってて。消毒薬があるかどうか訊いてみるから」
リューシカは起き上がり、下着をつけ、くしゃくしゃになった浴衣に袖を通す。丹前を羽織る。
「もったいない。裸のままでもいいのに」
「……馬鹿。裸のままフロントに行けるわけがないでしょう?」
リューシカは苦笑する。フロントに電話をかける。
「あるって。ちょっと取ってくるね」
「うん。待ってる」
リューシカは花を残してフロントに降りていく。花とリューシカの部屋は二階にある。藤の間、と部屋の入り口に書いてある。
廊下の大きな振り子の置き時計を見ると、時刻はもうすぐ十一時になるところだった。リューシカは歩く。ふわふわする。まるで自分の体じゃないみたいに。部屋の外は肌寒いくらいなのに。まだ体が火照っていた。寒さを感じなかった。花とのセックスは気持ち良かった。気持ち良すぎて怖かった。
フロント係りの男性にリューシカは藤の間の者ですが、連れがちょっと切り傷を作ってしまって、と話しかける。ボサボサだろうな、と思って髪を軽く指先で梳く。
「そうでしたか。明日にでもお戻し下されば結構ですので」
そう言って男はオキシドールの容器をリューシカに渡す。
「ありがとうございます」
リューシカは頭をさげる。
部屋に戻ると花は裸のまま、ぼんやりと天井を見上げていた。そこになにかあるのだろうか。一瞬リューシカも天井を見上げる。なにもない。電燈と木目の綺麗な
「ただいま」
リューシカは花に声をかける。
「おかえりなさい」
天井を見たまま、花は呟くように返事をする。
「いつまでもそんな格好してると風邪をひくわ」
リューシカが
「なにかいるの? 虫?」
リューシカはもう一度天井を見上げる。
「……なんでもない」
「そう? それよりもほら。消毒液を貰ってきたわ」
手に持ったオキシドールの容器を振ると、しゃこしゃこと音がした。液体のゆれる音だった。
花はそれでもまだ、裸のまま布団の上に座っている。
「ねえ」
花がリューシカに訊ねる。
「リューシカのピアスの穴、左側だけだよね? なら、わたしは右側に開けてもらおうかな。いい?」
「いいけど……本当にやるの?」
リューシカは再び、少しだけ躊躇する。情事のあとの花の体は妙に艶かしい。リューシカは思わず目を逸らしてしまう。あの体のすべてに指先が触れたというのに。あの体のすべてに舌を這わせていたというのに。あの体は全部、リューシカのものなのに。
「やるよ。今ね、氷で耳を冷やしていたの。痛くないように。血があんまり出ないように。ほら」
そう言って少しだけ濡れた手で。花はリューシカの頬に触れる。冷たい。まるで氷のようだ。リューシカは身震いして、慌てて花の手から逃れる。
「や、ちょっと冷たいじゃない。急に触ったらびっくりするでしょう?」
「ふふっ」
花が笑う。
「ねえ、リューシカ。あのピアス、リューシカが大切にしているあのピアス。いつか一緒に着けようねって、言ってくれたよね。……わたしに頂戴。わたしを傷つけて。わたしに穴を開けて。リューシカだけのものにして欲しいの。……お願い」
「花」
リューシカは裸の花を抱きしめる。その肌は冷たい。雪のように冷たい。リューシカは驚き、そして不思議に思う。情事の最中も思っていた。自分は汗をかいているのに、どうして花の肌はひんやりしているのだろう、と。
「こんなに冷たい。ねえ、花。風邪をひくからなにか羽織りなさい」
「ううん。いいの。大丈夫。……寒くないから。だって、リューシカがそばにいてくれるんだもの。ね? それよりも、ほら。早く……して?」
リューシカは意を決したように花から安全ピンを受け取る。オキシドールを吹きつけて先端を消毒する。耳の表面もオキシドールを浸したコットンで拭う。本当にこんな程度で消毒になるのか怪しく思う。化膿したらどうしよう。リューシカは心配になってくる。
「早く」
花が目を閉じる。
リューシカは意を決したように花の耳に安全ピンの先をあてがう。花の耳朶は氷で冷やしていたせいで、氷そのもののように冷たい。指先が震える。手のひらに汗をかく。怖い。こんな綺麗な耳を傷つけるのは、怖い。
「やっぱり怖い」
リューシカは小さな声で呟く。
「わたしの方が怖いよ。でもいいの。リューシカだから。信じているから。大丈夫。やっていいよ」
「じゃ、じゃあ、三、二、一、で行くよ」
「うん」
三、二、一。
リューシカは小さな声で呟く。
花の耳に安全ピンを突き刺す。一瞬、ビクッと花の肩が震えた。眼を瞑り、唇をぎゅっと引き結んでいる。なにかを堪えているように。なにかに耐えているように。
安全ピンが耳を貫通した。
「……痛くない?」
「それほど。思ったよりも痛くない。ちょっと痺れる感じがするけど。でも、大丈夫。大丈夫だった」
花がギュッと瞑っていた目をゆっくりと開く。涙目になっている。本当は怖かったはずなのに。無理していたのが丸わかりの表情だった。
そんな花を、リューシカは愛おしいと思う。出しておいたピアスの箱を引き寄せる。そっと蓋を開ける。安全ピンを抜き、代わりにリューシカの母の形見のピアスを花の耳につけてあげる。血は少ししか出ていない。金色の鎖が蛍光灯の光を受けて艶めかしく光っている。その先にゆれているのはロイヤルに近い蜂蜜色の琥珀。
——元々この琥珀は左右二つで一つの石だった。中には東欧の城が閉じ込められていた。永遠に続く冬の森が閉じ込められていた。もちろん、二人はそんなことを知る由もない。琥珀が割れて、崩壊した世界はどうなったのか。リューシカも、花も、誰も知らない。誰にもわからない。
「……似合う?」
花がリューシカに訊ねる。
「似合ってる。可愛い」
リューシカが微笑む。
「ありがとう。大好き。リューシカが大好き」
花の瞳に涙が浮かぶ。ぽろぽろと溢れて部屋の中を真珠のような水滴でいっぱいにする。リューシカは花の涙に溺れそうになる。
「わたしも。わたしも花が好き。ずっと、ずっと一緒にいて欲しい。永遠に一緒にいて欲しい。……愛してるわ」
リューシカは保護室の扉を開ける。思わず息を飲み込む。室内に入るのを躊躇してしまう。ベッドにくくりつけられるようにして眠らされているのは、……女の子だった。女の子なのは見ればわかった。ただ、顔全体に包帯が巻かれ、点滴がつながり、尿道にバルンカテーテルまで挿入されているその少女が本当に花なのか、リューシカにはよくわからない。手には自傷防止のためのミトンが装着されている。スタンドに吊るされた点滴から、薬液がぽたりぽたりと少しずつ、少女の体に流れ込んでいた。
「花?」
リューシカは声をかける。少女は目を覚まさない。薬で眠らされているのだ。そんな程度で起きるはずがないのだ。
「花なの?」
リューシカは少女に近寄る。顔を覆う包帯を取り外そうとする。血の滲みたガーゼの下に傷だらけの皮膚が見える。もっと。もっと見なきゃわからない。ガーゼをめくる。傷だらけでも、腫れあがっていても、見間違えるわけがないのだ。それが花ならどんなひどい傷を負っていても、リューシカには花だとわかるはずなのだ。女の子の顔が少しずつ露わになる。リューシカの目が大きく見開かれる。
花。
……花?
「ちょ、待って。なにしてんのっ。リューシカ、リューシカやめなさいっ」
遅れて保護室に入ってきたまどかがリューシカの腕を取る。そして小さく息を飲む。包帯を毟り取ろうとするリューシカの手は血塗れになっている。
「離してっ」
「っ、……離してじゃないわよ、馬鹿っ。冷静になりなさい。ねえ、この子があなたの子だって言うの? そうなの? こんなことして、違ってたらどうするつもりよっ」
「違わない。違わないの。花なの。この子はわたしの子なの。お願い。返して。わたしに返して」
リューシカの声が虚ろに響く。目の焦点があっていない。それでもまだ少女の顔に触れようとしている。正気じゃない。まどかはぞっとする。こんなリューシカは見たことがない。
「ま、待ちなさいってば。柳田っ、ちょっと見てないで早くリューシカを押さえてっ。……早くっ!」
相馬と柳田が脇からリューシカを取り押さえる。リューシカはじっと花の顔を見つめている。自分が押さえつけられていることにも気づいていない。譫言のように花の名前を繰り返している。
そのままリューシカは休憩室に連れてこられた。そのあと手を洗わされた記憶があるが、よく覚えていない。誰かがずっとつき添ってくれていた。美弥子だっただろうか、誰だったのだろうか。その人物も暫く前に出て行った。よく覚えていない。
リューシカは俯きながらソファーに座っていた。テーブルの上にはいつの間にかマグカップにコーヒーがなみなみと注がれていた。誰が淹れてくれたのだろう。わからない。リューシカにはなにもわからない。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。そんな思いばかりが頭の中で渦を巻いている。考えがうまくまとまらない。焦燥感に指先が震える。脇の下に嫌な汗をかいている。仕事。仕事しなきゃ。仕事に戻らなきゃ。でも、なにをしたらいいのだろう。花を置いて? 花をあのまま放置して? 仕事なんてできるのだろうか。ううん、できない。そんなことできるはずがない。
傷だらけの花の顔が目に浮かぶ。
血で汚れ、赤く腫れあがった花の顔が目に浮かぶ。
自分で自分の顔を切りつけた?
なぜ?
なぜ花はそんなことをしたの?
どうして自分の顔を傷つけなきゃいけなかったの?
あんなに、リューシカが帰ってくるのを楽しみにしてるって、言っていたのに。一緒にクリスマスを過ごそうねって、そう言っていたのに。
なぜ。
なぜなの? ……わかんないよ。
「大丈夫? 少し落ち着いた?」
休憩室に入って来たまどかが、心配そうにリューシカに訊ねる。リューシカはかぶりを振る。
「今日は帰った方がいいよ。当直師長にはわたしから報告しておくから。明日いろいろと手続きもしなきゃいけないでしょ?」
「いやっ」
リューシカは強くその言葉を否定する。
「帰らない。花を、あの子をひとりにして帰れないわ」
「そんなこと言ったって。緊措なんだよ? 緊急措置入院だよ? 本鑑定が済むまでは親がどうこう言ったからって、入院が取り消しになるわけじゃないのは……リューシカだってわかってるでしょ? 精神科の看護師なんだから」
リューシカは俯いている。そんな説明が耳に届いているのかどうかも判然としない。
まどかはため息をつく。
「まだ本鑑定で措置になるって決まったわけじゃないし。医保ならリューシカの同意で退院だってさせられるでしょ? 第一、あの状態の彼女を連れ帰ってどうするつもりなのよ? 点滴、バルン、胴四肢拘束、ミトン。フルコースなのよ? 点滴にはリントンだって入っているの。今治療の真っ最中なの。あの子がなんでこんなことをしでかしたのかもわかってないの。リューシカ。わかるでしょ?」
「もし、もしもあの〝病気〟なら」
リューシカはキッとまどかを睨みつける。
「花は死ぬわ」
まどかもリューシカを睨みつける。
「じゃあ、リューシカなら助けられるっていうの? なによ、なんなのっ。思いあがってんじゃないわよっ」
かちゃり、と休憩室の扉が開く。
顔を覗かせたのは相馬だった。
「ちょっと、声が大きいよ。三嶋さん、外まで聞こえてる。何時だと思ってるんだ?」
「あ……すいません」
まどかが悔しそうに下を向く。
「月庭さん。……あの子を連れて帰りたい?」
相馬が優しい声で訊ねる。リューシカは不思議そうに相馬の顔を見つめている。
「もしも本当にそうしたいのなら……連れて帰ってあげなよ」
「な、ちょっと、なに言ってるの、相馬さんっ」
まどかが慌てて立ち上がる。
「さっき、あの子の顔の処置をしてきた。でももう、壊死が始まってる。体温も異常なくらい低かった。まるで雪に触ってるみたいだったよ。……月庭さん。わかるよね」
惘然と相馬を見つめていたリューシカの瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
嘘。
嘘だ。
……そんなの、嘘に決まってる。
「彼女たちは寂しいんだ。寂しくて寂しくてたまらないんだ。だから人を襲うんだよ。閉じ込めておけばそりゃ被害は出ないだろうさ。けどね、それは治療じゃない。そんなのは治療じゃないよ。ねえ。月庭さん。……一緒にいてあげなよ。その方が幸せだと思う」
「……相馬、さん」
「でも、彼女が人を襲ったら。それは月庭さん。あなたの責任だ。あなたの負うべき罪だ。……だからそうならないように、あの子をの寂しさを、あなたが埋めるんだ」
「相馬さんっ、ちょっと、なに焚きつけてんのよっ。ねえ、わかってんの? 今のリューシカは正気じゃないのよ? そんな彼女にあんたはいったい……」
まどかが相馬の胸ぐらを掴む。
「自分の子どもがさ」
ぽつりと相馬が呟く。
「え?」
「……あんなふうに死ぬのは嫌だなって、思っただけだよ」
相馬の子どもも連れ子だったはずだ。まどかはのろのろと相馬の襟から手を離す。バツが悪そうに窓の外を見つめている。子どものいないまどかには、二人の心情はわからない。
「あとはこっちでなんとかする。でも、……無理そうだったら月庭さんが勝手に連れてったことにするけど。それでもいいかな」
リューシカは頷く。
まどかはずっと窓の外を睨みつけている。なにも言わない。止めたりもしない。
リューシカは花を背負って病棟を抜け出た。今はなんとかすると言った相馬の言葉を信じるしかない。でも、もしかしたら看護師を辞めることになるかもしれない。本当にこれが正しいことなのか、間違っているのか、リューシカにもわからない。
自分はもしかしたら大きなミスをしたのかもしれない。取り返しのつかないことをしたのかもしれない。そんな思いが去来する。
花の肌は屍体のように冷たい。雪のようだと言った相馬の言葉はあながち嘘ではなかった。
「花?」
そっと肩越しにリューシカは話しかける。返事はない。花は深い眠りに落ちている。真新しい包帯に巻き直され、表情は窺えない。消毒液の匂いがする。血の匂いがする。
リューシカは車の助手席に花を移す。手が痺れている。汗をかいている。白い吐息が闇に溶ける。寝ている子は重い。力の抜けた子は重い。改めてリューシカは知る。子どもの重みを。人の重みを。
静かに駐車場から車を出す。病院の敷地から出る。ほっと胸を撫でおろす。花は身動き一つしない。リューシカはサイドミラー越しに病院の建物を見つめる。薄い水色をした、三階建ての建物を。
リューシカがその病院を見たのは、それが最後になった。
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